第六章 一節「ナンバーシリーズ」
「止まっちまったよ。そんなはずはないんだけどな」
男の声にヨハネはハッと我に帰った。
周囲を見渡すと白亜の内観が視界に入る。グレンタウンの化石研究所である。国際警察であるヨハネは滞在日数を正確に記録しなければならない。そうでなければ資格を剥奪されてしまうのだ。不明瞭な金の動き、または自身の動きがあれば即座に口座は止められ、移動さえも儘ならない事態になってしまう。
これは首輪だ、とヨハネは感じていた。あらゆる地方での特権を許す代わりに、その行動の一つ一つでさえも自由でない。国際警察は傍目に見れば自由自在に動いているように見えるだろう。
しかし、その実はきちんと行政の手順を踏み、その地方での滞在期間をきちんと計算し、その滞在期間を超過するようならば更新の手続きを行う。ヨハネはあと数日でカントーでの滞在期間が切れるところだった。しかし、今カントーを離れるわけにはいかない。
額に浮いた汗の玉を拭き取る。ふたご島から高速艇でグレンタウンに渡って二日。滞在期間の延長のためにヨハネはグレンタウン内での役所に相当する化石研究所を訪れていた。
荒い息を漏らしながら、ヨハネは左胸を押さえる。動悸がいつもより激しかった。クラックの能力をノア・キシベから手に入れてからというもの、どうにも体調の変化が激しい。食べ物も満足に喉を通らず、水でやり過ごしていた。
「駄目だ、警部殿。どうやら、この端末は壊れてしまったみたいです」
白衣の研究員が端末を叩く。滞在期間延長の申請を行おうとしたのだが、どうしてだか端末が言う事を聞かなくなったのだという。
「エラーしてるんですかね。ずっとこの調子ですよ」
研究員は端末の画面を見せた。そこには黒い画面に「3」という数字が延々と映し出されている。
「なら、他の端末で延長申請は出来ないのか?」
尋ねると、「そうですねぇ」と研究員は頭を掻いた。
「今すぐに延長申請をしなければまずいんですか?」
「ああ、出来るならば早く。そうでなければ私の任期が切れてしまう」
ようやくクラックの能力を手に入れたのだ。あとは、目的の場所を目指すだけなのだが、任期期間は残り三日。それでは心許ない。目的の時間までいられないのだ。
『金環日食を見よう!』とテレビからレポーターの声が聞こえてくる。研究員はちらりと視線をやって、「そういえば五日後に日食でしたっけ?」と言った。
「ああ、そうだな」
ヨハネは顔を拭いながら返す。その五日後までに自分はある場所に向かわねばならない。日食の力を受けて初めて、能力は完成される。クラックを奪ったのはその前準備だ。ノア・キシベの下にクラックの能力があったのでは起こり得なかった事である。
「カントー中がお祭り騒ぎですね。一番綺麗に見られるのは夕方らしいですが」
雑談を交わしながらヨハネは、「何とかならないのか」と詰め寄った。研究員は、困惑顔を浮かべている。
「どうしてだかエラーしてしまって。おい、他の端末はどうした?」
研究員が部下達に声を張り上げる。「こっちも駄目です」と彼らは頭を振った。
「何故か一斉にエラーして。誰かがウイルスにでも引っかかったのか」
研究員はヨハネの顔色を窺いながら、「すいません」と頭を下げた。
「ここじゃ、無理みたいです。明日来てもらえますか? そうしたら復旧しているかもしれないので」
出来る事ならば早くにグレンタウンを後にしたかったが仕方がない。ヨハネは頷いて、「お願いする」と言い置いた。
研究所の外に出ると涼しい夜風が吹き抜けた。グレンタウンは数年前には火山灰と土石流で埋没した島だったが、今は道路も整備され、本来あった施設も新設されている。
グレンタウン中心部には巨大な塔が立っている。活火山の熱エネルギーを変換し、本土へと送るための施設だった。
ゴゥンゴゥンという低い音程は騒音問題と重なっており、島民の中には反対運動に参加する者もいるという。そこらかしこには打ち付けられた看板があった。
曰く、「グレンタウンに元の自然を!」、「人工島計画反対!」などなど。しかし、活火山のせいでこの島は一度地獄の憂き目にあったのだ。それをもう一度というのは酔狂としか言いようがなかった。ヨハネは息をついて今夜の宿を探そうと考える。その時、パトランプの赤が視界の隅に映った。視線を振り向けると、警察車両と救急車が飛び込んできていた。無線に吹き込む声が宵闇に響く。
「こちらグレンタウン警察。十代前半と思しき少年が路上で倒れているとの通報を受け、駆けつけた。ショック状態にある模様。直ちに救護班を求む」
「見ろ! こっちの少年は何を思ったのか高速道路に身体一つで突っ込みやがった! お陰で一キロに及ぶ渋滞だ」
「それよりもこちらの少年の身柄の確保を頼む。所持品から身元が割れない。自分に火を放って倒れたところが民家だったみたいだ。延焼が三十メートル。レスキューを呼んでくれ」
それらの言葉をヨハネは黙って聞いていた。化石研究所の隣には病院があり、そこで処置を受けるようだ。救急車が続々と飛び込んでくる。
「血圧が極端に下がっている! ドクターを呼んでくれ!」
「輸血の準備を! 血が足りていない! 脈拍低下!」
