第五章 五節「追いついてくる過去」
彫りの深い、紳士的な男だ。リョウは初見でそう判断した。国際警察という職業柄か、どこか生真面目さを漂わせている。
「よろしくお願いします」という固い挨拶にリョウは、「ああ」とだけ返した。すると、ルイが言葉を挟む。
「駄目だよ、リョウ。もう少し愛想よくしないと」
「うっせぇな。俺の勝手だろうが。えっと、ヨハネ警部だっけ? あんたが俺達を案内してくれるのか」
「ええ。刻限までは時間がありますが、どうでしょう。少しばかりお話でも」
リョウは面倒だな、と思いつつもそれを断るだけの理由もなかった。昨日から宿泊しているために負い目もある。チャンピオンが泊まっているとなれば内心穏やかではなかっただろう。昨日のうちに所長とは面会を済ませていたために確認事項もなかった。
「そうだな。あと二時間ぐらいか」
「昼食をご一緒させてもらっても?」
「ああ、そういや昼飯時か」
ルイへと視線を流すと、「お腹空いちゃった」とルイは朗らかに笑った。
「ご飯にしようよ」
「だな。じゃあ昼飯に入るか」
リョウの言葉にヨハネは固い表情を向けた。
「職員用の食堂があります。そこで」
「俺は別に食えれば何でもいい」
にべもない返事に聞こえただろう。ルイが腰を小突いてきた。
「んだよ、ルイ」
「もうちょっと愛想よく。そうじゃなくってもここに来るまで何回呼び止められたと思ってるの?」
「へいへい。それはお前があまりにちんちくりんなせいってのもあると思うがな」
「ボクの事はいいよ。でもそれ以上にリョウが怪しいんでしょ?」
言葉を詰まらせた。その様子をヨハネは物珍しそうに眺めている。視線が煩わしくなってリョウは睨みを利かせた。
「何だ? 何か」
「いや、チャンピオンの妹君は随分と威勢がよろしいと思いまして」
「妹じゃねぇよ」
リョウの言葉にヨハネは、「ではどのようなご関係で」と勘繰った。リョウは、「関係ねぇだろ」と凄みを利かせる。ルイがため息をついた。
「リョウ。愛想よく」
ルイの言葉にリョウは舌打ちを漏らして、「……フィアンセだ」と呟いた。ヨハネが、「は?」と聞き返す。リョウは言い返した。
「婚約者だって言ったんだよ! 一回で聞きやがれ!」
「リョウってば耳まで赤くなってるよ」
ルイの指摘に、「うっせぇ!」とリョウは声を飛ばす。ヨハネは少しだけ考えるような沈黙をおいてから、「そうですか」と応じる。
「随分とお若いので」
「てめぇ、馬鹿にしてんのか?」
リョウの喧嘩腰の言葉にヨハネは首を振った。
「滅相もない」
「リョウはいっつもボクといると怪しまれるんです。いつもの事なので気にしないでくださいね」
ルイの言葉にヨハネは、「はぁ」と生返事を寄越す。リョウは、「間違ってもロリコンだなんて思うんじゃねぇぞ」と言い含めた。
「ったく。お前といるといつもこれだ、ルイ」
「じゃあ別行動する?」
「それは……」と口ごもる。ルイが傍にいないのは考えられなかった。ルイは胸をそらして、「ほら」と言う。
「うっせぇな」とリョウは後頭部を掻いた。
「お二人は仲がよろしいんですね」
ヨハネの皮肉とも言える言葉にリョウはまたも言い返そうとしたが、「まぁな」と止めておいた。
「十年も一緒にいれば、腐れ縁だよ」
「十年、ですか。それは長いご縁で」
歩いていると職員用の食堂へと辿り着いた。しかし職員用という名目だが、実質は所長以下でも一握りしか使われいない事を知っている。高級レストランを思わせる外観は食堂という名前とは相反しているように思えた。
白い円卓について歩み寄ってきたボーイへと、「Bコースを頼む」とヨハネが告げる。「かしこまりました」と恭しく頭を下げてボーイが引き返した。
「ここの料理は格別です」
