第五章 十五節「籠の外へ」
『気づかれてはならない』
ホズミの声にカフカは首肯する。傍に緑色の髪の毛をした少女が蹲っていた。ロキである。
「今のところ、ロールはここに気づいた様子はありません。しかし、早期にノア・キシベが手を打たなければ。もう四日目です。ヨハネは逃亡の時間稼ぎのためにフェアリーロックによって彼女と、その周辺人物の時間感覚を操っている」
それを打開するにはノアのほうから自分達に会いに来てくれなければならなかった。自分達から動けば、もしロールに気づかれた場合「フェアリーロック」の餌食にならないとも限らない。
『ぎりぎりでロキをここに逃げ込ませられたのは僥倖だったわね。この外では、ノアとその周辺人物は永遠に交わらない時を生き続けている』
自分達は十三番通路の結界の中だからこそ、ロールのクレッフィの攻撃を受けずに済んでいる。カフカはロキへと目をやった。ロキは口を噤んでいる。
「いいか? 絶対に逃亡を意識するような事を言うんじゃないぞ。それだけが意識を繋ぎ止めるただ一つの方法だ」
ロキは頷いた。充分に聞かせている。物分りは悪くなかった。ロキは看守の姿で攻撃を受けたために不完全にしか効果はない。だが、既に二回ほど意識が飛ばされている。カフカとホズミの説明によってようやく理解したという風だ。
「厄介ですね。我々から攻撃を加えるわけにはいかない」
『不干渉を貫いてきたからこそ、ここに攻撃をしようとは思われていない。でも、カフカ。もし、ノアがここに気づいて、それを疑似餌に使おうと敵が画策しているのなら』
それは最悪の想定だった。ノアが気づいても終わり。逆に気づかなければヨハネは遠くに逃げおおせる。
「……せめて、ノア・キシベが相手の正体に気づいている事を祈りましょう」
それしかなかった。ノアが相手の思惑に乗らない事。それだけが自分達に残された希望だった。
カフカは予め取っておいた刑務所の看守リストに視線を落とす。
その文頭に「主任看守」の役職の後に名前があった。
ロール・マグドガル。ふたご島刑務所主任看守。
眠りに落ちて、目を覚ますとカレンダーが進んでいない事に気づいた。どうやら「フェアリーロック」の効果は継続しているらしい。翌日に駒を進める事も出来ない。永遠とも思える「この日」と繰り返しながらノアは対抗策を練るしかなかった。
腕に視線をやる。メモは継続している。身体の状態は前日から継続性が見られるようだ。「フェアリーロック」の効果圏内を確かめた事はないが恐らくは刑務所内全域。そうでなければ自分以外の囚人や看守がいつも通りの生活を続けている理由にならない。
否、いつも通りではない。意図的に操作された「この日」を繰り返している。ロールを目にする機会は少なくなかったが、ノアは意図して接触しないようにしてきた。その目を掻い潜って番人の下へと行かなければならない。ちらり、と小説家に視線をやる。欠伸を掻きながら小説のプロットを練っていた。小説家にも気取らせてはならない。状況から見てイシスやロキに関してもそうだろう。ロールはこの三人に罠を張っているに違いなかった。ならば、ノアはこの三人の力を借りずに番人へと辿り着かねばならない。今まで頼りにしてきた仲間の力が借りられないのは痛かった。
ノアは起き上がり監房の外に出て広場を見渡す。看守達は警棒を振り翳し、囚人達の一挙一動に目を光らせている。地下二階に行くには少しばかり手強そうだ。
〈キキ〉で黙らせる手もあったがあまり活発に動けばロールに悟られる。ノアはあくまで希望をなくして何もする事が出来なくなったように見せかけなければならない。無力感に打ちひしがれている様を演じ、その実では「立ち向かう事」を何よりも考えていなければ。
ポケットの中から紙幣を探り当てる。袖の下を渡して地下二階に行こうとしたが、あまりにも心許ない。だからと言って小説家やイシスに頼ろうとすればまたしても意識が飛ぶのは目に見えている。ノアは熟考の末に、あえて何度も今日を繰り返す手を選んだ。看守の配置を頭に叩き込み、その隙をつく。
もう「13度目の今日」を繰り返し、ノアは行動に移す事にした。看守達の目が離れる一瞬の隙。地下二階へとノアは身体を滑り込ませた。何度かこの行動に失敗して捕まっている。だからその分動きは迅速だ。地下二階、岩壁が聳える前へとノアは辿り着いた。
「番人なら。知っているはず」
一縷の希望を繋いで、ノアは壁の中へと入った。
ノアの行動は予見されているものだった。だからこそ、十回目を過ぎた辺りからは泳がせなければならない。
その後の行動にこそ、目を光らせるべきなのだ。
十回も「今日」を繰り返して何もかもを無駄だと悟ったか。それともその十回を無駄にせずに次へと希望を繋いだか。その希望の在り処はどこにあるのか。ロールは観察する必要があった。
