第五章 十節「約束の言葉」
ノアには整理できない事が多過ぎた。
いきなり自分を襲ってきたリョウとルイの二人組。そして自分の敵だと思っていたあの人がその二人から自分を守ろうと言う。何を信じればいいのか分からなかった。
「ヨハネ警部。正気か?」
リョウが声を発する。ヨハネ、というのが名前なのか、あの人は応じた。
「正気も何も、あなた方こそ正気を疑う。刑務所で白昼堂々と人殺しとは」
ヨハネの言葉にリョウは鼻を鳴らした。
「それ、てめぇが言える事なのか? あんたの目的、そのためにジムリーダーのカスミを掴ませたんじゃないのか?」
リョウが左手で指差して糾弾する。ヨハネはふっと口元を緩ませた。
「驚いた。さすがはこの地方の王だ。審美眼は伊達ではない」
王、という響きにノアはリョウを見つめた。リョウは手を振り翳し、苛立たしげに口を開く。
「……ああ、そうだ。どっかで聞いたと思っていたてめぇの口調、やっぱりあのクソ野郎とそっくりじゃねぇか。キシベ!」
因縁の名前にノアがびくりと反応する。しかし、ヨハネは読めない笑みを浮かべるばかりであった。
「我が友人を侮辱するかね?」
――友人?
その言葉に疑問符を浮かべる前に、リザードンが襲い掛かってきた。爪の先端まで青い光を纏って全力で攻撃してくる。剣の形状をしているポケモンから放たれている緑色の皮膜がなければ今頃八つ裂きにでもしかねない勢いだった。
「ワイドガードは有効だ。逆鱗で無理に消耗させると、後が辛いぞ」
「黙ってろ! ルイ、あれをやるぞ」
リョウの声にルイは頷いた。リザードンを呼びつける。リザードンは激しく消耗していた。頭をくらくらとさせている。どうやら混乱状態にあるらしい。
「うん。行くよ、リザードン」
ルイが左手首を振り上げる。そこには黒いブレスレットがあった。中央部に虹色の輝きを放つ真珠が埋め込まれている。何だ、とノアが思う間にルイは右手の人差し指と中指を立てて真珠へと押し当てた。
その瞬間、周囲で空気の流れが変わった。リザードンの身体へと数本のエネルギー体が帯となって吸収される。紫色のそれがブレスレットからも発せられていた。まるでエネルギーが鼓動となって同期するように光が放たれる。
ルイが腕を突き上げた。その直後、リザードンを紫色の殻が覆った。エネルギーが球体に変異し、リザードンを包んだのである。卵のような殻が纏われたのも一瞬、キキキ……と内部でエネルギーが流転しルイが、「行け」と声を放った瞬間、殻が内側から叩き割られた。
中から現れたのはリザードンではない。そのフォルムはリザードンのものであるが、細部が異なっている。まず目を引くのは黒色の皮膚だった。真紅の表皮は黒へと変異し、赤かった炎は青く燃え盛っている。
リザードンと思しきポケモンの翼は小さく退化し、代わりに腕が逞しくなっていた。肩口から突起が生え、口からは青白い炎を噴き出している。その威容にノアは身体が震えだすのを感じた。そのポケモンが咆哮する。空気が鳴動した。
「――メガリザードンX」
ルイの言葉にノアは耳を疑った。リザードンは最終進化形態のはずだ。だと言うのに、何故変化、いや、進化したのか。
「メガシンカか」
ヨハネは落ち着き払った声を出す。その言葉をノアは聞き返していた。
「メガシンカ……?」
「進化を超える進化の事だ。カロス地方で最初に観測されたものだが、広まっていないためにまさかとは思ったが。目の前の事象を見る限り認めざるを得ない。確か条件としてはポケモンとの過度の同調があったが……」
ヨハネは二人を見やり、「なるほど」と納得する。
「あなた方二人には打ってつけと言うわけだ。同調の域に達しているのならね。王と、Rシリーズなら」
――Rシリーズ?