喧騒の中をヨハネは歩み寄った。担架に乗せられて運ばれていく者達を見つめていると、コツンと何かが石畳の上に零れ落ちた。ヨハネが立ち止まっていると小さなアクセサリーが地面に落ちていた。血で濡れている。
イニシャルらしきものが彫り込まれている。ヨハネがそれを凝視しようと屈んだ時、不意に後ろから組み付かれた。顔を向けると、少年がぎらついた目を警官達に向けて口を開いた。黒髪を刈り上げており、げっそりと頬がこけている。
「てめぇら! 動くんじゃねぇ!」
少年の声に警官達がざわめいた。
「ショック状態の少年が動いたぞ!」
「凶器を持っている! 応援を!」
ヨハネはその言葉で自分の首筋にナイフが突きつけられている事を知った。少年が興奮した様子で叫ぶ。
「オレはてめぇらなんかに潰されねぇ! このどん底のカントーなんかによォ!」
「少年は過剰な興奮状態にある模様。麻酔銃の許可を」
警官達は少年の声とは正反対の落ち着いた声音で事態を俯瞰している。少年は、「おい! オレは動くな、と言ったんだぜ!」と指差した。
「嘗めやがって! ガキだからって何も出来ねぇと思ってんのか! ムカつくぜ!」
少年がヨハネの首筋を押さえて、「こいつを刺す!」と宣言する。
「少しでも動いたり、オレの要求通りに事が進まなかったりした時にはよぉ。刺すぜ。オレにはその覚悟がある」
少年の言葉に、「落ち着け」と警官達は説得する。その陰で別の警官が無線に吹き込んだ。
「人質事件が発生。繰り返す、十代前半の少年がナイフを持って成人男性を脅している。至急、応援を求む」
少年はその声に気がついたのか、「てめぇ!」と口から泡を飛ばした。
「オレの意見なんて聞いてねぇって事か! 聞く耳なんて持たないってわけかよ! ああ、決めた! こいつを殺す!」
少年がヨハネの首筋へとナイフの刀身を突きつける。ヨハネは手に握ったアクセサリーを眺めてから呟いた。
「……私は今、ノアズアークプログラムの中枢である、という事か」
「ああん? 何言ってやがる」
少年の脅迫めいた威嚇にも臆する事なく、ヨハネは言葉を継いだ。
「この世界は間違っている」
その言葉に少年は目を見開いた。ヨハネは自分の胸中が今までにないほど澄み渡っていくのを感じた。
「そう、誰かに教わらなかったか? あるいは、自分で思わなかったのか? どうしてこんな世界が目の前にあるのか。自分は、どうして、この世界を間違っていると感じたのか」
ヨハネの言葉に少年はうろたえたように視線を彷徨わせる。スッと手を翳し、ヨハネはナイフで自分の喉を掻っ切った。
血が迸り、警官達が、「あの野郎! やりやがった!」と色めいた。
「少年が人質を殺傷!」
その言葉に少年は戸惑いナイフを握った手を震わせる。
「ち、違う……」
「そう、違う」
ヨハネの放った言葉に少年は目を瞠った。ヨハネは首筋から血を流しながら応じていた。
「今の一撃は、偶然にも頚動脈に達しなかった。ただ首の表面を切っただけだ。力加減を誤れば、しかし、このナイフは無情にも私を殺すだろう」
ヨハネの眼が少年の眼を深く見つめる。少年は完全に狼狽していた。それでもヨハネの声は聞いているようだ。
「どうかな。ここで君は選択を迫られている。この場で私を殺すもよし、私の言葉に耳を傾けるもよし」
少年は今にもナイフを取り落としそうだったが、それでもヨハネから視線を逸らさなかった。ヨハネは、「選択は決まったな」と口にする。
「君に私は殺せないんだ。君は私の中にあるノアズアークプログラムを頼りにして引き寄せられた存在なのだ。君は天より使命を受けた、使徒の一人として」
ヨハネの言葉に少年は首筋を押さえていた手を緩める。
「この世界が間違っていると思うのならば、君は私と共に来る道を選ぶはずだ。それがナンバーシリーズの宿命なのだよ」
少年はヨハネから手を離し、駆け出そうとした。その道を阻むように銃弾が跳ねる。警官達が発砲したのだ。うろたえた少年はその銃弾を足に受けた。倒れ伏したのを確認した警官達が、「確保!」と声を張り上げる。
ヨハネは首筋を撫でた。傷は浅い。派手に血が出たが、それだけだった。喋るのに支障はない。
「そしてお前達は、自らの父親を知る事になる」
ヨハネはその場から立ち去った。手の中にあるアクセサリーを見やる。
「NOEL」と刻まれていた。
「祝福されし名前を持つ第一の使徒よ。目覚めの時だ」
少年は気を失っていた。自我の境界があやふやに浮かんでいる。黒点のように凝縮された夜空の中に一筋の流れ星を見た。それは自分の誕生を祝福しているのだと直感的に分かった。
「おい、こいつ、眼が赤いぞ!」
「救急措置を!」
意味を成さない言葉が流れる中、彼は自身の力を行使した。
「何が起こっているんだ……」
その変化に一番に気がついたのは先ほどヨハネに端末を見せた研究員だった。端末の修復作業を行っていると突然画面が暗転した。最初、本当に壊れてしまったのかと思い再起動をかけたが、それに応じる前に画面にメッセージが表示された。
〈Noah’s ark program ready……〉
研究員は怪訝そうに眉をひそめたが、実行されているのが明らかに不正なプログラムであると気づくと抗生プログラムを走らせようとした。しかし、それらの障壁を全て無効化して画面に表示されていた「それ」は目を醒ました。