だから、ノアが地下二階に向かう行動を取った時、それが彼女にとっての希望なのだと知った。決して諦めてはいない。それは同時に〈スプリガン〉による刑の執行を意味していた。
無限の今日を経験したノアは必ずその中で法則性と隙を見つけ出すだろう。その時こそ、ノアを無限の絶望へと叩き落す好機なのだ。
ロールは地下二階の壁に吸い込まれたノアの後姿を眺めて確信する。
「なるほど。そこに我々に仇なす逆賊が潜んでいるというわけか」
ロールは地下二階の岩壁へと歩みを進めた。
入った途端、ノアは身構えた影を見据えた。
〈キキ〉を繰り出して同じように構える。相手はカフカだった。
「カフカ……」
「今さらか。遅いぞ、ノア・キシベ」
その言葉にノアは確信する。カフカ達は「フェアリーロック」の効果範囲外にいるのだと。
「カフカ、ホズミ。それに……」
ホズミの傍で蹲っている影へとノアは注意を向けた。その怯えたような目がノアを映す。
「お姉ちゃん」
「ロキ……、あんたどうやってここに」
「クレッフィの効果がおよぶちょくぜんに、ここにいるお姉ちゃん達に連れてこられたの。でも、ロキにもわけがわからなくって……。クレッフィのトレーナーを、ロール・マグドガルを倒さなくっちゃ。そうしないといつまでもここに閉じ込められたままになってしまう」
「分かっているわ、ロキ。だからこそ、その方法を模索しようと番人に会いに来た」
ノアはカフカとホズミを見据えた。
「教えてもらうわ。どうすればクレッフィを倒して、この時の牢獄から抜け出せるのか」
その言葉にカフカが口を開きかけたその時、空間が脈動した。ハッとしてカフカがホズミを見やる。
「まさか……!」
『ええ。そうみたいね』
目線を交わし合った二人へとノアは問いかける。
「ねぇ、何が――」
「ノア・キシベ。お前、連れて来てしまったようだな」
――連れて来た?
ノアが不審がっていると背後から声が耳朶を打った。
「まさかこんなところに、隠し部屋があるなんて、な」
その声に振り返る。カフカが叫びを飛ばす。
「〈ザムザ〉! 押し潰してしまえ!」
「無駄だ。既に射程範囲に入っている」
壁から抜け出たロールの傍に鍵束が浮いている。クレッフィだ、とノアが認めた瞬間、その鋼の身体が電磁を帯びている事に気づく。
「電磁波でメタモンの動きを阻害している。これでこの隠し部屋は意味を失くすはずだ」
メタモンに包囲されていた部屋が形状を崩し始める。カフカが声を張り上げた。
「ノア・キシベ! そいつを戦闘不能にしろ!」
この場で戦えるのは〈キキ〉だけだ。ノアは即座に攻撃の声を上げた。
「〈キキ〉っ! ドリルくちばし!」
「リフレクター」
クレッフィの眼前に青い五角形の皮膜が張られる。それが二重、三重に連なって〈キキ〉の攻撃を減衰させた。
「そしてドレインキッス!」
攻撃の勢いが弱まった〈キキ〉へと向けてクレッフィが紫色の口づけを施す。その瞬間、〈キキ〉がよろめいた。まるで重大なダメージを負ったかのように。
「悪タイプにフェアリーの攻撃は効果抜群だ。そしてドレインキッスは体力を奪う事も出来る」
〈キキ〉が羽ばたきを弱める。ノアはすかさず応戦の声を弾かせようとしたが、その前に電磁波の網が〈キキ〉を捉えた。
「電磁波を〈キキ〉よりも速く……!」
「クレッフィの〈スプリガン〉、特性はお前ご自慢のヤミカラスと同じ、悪戯心。残念だな。お前達にあの人を追わせるわけにはいかない」
形状を完全に失った隠し部屋は岩壁が剥がれその内部を晒していた。もう逃げられない。
「ここにいる全員をフェアリーロックの呪縛に絡め取らせる。そうすれば、もうお前達は明日を迎える事もない」
クレッフィが妖しい光を帯びる。次の瞬間、攻撃が放たれると誰もが直感した。
――これまでか。
ノアは歯噛みする。ここまで来た意味も、積み重ねてきた戦いも、意味を失くすというのか。
その直前、緑色の光が弾けた。クレッフィの攻撃ではない、とノアが視線を振り向ける。
ロキがタブンネを繰り出していた。タブンネは指先をクレッフィに向けている。その指から光線が放たれたのだ。「シンプルビーム」だと、一度戦ったノアには分かった。
「今の攻撃で特性が単純になった。お姉ちゃん、今なら」
その声が及ぶ前にタブンネへと青い皮膜が投げ飛ばされる。皮膜がブーメランのようにタブンネとロキを切りつけた。ロキの腕から血が滴る。
「……余計な真似を。この小娘が!」
ロールの攻撃の矛先がロキへと向かおうとする。ノアはカフカへと声を張り上げた。
「カフカ!」
「分かっている! 〈ザムザ〉!」
