第五章 七節「挑戦者」
独房の前に誰かが立った。
それをノアは気配で感じ取る。この時間帯ならば訪れるのは看守か。だとすればロキか。ノアは立ち上がって、「誰?」と尋ねた。その時、独房の扉が開き、逆光の人影が凝って佇んでいた。
ノアは咄嗟に身構える。看守でしか開けられない独房の扉を開けたのは見た事のない囚人だった。しかし、真実の意味で見た事がないわけではない。どこか見覚えのある顔だった。オレンジ色の髪をショートヘアにして同じ色の囚人用ジャケットに身を包んでいる。紺碧の眼差しがノアを観察し、射る光を灯した。
「へぇ。あなたがノア・キシベ?」
見物でもするかのような声音にノアは冷たく研ぎ澄ました声で返す。
「あんたは……」
「あら? 私の事知らない? カントーでは結構、有名人のつもりだったけれど」
その段階になってノアは思い出した。新聞社でも何回か取り上げた事のある女性ジムリーダーの姿を。彼女はかつてロケット団最盛期に正義のジムリーダーとして活躍し、ロケット団の悪事を暴いた。その代わり、彼女には不名誉な二つ名が付けられた。《血塗られた人魚》、《ハナダの悪女》……。
「ハナダジムのジムリーダー。水タイプ使いのカスミ」
ノアが発した言葉に、「思い出したようね」とカスミは胸をそらしてふふんと鼻を鳴らす。
「ジムリーダーがどうしてこんなところに」
「あら? あなたも私を追い詰めたうちの一人でしょう? だというのに、知らん顔をするのかしら?」
ノアの勤めていた新聞社もご多聞に漏れず、正義を気取ったジムリーダーを糾弾した。その結果として、彼女はジムリーダー職を追放。ほとんどが民衆の耳目と評価だけで、彼女自身は罪を犯していないにもかかわらずカントーから放逐されるはめになった。
その後の彼女の人生は推してしかるべしだ。違法薬物に走ったとも、海外で億万長者と結婚したとも噂されていた。《おてんば人魚》の異名を取っていたカスミの名は地に落ちたわけだ。しかし、それでもどうして今になってカスミはこのふたご島に、ひいてはカントーに帰ってきたのかノアは分からなかった。
「あたしの事を知っているの?」
ノアの声に、「まぁね」とカスミは涼しげに返す。
「あの人から大体の事情は聞いているから。ノア・キシベ。世界の敵の娘」
カスミはホルスターに留めておいたモンスターボールを突き出した。黒い外観から刑務所支給のものかと判じかけたが、その表面に黄色い「H」の文字が浮かんでいる事に気づく。
「そのボールは……」
「ご明察。刑務所支給のものじゃない。私の相棒が入ったボールよ」
という事は今までの刺客とは次元が違うという事だ。ノアは奥歯を噛み締めて後ずさったがカスミは微笑む。
「何も伝説のポケモンってわけじゃない。でも、私は宣言出来る。私の相棒は既に、伝説を超えているってね」
強気な発言に、「言うじゃない」とノアは口元を緩めた。しかし、胸中は穏やかではない。ジムトレーナーはそうでなくとも強敵。それが自分を無力化するために戦いに来ているとなれば警戒も必要だろう。
ノアは片手にモンスターボールを掴んだ。緊急射出ボタンをいつでも押し込めるようにしておく。
「だったら、あたしも宣言するわ。あんたのポケモンに、あたしとこの子は負けない」
売り言葉に買い言葉の発言にカスミは鼻を鳴らす。
「そっちも言うわね。私も、ただ獲物を狩るだけじゃつまらないと思っていたところよ」
カスミが緊急射出ボタンを押し込む。すると、黒いモンスターボールはガチャリと音を立てて一段階装甲を押し広げた。どうやら二段階ロックが成されているらしい。ボールから白い蒸気が上がる。ノアは唾を飲み下した。カスミがボールを振りかぶる。
「行け、マイスタディ!」