ヨハネの言葉に、「みたいだな」とリョウは応じた。食堂の四隅には汚れなど感じさせない白亜の円柱がある。
――これがカントーの民の血税か。
このような使われ方をしている事に一抹の罪悪感を覚えた。
「リョウ様は、玉座につかれてもう」
「二年だな」
ヨハネの言葉を引き継ぐ形でリョウは応じた。ヨハネは中空を眺めながら、「二年ですか……」と意味深な声を漏らす。
「この二年で随分と変わった」
リョウのほうから口火を切る形となった。ヨハネが目を向ける。その瞳が青空のように透き通っているのをリョウは窺い知った。
「というと?」
「あんた、国際警察だろう。他地方の行政や司法の事は何でも入ってくるんじゃないのか?」
とんだ偏見を滲ませた言葉だったが、ヨハネは風と受け流した。
「ええ、まぁ。二年というとカイヘンですかね」
「ブレイブヘキサだ。その台頭に二年かかった」
リョウの声には憔悴の色はない。むしろ、ブレイブヘキサに好感触を抱いていた。少し前まではカントー独立治安維持部隊ウィルがカイヘンに睨みを利かせていたが、その攻守が逆転し、カイヘンでウィルがブレイブヘキサに変わってからはカントーが暴かれる側へと変貌した。
「カントーのチャンピオンとしては動きにくくなったのではないですか?」
食前酒が持ってこられた。赤ワインだ。酒はあまり得意ではなかったが、付き合いで飲めるようになっていた。
芳しい香りにルイが手を伸ばす。リョウはルイの手を叩いた。
「何するの?」
「お前には飲ませられない」
「ボクだって年齢上はセーフだよ」
「見た目上がアウトだ」
売り言葉に買い言葉でリョウとルイが言い争っているとヨハネは微笑んだ。どこか、この男には似つかわしくない表情に思えた。
「仲がよろしいですな」
「腐れ縁だよ」
リョウはワインを口に運んだ。舌先で転がし、喉元で嚥下する。
「うまいな。喉通りがいい」
その言葉にヨハネがほうと感嘆の息を漏らす。
「通ですな。このワインはカントーの産です」
「上質だな」
リョウの言葉にヨハネはグラスを揺らしてワインの色を見る。
「香りも素晴らしい」
口に含んでヨハネは頷いた。期待通りの味だったのだろう。リョウは、「刑務所で国際警察が飲んでいいのか?」と尋ねる。
「私は酔いませんから」
本当なのか嘘なのかは分からなかったがこれから自分達を案内するのには差し障りがないのだろうと考えた。
「ここ数年でカントーは激動の時代を歩んだ。その中にはもちろん、俺が窺い知れないものもある」
カントーに渡ってきたのが十年近く前ならばそのような感想も出てくる。ヨハネは、「チャンピオンからそのような言葉が聞けるとは」と口にした。
「チャンピオンとて人の子だ」
リョウの言葉に、「ごもっともで」とヨハネは応じた。
「しかし、私は一人だけ、本当に超越した王を知っておりますね」
「カイヘンか」
ヨハネは首肯した。確かに、カイヘンの王は自分達には見えないものを見ていると思われがちだろう、とリョウは感じる。
「だが、あいつだってただの人間さ。何も俺達と変わったところなんてないんだ」
「お知り合いで?」
ヨハネの興味にリョウは淡白な声を出した。
「それこそ腐れ縁だよ」
しかし、カイヘンの王は統治に優れた王というわけではない。それならば先のリヴァイヴ団やウィルの横行を許さなかったはずだ。彼女は十年近くを費やしてようやくカイヘンを国際社会の矢面から救い出した。それは何も彼女だけの力ではない。ブレイブヘキサや抗おうとする人々のうねり、流れが彼女にようやく味方したのだ。
「時代の流れというものは分からないものですね。ウィルがいる事で少なからず不安要素を取り除けていたとカントーの民は信じ込んでいたのですよ」
「みたいだな」
