第五章 十二節「ノアズアークプログラム」
面会室は相変わらずじめっとしていて薄暗い。
ノアは椅子に座っていた。対面にはリョウとルイがいる。ルイの姿は見れば見るほど自分の鏡像を前にしているかのようだった。ノアは髪の毛をいじる。髪の毛は白くなっていた。
「どこから話すべきか」
リョウが口を開く。ノアは、「全てよ」と応じた。
「どうしてあたしが投獄されたのか。どうして妙な能力が身についていたのか。どうして、ヨハネはあたしを殺すのではなく無力化しようとしていたのか」
「一度に答える義務のある質問が多過ぎるな」
リョウが腕を組んで呻っていると、「ボク達の目的から、明かすべきじゃない?」とルイが声を発した。リョウは頷いて、「だな」とノアを見つめた。
「監視カメラは」
「チャンピオンの権限で、この会話は聞かれない。もちろん、傍受もされない」
リョウが前置きしてからノアへと語り始める。唾を飲み下し、黙って聞いた。
「ノア・キシベ。俺達はカイヘン地方のヒグチ博士から頼まれて、お前を殺すために動いていた」
「どうして、殺すなんて」
「全てはお前の生まれのせいだ。キシベ、はもちろん知っているな」
ノアが首肯するとリョウは、「そのキシベが」と遠い視線を投げた。
「十年以上前から練っていた計画。ヘキサ蜂起よりもなお恐ろしい、ヘキサの計画が潰える事を前提として張っていたものがある。それがノアズアークプログラム」
「ヨハネも同じ事を言っていたわ。何なの、それ」
自分の名前が入った計画名にノアが疑問を浮かべる。
「本来、誰も知りうるはずのなかった計画だ。博士だってキシベの残した僅かなログを頼りに三年がかりで解析したものだからな。誰にも知られる事はなく、この計画は発動するはずだった」
「ボクとリョウは博士から、計画の概要を聞き、阻止しなければならないと動き始めた。十年前のヘキサ事件において当事者でカントーにいるのはボク達だけだった」
「ヘキサ事件……」
因縁の事件を口にする。カントーとカイヘンのパワーバランスが変わり、その後の運命を決定付けた重大事件。
「博士が解析したデータはこうだ。ナンバーアヘッドと呼ばれるRシリーズの個体が生き残っている。その個体の能力を使って完全な世界≠フ扉を開く。それは現行人類終焉のプログラムだと」
「完全な世界=c…」
ヨハネが求めているのはそれなのか。しかし、自分にあった能力はそのような大それたものだとは思えなかった。
「どうして、あたしの事をナンバーアヘッドって呼ぶの? そもそもRシリーズって何?」
リョウはルイへと目配せした。ルイは黙って頷く。今の仕草で無言の了承が行われたようだった。
「Rシリーズっていうのは、キシベの娘、ルナを基にした強化型のクローンの事だ。ロケット団がかつて開発に着手していた。だが、その大多数の個体が失敗し、残ったのはたった二体、R01とR01Bと呼ばれる個体だけ」
「そのうち一体が、ボク」
語られた真実にノアは瞠目していた。つまり、ルイは造られた人間だというのか。
「ボクは歳を取らない。Rシリーズの呪縛だね」
「じゃあ、不老不死……」
その言葉にルイは首を横に振った。
「そんないいもんじゃないよ。……大切な人と歳を取れないってのは」
その言葉には窺い知れない苦渋があるような気がした。自分如きが踏み入ってはならない領域だ。
「それに不死じゃない。Rシリーズは本当に偶然の産物だ。いつ、遺伝子崩壊が起きてもおかしくはない」
ノアはその言葉が導く先を口にした。
「じゃあ、あたしが、R01……」
「いいや、違う」
リョウは頭を振る。その言葉にノアは怪訝そうな目を向けた。
「辻褄が合わないじゃない。Rシリーズで生き残っているのはたった二体なんでしょう?」
「もう一人は俺の知り合いだ。お前は、Rシリーズのデータを基に改良された個体。Rナンバーシリーズ。ナンバーシリーズは歳を取るし、普通に生きている分には他人と変わらない。ただ一点、能力がある以外は」
その能力が常人と隔てられる部分なのだろう。ノアは、「それが、クラック?」と慎重に言葉を発した。リョウは頷く。
「クラックの能力は対象トレーナーとポケモンとの命令系統を阻害する。経歴を見る限り幸いにも今までポケモンと関わって来なかったお前には能力の発現はなかった。しかし、ヨハネはお前の能力を使うためにポケモンと接触させた」
それが〈キキ〉なのだろうか。ノアは自然と腰のホルスターに留めたボールへと手をやっていた。
「あたしの無力化を指示したのは」
「奴の目的がその能力の取得にあったからだろう。お前を殺せば永遠にクラックの能力は失われた」
「だから、あんた達はあたしを殺そうとしたのね」