またも意味不明の言葉が出てノアは疑問符を浮かべたがリョウは怒りに駆られた猛獣のように眉間に皺を寄せた。
「……そこまで分かっているのなら、話が早い。てめぇは俺達には勝てないぜ」
その宣告にヨハネは臆する事なく返す。
「確かに、同調現象を伴っているトレーナー二人を私が一人で相手をするには無茶が過ぎるだろう。メガシンカとなれば、さらに難しい。勝てる確率は試算するまでもなく、ゼロパーセントだろう」
「分かっているのなら退いて」
ルイが初めて必要以外の事を口にした。小さいがそれは懇願のようだった。
「メガリザードンXに、ヒトツキじゃ勝てない。もちろん、ナンバーアヘッド、あなたが有するヤミカラスでも」
「どうかな。案外、分からないかもしれないぞ」
ヨハネの挑発的な文句に、ノアが瞠目した。メガリザードンXと呼ばれたポケモンを目にする。勝てる勝てないの次元ではない。視界に入れた時点で、あれには敵わない事が馬鹿でも分かる。ポケモンの知識の上下ではない。圧倒的な力が形を伴って顕現している。
「……後悔するよ」
最後通告に聞こえたルイの声に、リョウは続ける。
「言っておくが。――死んでも知らねぇぞ」
「メガリザードンX、フレアドライブ」
メガリザードンXが両腕に力を込めて呻り声を上げる。すると肩口の突起から青い炎が燃え盛り、瞬く間に腕を覆う手甲と化した。炎の爪を纏ったメガリザードンXが吼え、一瞬の残像だけを刻んでヒトツキと呼ばれたヨハネのポケモンの眼前に現れる。ヨハネは命令を下していた。
「ワイドガード」
「脆い」
ルイの声にメガリザードンXが空間を引き裂きながら爪痕を残す。打ち下ろされた一撃は「ワイドガード」の皮膜を揺らした。たった一撃で先ほどまで磐石と思われた防御の皮膜に亀裂が走る。ノアは目を見開いていた。
「割れる……」
青い残光を刻みつけながら爪による一閃が防御の膜を揺さぶる。ヨハネは、「やはり無理か」と呟いていた。
「メガシンカポケモンに対して、未進化ポケモンの能力はあまりに脆弱」
「それが分かっているのなら、早々に降伏をお勧めするぜ。メガリザードンXは、手加減が出来るほどやわなポケモンじゃねぇからな」
メガリザードンXが青い呼気を吐き出しながら腕を振りかぶる。
次の一撃で「ワイドガード」の防御は崩れ去る。それがノアにも分かった。ヨハネも歯噛みしている。このままメガリザードンXに引き裂かれれば何一つ分からないままだ。自分がどうしてヨハネに習われていたのか。リョウとルイは何のために自分を殺そうとしているのか。
ノアは訪れるであろう死の恐怖に目をきつく瞑った。その直後、「ノア!」と叫ぶ声が耳朶を打つ。
目を開いて声のした方へとノアとヨハネは振り返っていた。二階層の鉄柵を跳び越えた影が視界に入る。
イシスだった。空中でモンスターボールから〈セプタ〉を繰り出し、〈セプタ〉が肩口から生えている腕を突き上げた。
「シェルブレード!」
手刀の形になった手から水の皮膜が形成され、たちまち刃の輝きを帯びた。メガリザードンXが反応して「フレアドライブ」の腕で応戦する。「シェルブレード」は触れた途端に霧散するが、それと同時に降り立ったイシスが命令の声を重ねる。
「ストーンエッジ!」
〈セプタ〉が突き上げた腕に周囲の地面から土くれが集まり、たちまち岩の剣を作り出した。〈セプタ〉は四本の腕で岩の剣をメガリザードンXに向けて放つ。メガリザードンXは二本の腕でさばくが、〈セプタ〉の正確無比な攻撃がメガリザードンXの肩口に突き刺さった。
「メガリザードン!」
ルイが叫ぶ。リョウが、「岩は不利だ」と言った。