カスミが放ったボールが中空で割れて中から光に包まれた物体が飛び出した。それは星型の形状をしていた。しかし、ただの星型ではない。中央に宝玉が埋め込まれており、それが七色に輝く。紫色の身体をしており、積層構造の身体は同時に伸縮自在のようであった。
「スターミー。私のエースポケモンよ」
スターミーと呼ばれたポケモンはサイケデリックな鳴き声を発した。それだけで眩暈がしそうだ。ノアは対抗するためにモンスターボールを放り投げる。
「行け、〈キキ〉!」
ボールが割れ、中から濡れた黒色の翼を広げ、〈キキ〉が躍り出る。その姿にカスミが感嘆の息を漏らした。
「いい姿ね。〈キキ〉、という名前かしら? とってもチャーミング!」
これから命を賭けて戦うとは思えない発言だったが、それもジムリーダーの余裕と受け止めれば納得も出来る。カスミは負けるつもりがない。もちろん、それは自分もである。
スターミーが背後の星型の身体を回転させ、身体を突き出す。すると五本の突起から電磁が漏れ出し、眼前で球体を形作る。青白く瞬いた電流の球をスターミーが弾き出した。
「食らえ! 十万ボルト!」
ノアはうろたえ気味に〈キキ〉へと指示を飛ばす。
「〈キキ〉っ! オウム返し!」
〈キキ〉の眼前に銀色の皮膜が張られ、十万ボルトの電磁の束を絡め取る。鏡面の光を帯びた直後、スターミーの身体が跳ねた。
反射した十万ボルトの電流がスターミーに直撃する前に同じ光が明滅する。ノアは同じ攻撃で相殺された事を知った。
「なるほどね。今の攻撃、明らかにこちらが先手を打ったのに反射攻撃を受けたという事は、そのヤミカラスの特性は悪戯心ね」
一瞬で看破されノアは息を詰まらせた。カスミは、「何も難しい事じゃないわ」とレクチャーするような口調で続ける。
「ヤミカラスの特性は二つ。その中で優先度0の技を先手で出せるのは悪戯心だけ。それに、あの人が手を焼いているんだと言えば、それは特殊なヤミカラスを意味してくる。言っておくけれどジムリーダーを嘗めない事ね」
カスミの言葉にノアは拳を握り締めた。特性が見抜かれれば以前のロキとの戦いのように特性無効化の技を放ってくるか、それとも単純な性能で攻めてくるかのどちらかだ。固唾を呑んで見守っているとカスミは肩を竦めた。
「考えているってわけ。でもさ、私だってジムリーダー。その矜持はある。教えてあげるわ。私のスターミーはタイプ、水・エスパー。技構成は十万ボルト、冷凍ビーム、サイコキネシス、ハイドロポンプ。持ち物はリンドの実。草タイプ対策ね。特性は自然回復。手持ちに戻すと状態異常が回復する。でも、今は無意味ね。この子しか持っていないから」
ノアは瞠目していた。カスミは悪戯がばれた少女のようにくすりと笑う。
「驚いた? まさか手の内を明かしてしまうなんて」
その言葉に声をなくしていると、「私はね。ハンデが好きじゃないの」と声が返ってきた。
「だから最上級に自分に試練を課す。今の状況、明らかにあなたが不利だった。だからこそ、最低限の情報は与えた。さぁ、ノア・キシベ。この状況から、私の相棒を突き崩す事が出来るかしら?」
挑発的な物言いにノアは奥歯を噛み締めて、「やってみせる」と喉の奥から声を発した。カスミは微笑む。勝利者の笑みだ。
「嬉しいわね。刑務所とはいえ戦いの場が与えられて。私はね、燻っていたのよ。カントーから放逐され、行き場をなくしてずっと。だからこそ、力を振るわせてくれるのならば、それは何でも構わない。たとえ人道にもとる道だとしても」
「そこまで分かっていながら、あんたは戦うのね」
ノアはその言葉に返していた。世界の敵の娘。自分に張られたレッテルをカスミは最大限に利用しようとしている。この機会から自分を変えようとしているのだ。それは敵ながら眩しく映った。
「いけない?」
茶目っ気のある笑みにノアは頭を振る。