その頃、カントーにいたので市民が何を感じていたのかは肌で分かる。カイヘンの民を虐げる事にある種の意味を感じていたようだ。カイヘンが割を食った分、自分達は幸福に過ごせると信じていたらしい。
コース料理の前菜が運ばれてきた。ルイがテーブルマナーなど無視してフォークを手に取ろうとする。リョウは、「馬鹿。ちょっと待て」と制した。
「何で? 食べてもいいんでしょ?」
「話ってもんがあるんだよ。全く、お前は。食欲に関しては外見通りだな」
「偏見だよ」とルイは頬をむくれさせる。ヨハネが笑った。
「仲がよろしい事で」
「話の途中で飯を食うほど、無作法に出来てはいないものでね」
ルイはフォークを置いて、「早く済ませてね」と声をかけた。
「先に料理を食べましょう」
「気を遣って……」
「いえ。私も空腹なのです」
ヨハネがお恥ずかしい、と続ける。その言葉にルイは素早く動いて早速前菜にかぶりついた。
「恥ずかしいのはこっちだな」
「何か言った? リョウ」
リョウがため息を漏らすとヨハネが、「そんなお顔をせずに」と促す。
「おいしいですよ。どうぞ」
「おいしいだってさ」
ルイの言葉にリョウは前菜を口に運んだ。二人の評判通り、味は上々だった。
「いいものを食べていますね」
「チャンピオンとしては思うところでも?」
リョウは逡巡を浮かべるまでもなく、「いえ」と応じた。
「食事もまた、仕事のうちだ。俺はその辺は割り切っている」
リョウの言葉にヨハネは、「そうですね」と答えた。
「ただでいいものを食べているわけではない。それに伴う責任がある。いわば、我々は責任と同席しているとも言えます」
「面白い事を言うな。だとしたら、常に責任って奴が俺のパートナーってわけだ」
ぞっとしない話だ、とリョウは思った。ヨハネは慣れた仕草で前菜を食し、「チャンピオンに伴うものは」と続ける。
「それだけではないでしょう。常にトレーナーの模範であるべき、という義務さえも生じてくる。なかなか息苦しい立場なのではありませんか?」
「ああ、全くその通り」
玉座に上り詰めて初めて分かる苦悩もある。自分は向いていないと常々感じていた。
「明け渡せるだけの実力者が現れてくれれば楽なんだがな。なかなかそうもいかない」
「今のカントージョウトリーグの四天王といえば」
「イツキ、キョウ、シバ、イブキだな」
イツキはエスパータイプの使い手だ。四天王の中ではまだ若い方だが、それでもカントージョウトリーグといえばほとんど四天王の入れ替えがない事で有名である。
またショーとしてのバトルに重きを置かれており、挑戦者との戦いは常に全国放送される。四天王でさえ、一年に数回ある査定を乗り越えなければ四天王の資格を剥奪される厳しいプロ社会だ。その上のチャンピオンともなれば肩肘張らなければやっていけない。キョウ、シバは随分と長く四天王に居座っており、そろそろ退役の時を迎えるのではないかと噂されている。だが、当の本人達に会えばまだまだ現役であるという事を分からせられた。
最後の四天王、ドラゴン使いのイブキはまだ四天王になって年月が浅い。とは言っても、既に十年ほど務めているのでベテラン勢の仲間入りをしているといっても過言ではないだろう。彼女の親類にはかつてチャンピオンであったドラゴン使いのワタルがいるが、彼は今、このふたご島刑務所で特一級の戦犯として捕らえられている。
リョウは空中要塞ヘキサ侵攻時に現場にいたので未だにそのプレッシャーは覚えていた。ワタルの扱うドラゴンタイプはイブキとは一線を画している。言うなれば鬼だ。鬼の操る龍は凡人の扱うドラゴンとは決定的に異なる。そういう点で言えばイブキはまだ凡人の域を出ていない。