ようやく合点がいった。リョウとルイはヨハネが推し進める計画を阻止するために動いていたのだ。
「もっと早くに来るべきだったが、お前の覚醒を待つ必要があった。いくらなんでも能力に目覚めていない人間を殺すのは人道にもとるからな」
ノアはリョウが人間という部分にこだわっている事に気づく。出来ればRシリーズの説明にも人間を使いたかったようだ。それはルイの存在が大きいのだろう。
「あたしが危険だと分かっていても、手が出せなかった」
リョウは頷き、「それに見定める必要があった」と告げた。
「見定める?」
「本当に世界に害のある能力なのかどうか。場合によっては、ヨハネじゃないが能力を封じ込める方法を探そうと思っていた。だが、俺達がこの場所に辿り着いたとき、お前の能力は完成の段階に入っていた」
それが酷い体調の変化だったのだろう。自分自身でクラックの能力を使おうとした事が全ての引き金になっていた。
「クラックの能力は、そんなに危険なの? あたしにはあんた達が急に動きを止めたように見えた」
相手の命令系統を乱すだけならば、大多数で動けば隙をつけるのではないか。ノアの考えを見透かしたようにリョウは、「危険だ」と口にする。
「特にポケモンとの同調に優れた人間ほど、な。強力なポケモントレーナーであればあるほどにクラックの能力は深刻な事態を招く。俺達が、動きを止めたように見えた、と言っていたな?」
ノアは、「ええ」と首肯する。リョウは一つ息を漏らし、「やはりか」と渋面を作った。
「どういう事?」
「ボクとリョウは、ポケモンと同調するほどの能力を持っている」
ルイの口にした言葉にノアは疑問を挟んだ。
「同調って、学会で眉唾物だって思われている現象でしょう? ポケモンと人間との垣根が消え、意思圏が拡大して反応速度が向上するっていう。そんな誇大妄想を信じるわけが――」
「だったら、お前は何を見ていた?」
遮って放たれた声にノアはリョウが命令なしにリーフィアを動かしていた事を思い返す。同時にリザードンが不可解な進化を遂げた事も。
「リザードンやリーフィアに」
「ああ、俺達は同調している」
リョウの言葉にノアは、「メガシンカってのも」と尋ねた。
「ポケモンと同調する事が出来る人間のみに許された進化を超える進化だ。ルイのリザードンと俺のフシギバナは、それが可能になっている」
ノアは目の前の二人が改めて強者である事を思い知った。この二人にかかれば並のトレーナーとポケモンなど赤子の手をひねるようなものなのだろう。チャンピオンという称号もさもありなんと思える。
「その同調能力を逆手に取れるのがクラック。命令系統を乱すというのはつまり、ボク達が当たり前のように使っている感知野の網が使えず、大幅なロスを生み出してしまう」
「同調が仇となる。熟練したトレーナーほど、クラックの能力の前では無意味だ」
ノアは、しかしとまだ疑問に思う事があった。クラック能力程度で何を変えるというのか。完全な世界≠ニやらは何なのか。
「でも、クラックを所持した程度で何が」
「変わるのか。それは俺達にも詳しくは分からない」
語尾を引き継いだリョウが額に手をやる。
「だけど、止めなければならない。キシベがこれを前もって計画し、ヨハネにそれを託したという事はそれが意味のある事だからだ。俺は断言出来る。キシベは意味のない事はしない」
それはキシベと直接対峙したかのような言い方だった。ノアは自身の父親でありながらキシベにそのような感情を抱く事はない。いや、そもそも自分には本当に父母などいるのか。リョウの話では自分もナンバーシリーズという人ならざる者ではないのか。
「あたしは、人間じゃないっての」
「……人間さ。お前も、ルイもな」
リョウはルイの前では絶対に作り物という言葉を使わないように努めているように映った。この二人は特別な仲なのだろう。恐らくは苦楽を共にして来たに違いない。
「あんた達は、これからどうするの?」
ヨハネは逃げ切った。クラックの能力がヨハネに定着したとなれば同調を使う二人では不利になるのではないか。
「当然、ヨハネを追う」
リョウは立ち上がった。ノアが顔を上げる。
「でも、ヨハネは痕跡を消した。この刑務所にいたっていう記録も」
「ああ、根こそぎ消されていた。看守達からの記憶からも、囚人の記憶からもな。それでこれが残されていた」
リョウがモンスターボールを机に置く。スリープのものだと知れた。
「返してやれ。お前の仲間に」
「〈インクブス〉から相手の目的は探れなかったの?」
「〈インクブス〉って名前なのか。残念ながらそのスリープから奴の目的地なんかは割り出せなかった。記憶を操る能力を持っているようだな。未だに手綱は奴にあるらしい」
つまり手がかりはなし。ノアはリョウ達が暗闇の中で必死に手を伸ばしているのが分かった。止めねばならないという一心で。