「一旦退かせろ」
ルイが頷くとメガリザードンXは拳を形成し、〈セプタ〉の胸部へと一撃を与えた。〈セプタ〉は直前に腕を交差させて防御する。短い翼を羽ばたかせてメガリザードンXが静かに離脱する。
「ノアっ!」
「お姉ちゃん!」
続いて声が響き、ノアが視線を向けると小説家とロキが向かってきていた。小説家はスリープをボールに入れているらしい。ロキは看守の姿を解いていなかった。イシスがメガリザードンXを操る二人へと視線を向けたまま、「どうなっている?」と声を振り向けた。
「一体、どっちが、今の敵なんだ?」
イシス達の眼からしてみれば困惑の対象だろう。敵だと思い込んでいたヨハネが自分を守っている。イシスはリョウとルイから視線を外さなかった。少しの油断が命取りになるとでも言うように。小説家もリョウを視界に入れて、「まさか……」と声を詰まらせる。
「知っているの?」
ノアの声に、「何言ってるの」と小説家が声を震わせた。
「カントー地方、そのチャンピオンの玉座に収まっている人間。通称《隻腕の赫》、リョウを知らないなんて」
チャンピオンという言葉に背筋が震えた。自分はそのような実力者を相手取っていたのか。ノアの恐れは同時にイシスが緊張を張り巡らせているという理解に繋がった。チャンピオンが目の前にいるとなれば戦いから目を離す事は出来ないだろう。
だからか、ヨハネが呟いた次の一言を、ノアしか聞き届ける事が出来なかった。
「これは、僥倖だ。どうやら運命は、この私を選んだらしい」
何を、と声を放つ前に、ヨハネは振り返ってノアの額へと人差し指を当てた。その一動作で動けなくなる。ヨハネは矢継ぎ早に声を発した。何かの呪文のようだった。
「君との約束の言葉を紡ごう。盟約の時は来たり。君がナンバーアヘッドの解除キーに指定した六つの言葉を。『母』、『ルナ』、『太陽』と『月』、『方舟』、『終焉』」
ヨハネがそれらの言葉を放った直後、ノアは自分の中にある何かが人差し指を伝って出て行くのを感じた。ゆっくりと、脈打つようにノアの中にあったそれがヨハネへと吸収されていく。ノアは瞬く間に自分の中が空っぽになっていく感覚に陥った。
「何、を……」
「君との約束のために、ナンバーアヘッドを殺さないでおいた。全てはこの時のため。ナンバーアヘッドの覚醒と無力化。私の目的はそれだけだった」
ノアの脳裏にいくつもの映像が現れては消えていく。
無数に居並ぶカプセル、R01と刻印されたそれら、オレンジ色の液体、中で揺れる人影、少女の相貌、黒に侵食される太陽、シロガネ山に突き刺さった空中要塞ヘキサ――。そして、人間。
映像が明確な像を結ぶ前に霧散していき、ヨハネが指を離した。ノアは先ほどまでの体調不良が一切なくなっている事に気づく。その代わり、自分の中に訪れていた何かが唐突に途切れたのも感じた。
ヨハネが一歩、よろりと後ずさる。イシスはリョウとの対峙も忘れ、ヨハネの行動に注意を配っていた。リョウとルイは目を見開いている。
「まさか……」
ヨハネは痙攣する指先を押さえながら口元を歪めた。そこに張り付いていたのは悪魔の笑みだった。
「これで、君と描いた未来に行けるぞ、キシベ……!」
ノアは息を呑む。ヨハネの眼が赤く染まっていた。その指をパチンと鳴らし、冷徹な眼差しを送る。
「これで、ノアズアークプログラムは動き出す。ナンバーアヘッドは既に用済みだ。ヒトツキ」
ヒトツキが一瞬にして影に沈む。どこへ、と視線を探らせる前に背後に気配を感じた。
「影討ち」
鋭い剣の先端を向けて、ヒトツキの刃がノアの背中を襲った。