ある意味では話の通じる相手、と換言する事が出来る。かといってワタルが全く話の通じない羅刹だったかと言えばそうではない。イブキに何度か話を聞いた事がある。とても理知的で、心優しい人間だと。
「耳馴染みがありますね。特にシバさんとキョウさんは、子供の頃から憧れでした」
ヨハネの声に、本当だろうかとリョウは訝った。この男が誰かに憧れを抱くような人間だろうか、と。リョウの印象では何よりもそういった憧れとは無縁の位置にいる男に思えた。
「シバとキョウは長いからな」
メインディッシュが運ばれてくる。肉料理だった。ヨハネがボーイに声をかける。
「私は結構」
「食べないのか?」
「肉は苦手なんですよ」
ヨハネの言葉にリョウは、「ふぅん」と返してから言葉を継いだ。
「四天王は有事の際に頼みの綱となる。退役した四天王、カンナさんみたいに軍事に指示を出せる人間は貴重でしょうね」
カンナはウィル結成時には軍備強化を打診する議員として名を連ねていた。ヘキサ事件に関わった人間としては危機意識が高かったのだろう。
ブレイブヘキサに名が変わり、さらに管轄が変わった今でもその職務を手離す事はない。上からは睨みを利かされているが当の本人は実力がある。それは戦闘においても政権においても同じだ。どうやらカンナはどちらにでもうまく立ち回れる素質の持ち主だったらしい。自分とは大違いだ、とリョウは考える。
ルイはむしゃむしゃとメインディッシュを平らげようとしていた。先ほどからの話に口を挟まないのは少しばかり物覚えがいいからではなくただ単にわけが分からないのだろう。リョウとて、こういった駆け引きの場に顔を出すのは好きではない。
肩を竦めてリョウは言った。
「俺は不器用な性質なんだ。だから政治の話も、軍事力の話もさっぱりだな」
ヨハネは微笑んで、「チャンピオンになるにはポケモンの腕さえあればいいですからね」と応じた。皮肉のつもりはないのだろう。そういった様子は見受けられなかった。
「カントーの軍事なんて役人共に任せておけばいい。ポケモンを強力な兵器だと捉えている奴らには、それで充分だ」
「しかし、力を振るうのは他ならぬ四天王やあなたでしょう。その場合、どうなさるので?」
「他地方の例に漏れず、戦うさ。俺は絶対に負けないからな」
その言葉には自尊心や虚栄の響きを含ませたつもりはない。ただ事実のみを述べたつもりだったが、ヨハネは、「それは随分と」と口にした。
「強気ですね」
「弱気でどうする? 俺は誰よりも強くある。それだけの事だ」
本当に、それだけのつもりだった。本来の目的も遠く離れ、今となってはカントーの防衛くらいが自分に出来る事だ。
「それにしては、あなたはどこか求めている節がある」
心の奥底を読まれたような気がしてリョウは心臓が収縮したのを感じた。顔を上げてヨハネを見やる。発言した本人でさえ自覚していないようだった。
「俺が、求めているだって?」
「何か、他に目的があるような気がしますね」
それは遠い昔に置き去りにした兄を捜すという目的の事を言っているのか。しかし、目の前の国際警察がそこまで探りを入れているとは思えなかった。リョウは表面上の事を言われているのだと察し、チャンピオンとしての声を出す。
「買い被るな。俺は、ただ強さを求めていただけだ」
「ならば、その隻腕の理由。教えてもらっても構いませんか?」
リョウがじろりと睨む目を向けると、「もちろん、無理ならば結構」とヨハネは引いたが、その言葉が好奇心から放たれたものではない事は読み取れた。
この男は探りを入れるという類ではない。話している相手から必要な情報を必要なだけ引き出し、自分の意思で話させたように思わせる事が出来る。
リョウは過去にそのような人物と一人だけ出会った事があった。しかし、あの男は死んだはずだ。文字通り、ヘキサの野望と共に。