隠し部屋を構築していたメタモンが復活し、ロールを背後から絡め取る。ロールが声を上げた。
「馬鹿な。麻痺状態からどうやって……」
「タブンネの特性は、癒しの心。自分以外の味方ポケモンの状態異常を回復させる」
ロキが痛みを押して声を出す。空間から一体のメタモンが飛び出し、ヤミカラスへと姿を変えた。
「行くぞ、ノア・キシベ」
「ええ」
ノアとカフカが踏み出す。ロールは呻き声を上げた。二人の声が重なる。
「「ドリルくちばし!」」
相乗した螺旋の攻撃がクレッフィへと直進する。ロールが声を張り上げた。
「リフレクターを五枚張れ!」
青い皮膜が即座に展開され「ドリルくちばし」の威力を減衰させる。カフカが手を振り翳す。
「〈ザムザ〉! 翼を変身させろ!」
その言葉を受け取ったメタモンはヤミカラスの翼を変異させ、水色のオーロラのような翼を顕現させた。ロールが目を見開く。
「何だ……」
「このふたご島にかつていたポケモン、フリーザーの翼だ。この翼ならば!」
ヤミカラスの動きが加速し「リフレクター」を突き破っていく。一枚、二枚と剥がれ落ち、霧散していく青い粒子を貫く。
「リフレクターを突破出来る。行け! ノア・キシベ!」
その言葉を受け、ノアは〈キキ〉へと声を飛ばす。
「〈キキ〉っ。全力でクレッフィを貫け!」
リフレクターの皮膜を突き崩したメタモンがその場に崩れ落ちる。それと交代するように〈キキ〉が前に出てクレッフィとぶつかり合った。クレッフィの鋼の表皮に亀裂が走る。
「馬鹿な。フェアリー・鋼だぞ」
「カフカが道を作ってくれた。あたしは、その行動に応じるまで」
〈キキ〉が螺旋を描き、全身を削岩機のように回転させる。クレッフィは既に懐に飛び込まれているせいでリフレクターが張れないようだった。
「クラック能力を奪われたくせに、どうして抗う。もう、全て無駄なのだと、どうして分からない!」
ロールの怨嗟の声にノアは、「いいえ」と答えた。
「無駄かどうかなんて行動してから付いて来るものよ。少なくとも、明日を奪って可能性を潰したら、それで終わりだなんて思わない事ね。それに、あたしはあたし。――お喋りは嫌いよ」
ノアが発した言葉に呼応するように〈キキ〉はクレッフィの鋼の表皮を貫いた。その嘴がロールの額へと突き刺さる。ロールが後ずさった。直後にカフカが声を出す。
「〈ザムザ〉。そいつを押し潰せ」
壁に背を預けたロールを岩壁が覆い尽す。ロールが断末魔の叫びと共に呪いの声を浴びせた。
「未来なんてない。お前達は、あの人の理想の前に潰える」
「だとしても、あたしは最後まで足掻く。その未来のために」
ロールが哄笑を上げた。その声が岩壁の中に吸い込まれていく。メタモンが押し潰したのだろう。嘘のような静寂が降り立った。
ノアが荒い息をついてその場に膝をつく。メタモンがすぐさまヤミカラスの形状を解き、カフカが声を出す。
「……行け」
その言葉に全ての感情が詰まっていた。ノアは立ち上がり、ロキへと一瞥をやる。ロキも首肯した。
「あたし達はここを出て行く」
突然の宣告にもホズミは表情を崩さなかった。菩薩のような微笑があるだけだ。
『行くといいわ。きっとそれが、あなた達の宿命なんでしょう』
ノアは身を翻す。最後に一声だけかけておきたかった。
「カフカ。あんた、あたし達と来ない?」
カフカが顔を上げる。意外な誘いに戸惑っているようだったが、すぐに顔を伏せた。
「……私にはホズミ様を守る義務がある。ここを離れられない」
ノアはホズミへと視線を向ける。ホズミはそれらの些事でさえ許している風であったが、カフカ本人が自分に戒めているようだった。
「分かった。でも、最後に一つだけ。さっきの戦い、あんたとも響き合えた気がした」
その言葉に彼女はもう何も言わなかった。無言の了承の内に、ノアは地下二階を後にした。
小説家には声をかけなかった。彼女はこの場所で小説を書く事を選ぶだろう。何よりも、それが彼女の心の幸せのためだとノアは感じた。少しの間だけでも心を交わし合った情もあったのかもしれない。
行きがけにイシスの監房に訪れた。
「どこへ行くんだ?」とイシスは問いかける。「フェアリーロック」の呪縛からは解き放たれたようだった。
「脱獄する」
ノアが発した短い宣言にイシスは目を見開いて、「何だって?」と聞き返した。
「本気だよ、お姉ちゃん」
ロキも続けて声を出す。ノアはふたご島刑務所に流れる空気を見据えるように目を細めた。
「この場所を超える戦いの連鎖があるかもしれない。それでも、あたし達は前に進む」
イシスは面食らったように黙っていたが、やがて頷いた。
「わたしも行こう」
ノアは中央広場に光を落とすステンドグラスへと視線を注いだ。あの光の向こう側へ。
明日があると、ノアは信じた。
第五章 了