「いけないわけがないわ。ただこの戦い、負けるわけにいかないのはあたしも同じ。あたしは、あんたみたいにお題目はないけれど」
「戦うのに、理由の貴賎はないわ。ただそこにあるのは、純粋な闘争心だけ」
それはジムトレーナーとして数多の戦いに身を投じてきた人間ならではの言葉だったのだろう。重みを感じさせた。
「勝つ。〈キキ〉と、あたしが」
「いいえ、勝つのは私よ。ノア・キシベ」
ノアはここが刑務所である事を一瞬忘れかけた。まるで自分がトレーナーとしてジムリーダーに挑戦しているかのようだ。緊張感と肌をひりつかせる戦場の感覚がない混ぜになる。その二つが告げるのはただ一つ。
勝った者にこそ抗弁の口は開かれる。
ここでは勝利が絶対条件なのだと。
敗者には何も言い訳する権利などない。ただ自分の知っている事を洗いざらい曝け出すだけだ。それしか応えられるものはない。
「光栄に、思うべきなのかしら」
ノアの言葉にカスミが僅かに眉を上げた。
「何が?」
「ただでジムトレーナーと手合わせ願える事が」
発した言葉にカスミは一瞬呆気に取られていたようだがすぐにぷっと吹き出した。
「なるほど、そっか。そういう考えもあるのね。……長らく一線を退いていたから、そんなの忘れていたわ」
ぼそりと放たれた一言は予想以上に苦悩を滲ませたものだった。翳りを感じさせたのも一瞬、「でも、勝負に手加減はしない」とカスミは溌剌とした声で言い直す。
「ええ。あたしも、ここで退いてはいられない。〈キキ〉っ!」
〈キキ〉がスターミーの後ろへと回り込もうとする。しかし、スターミーは身体の後部を回転させつつ土を掘り上げて後ろを取らせなかった。まるで削岩機のような動きだ。
「スターミーの素早さ、嘗めてない? 結構、速いのよ」
スターミーの身体そのものは硬質に見えるのに、動きは軟体動物のそれだった。後ろの星型で地面を蹴り上げてヘリコプターのように空中を疾走する。
「体当たり……?」
「そんな当たり障りのない技をすると思うの? スターミー!」
スターミーの星型の先端が水色の光を帯びる。ノアはその瞬間、察して〈キキ〉へと指示を飛ばした。その声とカスミの声が交錯する。
「〈キキ〉! 避けて――」
「冷凍ビーム!」
スターミーがまるで散弾のように「れいとうビーム」を掃射する。スターミーの回転移動と併せて放たれた一撃は予想以上の効果をもたらした。独房の壁一面が凍りつき〈キキ〉は惑うように翼をはためかせる。その羽根が凍てていた。
「冷凍ビームを、そんな風に発射してくるなんて」
ビームといえば一直線に放たれるものだと認識していただけにその行動は意外を極めたものだった。地面に降り立ったスターミーが素早く体勢を立て直す。〈キキ〉の視界の範囲を熟知しているかのようにスターミーがステップを踏みながら跳ね回った。
「冷凍ビームの使い方は一片通りじゃないのよ。当然、ポケモンによって差があるのなんて最初に思いつくものでしょう? まぁ、でも、あなたはまだ初心者トレーナーだったっけ?」
カスミが腕を組みながらノアへと視線を飛ばす。ノアは、「調べたの?」と尋ねていた。自分でも馬鹿正直な問いだと思う。
「あなたの探している人がね。教えてくれたのよ」
ノアはそこで瞠目し、やがてスッと目を細めた。ノアの視線の動きを感知したのか、カスミが、「気づいた?」とわざとらしく舌を出す。
「あんたは、あの人に記憶を消されていない」
「みたいね。私以外はどうだったのか知らないけれど。あなたがあの人と呼ぶって事は、まだ情報は封鎖されているって事ね」
「あの人は何者なの? 何故、あたしを付け狙う?」
ノアの急いたような発言にカスミはため息を漏らした。
「分かっていないようね。この場で発言権を得るのは勝利者のみ。相手に喋らせたかったら、まずは勝つ事ね」