リョウは息をついて、「過去に無茶をした」と答える。
「それだけだ」
「お連れさんが関わっているわけでは」
「ない」
断じる声を出してリョウはその会話を終わらせた。デザートが運ばれてきて食事が終わるまで大した会話はなかったが、リョウは目の前のヨハネと名乗る国際警察をただの無能な一人として数えるのは違うと感じていた。
勘がいい、というよりかは何か目的のある人間の話しぶりだ、と感じる。自分と同じように、途方もない目的を持っているかのような……。
リョウはヨハネに続き席を立った。ルイが、「もう終わりー」と声を上げたが無視した。
「視察が目的、でしたよね」
ヨハネの声にリョウは頷いた。
「ああ。刑務所内部を見たい」
「とりわけ、見たいセクションはございますか?」
看守が二人付き、ヨハネが先導している。拘束を解くのは容易いが下手に暴れるわけにもいかない。リョウは落ち着いた声を発した。
「思想犯のセクションを見たい」
予め調べた事は匂わせないつもりだったが、リョウは一分一秒も惜しかった。ヨハネは、「思想犯、ですか」と腑に落ちない声を出す。
「何か」
「いえ、普通なら凶悪犯や重罪の犯罪者を見たいとでも言う方が多いですから」
「最近、話題になっていたからな」
「囚人番号666、ノア・キシベですか」
早くにその名前が出てリョウはにわかに緊張する。目的を悟らせてはならない。その達成までは。
「そんな事もあったかな。昨今のカントーは検閲が厳しいからな。どういう人々が投獄されてるのか興味はある」
「思想犯は犯罪者の中でも特殊な部類に入ります」
ヨハネはエレベーターのボタンを押した。すぐに降りるエレベーターがやってきて扉が開いた。
「ここから先は、私だけで充分です」
ヨハネはどうしてだか看守達を退けさせた。看守の一人が、「しかし」と声を発するとヨハネは答えた。
「チャンピオンですよ。失礼があってはいけない」
「だからこそ、同行するのでは」
「物々しいと囚人達を刺激します」
その言葉に看守達はすごすごと退散した。エレベーターに収まりながらリョウは声を出す。
「随分と囚人の事を理解しているんだな」
「国際警察は様々な地方に飛びます。その職務の関係上、どうしても、ですね」
「なるほど。多国籍の罪人に出会うというわけか」
リョウの言葉を皮肉とは受け取らなかったのか、ヨハネは続けた。
「国際警察は何も私だけではありません。代わりはいくらでも務まります」
「それほど多人数で動いているわけではない、と記憶しているが。トップは確かハンサムとか言う男だったか」
リョウも一度だけ会った事がある。暑苦しいまでの正義感を振り翳す男だった。確か彼のポケモンは殉職しており、それ以降ポケモンを持たないのだというポリシーも聞いた。
「私は過去に彼のバディであった経験があります」
その事実にはリョウも目を見開いた。
「そうなのか?」
「ハンサム警部は基本的にその地方ごとにバディを組む人間を探すのですが、随分と昔に、まだ私が新人であった頃、よく叱られました」
ヨハネが朗らかに笑う。リョウはハンサムの正義感に比べればヨハネはそれを軽視しているように感じられた。
「つまり、弟子、というわけか」
「国際警察は柔軟さと身軽さが売りですから。バディであった期間は短いですが」
ヨハネの言葉が終わるとエレベーターがちょうど下層に辿り着いた。オレンジ色のジャケットを着た囚人達が行き来している。リョウとルイの姿を物珍しそうに眺める視線がいくつもあった。
「失礼かもしれませんが、我慢してください」
視線を察したのかヨハネがフォローする。
「いや、いい。無理を言っているのはこちらのほうだ」
「そう言っていただけると助かります」
「ノア・キシベはどこに」
結論を急ぐリョウへとヨハネは言葉を放った。