「俺達は行く」
リョウが身を翻そうとする。ノアは覚えず立ち上がっていた。ルイが視線を向ける。
自分はどうするというのだ。クラック能力も奪われ、自分に出来る事などあるのか。
「あたしも」
ノアは自分でも驚くほどに冷静に声を発していた。追うというのか。ヨハネを。
「やめておけ」
リョウの言葉にノアは目を向けた。憐れむでもなく、ただ事実を突きつけている顔があった。
「ようやくただの人間になれたんだ。今さら自分から危険を冒すような真似に出る必要はない。ノア・キシベ。お前は、呪縛から解放されているんだ。もう自由に生きていい」
自由。その言葉にノアは言い返したかった。自由などない。まだ何一つとして解決していないのだから。
「ボクも、同じ気持ちだよ」
ルイが出し抜けに発した言葉にノアは目を見開いた。赤い瞳が自分を捉えている。
「確かにあなたにはキシベの名前がまだ呪いのように圧し掛かっている。でも、ボク達が行くのは呪いの果て。ヨハネがやろうとしている事にあなたは偶然巻き込まれた。事故なんだよ。大人しくしてくれていればきっといい報せを送れる。だから、無理はしないでいい」
自分より明らかに年下の顔立ちでありながら、年長者の声音を滲ませるルイの言葉は重たかった。あらゆる苦しみを受けた赤い瞳には翳りがある。
「ノア・キシベ。お前の眼はもう赤くない。クラック能力は完全に奪い取られたんだ。白い髪は何とも言いようがないが、これ以上、俺達に関わらないほうがいい」
「でも、あたしは――」
「分からないのか。邪魔だと言っている」
遮って放たれた声の冷たさにノアは閉口した。リョウが面会室を出て行く。ルイもその後に続いた。
残されたノアは何も言えなかった。看守が出てきて独房へと誘った。
目の前に現れたのは緑色の髪をした少女だった。そのあまり幼さにリョウは目を見開いた。
「どうして子供が……」
「ロキもあの場にいました。その、お姉ちゃんは」
リョウはヨハネと戦った局面において真っ先に現れた看守の事を思い返した。あの看守もノアの事を「お姉ちゃん」と呼んでいた。
「まさか、看守なのか」
「あ、ええ。その、ロキにはこういう能力があるんです」
一瞬にして少女の姿が消え、青年看守が現れた。リョウが驚愕している間にすぐさま元に戻る。
「驚いた。変身能力だとは」
「その、ロキはお姉ちゃんの力になりたいんです」
リョウは理解した。このロキという少女もノアの仲間の一人なのだろう。しかし、とリョウは感じる。キシベという呪いの名に縛られ、クラックの能力を持つ事実に押し潰される事なく、ノアは仲間を作った。それがどれだけ偉大な事なのか、リョウには分かる。
だからこそ、彼女達にこれ以上苦しみの道を味わわせるわけにはいかなかった。
「俺達は行く。刑務所で待っていてくれ。この場所が多分、一番安全だ。ヨハネはもう出て行ったんだからな」
だからこそ、ノアを突き放す物言いをした。決してヨハネを追うような真似をする事のないよう。しかし、ロキは食い下がった。
「お姉ちゃんは苦しんでいるんです。ロキは何とかしてあげたい。ロキがすくわれたみたいに、お姉ちゃんを」
「だから、俺達は――」
「リョウ。ボクが」
遮ってルイが歩み出る。ルイは片手を差し出した。開かれた手に後ずさると、その手には石が握られていた。光沢のない、朱色の石である。その意匠は内部で炎が揺らめいているかのようだ。
「ルイ。それは」
「リョウ。この子達もあの時、ヘキサに抗ったリョウ達と同じ光を宿している。これをどう使うかは彼女次第」
石と共にルイは首から提げたペンダントを差し出す。真ん中に虹色の石をあしらったペンダントだった。
「これは……」
「必要になった時、この二つは意味を成す。あなたが持っていてあげて。多分、ノアを救えるのはあなただろうから」
ルイは微笑んだ。ロキは戸惑いながらその二つを受け取る。リョウはルイと共に歩み出した。
「……あれを渡して、どうする? もしもの時――」
「リョウ。ボクは守られてばかりじゃない。それに、ボクも託したいんだ。あの時、託されたみたいに」
幾分か強いルイの口調にリョウは発する言葉はないと感じた。こうなってしまったルイは強情だ。
「ヨハネがどこに行ったのか。感じられるか?」
クラックの能力をノアから奪ったのならば、覚醒時のノアを感知出来たようにヨハネの位置が分かるはずだった。ルイは、「ここから北へと向かっている」と呟く。
「北、だと」
「この方角にあるのは、トキワシティだよ」
という事はマサラタウンを抜ける方角を目指しているという事になる。リョウはまだ追いすがれると感じた。
「行くぞ。絶対に、ヨハネの思い通りにはさせねぇ」