それがトレーナーの掟だ、と彼女は語った。ノアは拳を握り締める。手の届くところまで来ている。確実に。ならば、あとは掴む手を伸ばすかどうかだ。
ノアは伸ばす事に決めた。元より退路などない。
「あんたを倒して、あの人の事を聞き出す。それが一番賢い方法ね」
「いいわ」
カスミが手を振り翳し叫ぶ。
「来なさい! チャレンジャー!」
全盛期のジムリーダーの勘を取り戻したカスミの声に押されるように、ノアは〈キキ〉へと指示を飛ばした。
「〈キキ〉! スターミーを視界に捉えないと」
「そうさせると思う?」
スターミーは常に地面を蹴りつけていて同じ位置にいない。〈キキ〉は明らかに戸惑っている。先ほどの冷凍ビームの一射で素早さが少し落ちているようだ。ノアは手を振り翳して、「そこっ!」とスターミーを指差す。〈キキ〉がノアの反応に同期して視線を振り向けた。その瞬間に命令の声を発する。
「威張るを使って!」
〈キキ〉は胸元を逸らして鼻息を漏らした。紫色のオーラが揺らめく。スターミーの挙動が一瞬だけ止まり、次の瞬間紫色の身体が明らかに力んだ。「いばる」は相手の攻撃力を増長させる技だ。しかし、同時にある状態へと陥らせる。
「なるほど。混乱させる気」
カスミは心得ているように呟いた。スターミーのステップが少し怪しくなる。一歩二歩程度は同じ調子だったが、三歩目辺りから千鳥足気味になった。
混乱状態はポケモンの状態異常の一つだ。今のスターミーには世界が浮いて見える事だろう。〈キキ〉への闘争本能が引き上げられた代わりに冷静な判断力を失っている。
「でも、混乱ってのは場数を踏んだポケモンにはあんまり効果がないものよ」
その言葉通り、スターミーは何度か往復して反復横とびをするうちに勘を掴んできたらしい。ノアはしかし、その隙を与えない。矢継ぎ早に命令の声を被せる。
「電磁波!」
〈キキ〉が翼を広げ電磁の網を張り巡らせた。混乱状態に陥っていたスターミーは思いのほか簡単にその網にかかった。カスミが目を瞠る。
「電磁波。動きを封じられた……」
ただでさえ足場の危うかったスターミーは「でんじは」によって遂に動けなくなった。動けば体勢を崩す可能性がある。しかし、動かなければ電磁波によって身体の制御は蝕まれるばかりだ。「でんじは」によって麻痺状態になっているのである。麻痺のポケモンは素早さが落ち、さらには身体が痺れて動けない事が儘あるはずだ。
「これでっ! スターミーお得意の速さは殺した!」
ノアの声にカスミが新たに命令の声を弾かせたのと、追撃の声を発したのは同時だった。
「スターミー! 十万ボルト!」
「〈キキ〉! イカサマ!」
スターミーは身体をひくひくと痙攣させている。麻痺の効果が効いているのだ。対して〈キキ〉が放ったのは異彩を放つ技だった。
相手の懐に潜り込んだかと思うと、翼で攻撃すると見せかけて嘴に黒いオーラを集積させてついばんだ。相手の目を惑わせるこの技が「イカサマ」である。スターミーはその技を受けるや否や、一瞬で身体にいくつもの切り傷を負った。さらに形成しようとしていた十万ボルトの球体が弾けてスターミーの身体に降り注ぐ。スターミーは自らの技で自らを苦しめた。これが混乱の怖いところだ。自分の技が強ければ強いほどにダメージは増す。そこに追い討ちをかけるような「イカサマ」の猛攻だった。
一瞬で攻撃痕を多数作ったスターミーを窺い、カスミは歯噛みする。
「威張るで攻撃力を上げさせて、電磁波で足を奪い、イカサマで上げた攻撃力を利用して落とす」
ノアがしてみせた一連の動作をカスミは滑らかに反芻する。口角を吊り上げて、「どこでそんな戦法を覚えたの?」と尋ねる。
「結構、えげつない攻撃よ、それ。初心者の、ヤミカラス使いにしては出来過ぎだ、って言っているのよ」
ノアは独房に入る前にイシスと交わした会話を思い返した。