「その前に、少しだけ話しませんか? あのテラスがいい」
ヨハネは囚人が交流に使っているであろうテーブルを指差した。先ほどの食堂に比するまでもなく、安っぽさが滲み出ている。
「何を話すって言うんだ」
攻撃的なリョウの台詞にもヨハネは臆した様子はない。
「リョウ様。あなたはヘキサ事件の当事者だった。その時の事を私は聞きたい」
「俺はそんな事を話している暇はないと思うんだがな」
「いえ、ありますよ。私は国際警察です。これでも様々な事件に精通しているつもりですが、ヘキサ事件だけは別だ。あの事件だけはどうしてだか語られない。語られたがらない。誰一人として。皆が口を閉ざす。何が起こったのです? それを知りたい」
ヨハネの言葉にリョウは喧嘩腰の声を投げた。
「好奇心は毒だぜ。国際警察官」
殊にヘキサ事件については。しかしリョウの迫力に圧された様子もなく、ヨハネは続けた。
「ヘキサ事件について、少しだけ話しましょう。少しでいいのです」
何か切迫したものを感じたが、リョウはそれを探ろうとは思わなかった。こちらとて探られて困る腹の持ち主だ。
「……現時刻は十二時三十分」
リョウはポケッチを掲げて告げた。
「余っている三十分だけだ。それ以上は」
「存じております。それだけで結構です」
恭しく頭を下げるヨハネにリョウは鼻を鳴らしてテラスへと向かった。テラス付近にはステンドグラスを透過した光が投げ出されている。どうやら地下の閉塞感をなくすためにその部分だけ縁取られているらしい事が分かった。
「リョウ。あんまり時間は」
ルイの憚る声音に、「分かってる」とリョウは返した。
「だけど、邪険にして刑務所内を闇雲に歩き回るわけにはいかない。居場所は?」
尋ねる声にルイは、「ある程度」と返す。
「でも、この刑務所は何か変だよ」
「変って、何がだ? 確かに感知野の網は広げ難い感じがするが、それは地下だからじゃないのか?」
その言葉にルイは首を横に振る。
「それだけじゃないと思う。何か、似た気配を感じる。それはボクにじゃない。過去に会った人に、似ているんだよ」
過去に出会った事のある人物。その言葉にリョウは無条件にある人間を思い出していた。
「……キシベ、か」
確信はない。しかし、ヨハネの語り口調はどこかキシベに似通っている。偶然の一致か、はたまた人の上に立つ人間は誰でもそんな口調になるのか、それは分からない。
ヨハネはテラスの椅子へと座った。リョウとルイはその対面に座る。先ほどよりも近い。リョウは気圧されないように目頭に力を込めた。
「私としては、ヘキサ事件、何が起こったのか興味があるんですよ」
「何故、そんな興味を?」
「誰しもそうでしょう」
ヨハネは囚人達に視線を流した。囚人の中にはリョウの右腕を無遠慮に眺めてくる者もいる。大抵は一睨みで撃退出来たが気分のいい視線ではない。
「カントーに生まれた人間、あの時代を生きた人間ならば、あの場所で何が起こったのか。その好奇心には勝てません」
ヨハネの言葉には嘘をついているような気配はない。しかし、リョウは纏いつくような感覚を味わっていた。このヨハネいう男は何を目的としているのか。リョウ達からその話を聞き出したとして何か得をするとは考えづらい。むしろ、その話をする事よりもリョウ達をここに留める事に意味を見出しているようだった。
――足止め? だが何の?
リョウは探る視線を向けていたせいか、「どうしました?」とヨハネが首を傾げる。時間稼ぎだとすれば早々に話を打ち切るに限るが、元々余っている時間である。
リョウは喋る事にした。とは言っても、何度も聞かれた話を繰り返すだけだ。
「あの場所で、俺達は地獄と戦った」
リョウの語り口はいつの間にか陰鬱なものになっていた。