第五章 一節「友達」
「敵は国際警察……」
小説家が震えながら呟いた。両肩を抱くようにして彼女は首を振る。現状を受け容れてられないのだろう。イシスが、「だからか」と口にする。
「これだけのポケモンを集められたのは、国際警察の権限があったからなんだ。わたし達のデータベースを集めてノアを無力化するように努めたのも納得が出来る」
しかし、当のノアは引っかかりを覚えていた。相手は国際警察官。それだけの理由で人殺しを躊躇うのか。ノアにはその程度で目的を狩ろうとする手を休める相手だとは思えなかった。親指の爪を覚えず噛んでいると、「何か、考え事でも?」とロキが小首を傾げる。
ロキは既に元の姿に戻っていた。何度もなれるものではないらしい。モノマネ娘、イミテから受け継いだ遺伝子と言ってもまだ子供だ。
「いいや、何でも」
「ノア。情報は全員に共有されるべきだ」
イシスが注意の声を飛ばす。恐らくは一番張り詰めているであろう人間の声音にノアは視線を振り向けた。
「わたし達は一糸たりとも乱れてはならない。違うか?」
その理論は正解だ。元々敵同士であった者達が集まっているのだから余計だろう。ノアは不安げに声を漏らした。
「あたしには、国際警察だからっていう以上に、さっきの男が何かを秘めているような気がしてならない」
「何かって……」
漠然とした言葉に、「だから言わないでおいたのよ」とノアは返した。
「余計な不安を煽るだけだから」
「でも、ノア。国際警察が本気で絡んでいるとしたら、この一件、思っていたよりもやばいわ」
小説家の声にロキは疑問符を浮かべるように声を出した。
「ねぇ、お姉ちゃん。そんなにこくさいけいさつっていうのはこわいの?」
ロキにはまだ理解が及ぶ範疇ではない。教えるべきか、という一瞬の逡巡を見透かしたように、「伝えるべきだ」とイシスが忠言した。
「どれだけ分の悪い勝負なのかってな」
ノアは嘆息を漏らしてロキに説明した。
「国際警察は地方ごとの行政を超えて権利を行使出来る存在。言うなればかなりの地位にいる実力者よ」
ロキの中ではまだ意味を結んでいないのだろう。どこか納得がいっていないようである。
「要するに、相当強いってわけだ」
イシスが纏めた言葉を発する。ロキは、「勝てばいいの?」と尋ねる。
「勝てば、なんていう生易しい範疇じゃないだろうな」
イシスは重々しく呟いた。イシスの言う通りである。国際警察が組織だって動いているとなれば自分達思想犯程度すぐに刑を執行させられる。
だが、それが成されていないのが不自然だった。ノアはそこで憶測を巡らせた。
「もしかして……、あの人は単独犯なのかもしれない」
ノアの言葉にイシスと小説家が視線を振り向ける。
「単独犯って、そんな事あり得るのかよ」
「それに国際警察の権利を使えばいくらでも私達を追い込めるわ」
「そこよ」
ノアは指摘する。小説家は何の事だか分かっていないようだ。
「国際警察の権利。それを使っていないという事は、個人的に動いている可能性が高い」
イシスがノアの言葉に耳を傾ける。
「なるほどな。確かに組織だってお前一人を殺そうと考えればいくらでも手はあったようなもの。それが許されない状態にある、というわけか」
ノアは頷き、「それに殺すってのも違うと思う」と意見を続けた。
「多分、ずっと言っている通りあたしの無力化。それに一番意味があるのだと思う」
自分ではたった一人の思想犯の無力化にどれほどの意味があるのかは分からない。しかし、少なくともここにいる三人はその命令で運命を狂わされたのだ。実力者を放ってでも実行に移すべき命令だった事は窺い知れる。
「それが分からない。ノア。お前と会って二日しか経っていないが、正直これだけの労力を割いて無力化に回る事の無意味さのほうが先に立つ。目障りならさっさと殺したほうがいい」
冷徹なイシスの言葉に小説家は背筋を震わせたようだった。ノアは顎に手を添えて考え込む。国際警察が組織での抹殺を命じず、あくまで個人として動く事にこだわる理由。
「イッシュ地方の例があるわ」
小説家がたどたどしく言葉を紡いだ。
「プラズマ団の乱か」
イシスが心得たように言葉を発するがノアとロキだけは理解出来ていない顔を見合わせた。
「……ノア。本当に世相に疎いのね。それでよく新聞社に」
「大きなお世話よ。それで、プラズマ団の乱って?」
「ああ。五年くらい前かな。プラズマ団という過激派組織がイッシュ地方で国家への反逆行為を行ったんだ。Nと呼ばれた男を王として擁立し、プラズマ団はポケモンの解放を訴えた。その結末はイッシュ地方ポケモンリーグの一時的な支配にすら及んだが、その日のうちに反乱を起こしたプラズマ団はほとんどが検挙、または自首した。何でもNに対抗する人間が現われて、イッシュの伝説のポケモンを操ったと言われている。事の詳細はわたしにも分からないが、プラズマ団がその二年後、再びイッシュ地方を混乱の渦に叩き落したのは覚えているな。その時に兵器として使用されたのは、確かそれも伝説のポケモンだったと言われているが定かじゃない。プラズマ団の首領と思われたNは行方不明。彼を育てていたとされ、真にプラズマ団を操っていたと思われる壮年の男、ゲーチスはその後の足取りは掴めなかったと言う。それらを総称してプラズマ団の乱って呼ぶんだ」
ノアは初めて聞く語句だらけで自分の脳内で繋げるのに必死だった。だが最低限の知識は持ち合わせている。イッシュ地方できな臭い騒動が起こったのは記憶していたがプラズマ団という組織に関してはほとんど無知だった。
「珍しいな。結構、テレビとかでも取り上げられていたんだが」
「あたしは、あんまりテレビ観ないから」
「それにしたって、この情報化社会に他地方の混乱も知らないなんて、なかなかないわよ。ノア、あなたって結構箱入り娘として育てられたんじゃないの?」
五年ほど前という事は十歳。カントーでは十歳成人法が敷かれているのでノアは既に新聞社に入っていた頃だが、耳にした事はなかった。セクションが違ったのだろう。同じ新聞社といえども相当な話題でない限り同期される事はない。
「かもしれない」
それにしたって、イシスの口ぶりからするとセンセーショナルな事件であった事は明白である。ノアはもしかしたらキシベの娘だから知らされなかったのかもしれないと思った。
他地方の革命に影響を受けてカントーにも災厄の種を蒔かれれば堪ったものではないと。その時点で差別を受けていたかもしれないという推論にノアはいい気分はしなかった。
「その時にも噂だが国際警察が動いたとされている。記録上、国際警察が動いたと民間に知れ渡っているのは二度だ。イッシュ地方の事件と、シンオウ地方の事件」
「ギンガ団の話ね」
その話は聞いた事があった。何度もドキュメンタリーされているのでノアでも知っている。ギンガ団と言われる一味が起こしたポケモンの能力を最大限まで引き出そうとした事件だ。首謀者と思しきアカギは今も行方を眩ませていると言う。
「それは知っているのか。何だか、アンバランスだな、お前って」
イシスの人物評にノアは肩を竦めた。どうしてだか知っている事と知らない事がある。
「ママはテレビに関しては厳しかったから」
母親にテレビ番組に関しては色々と口を挟まれた事を思い出す。どうしてギンガ団の事は知っていたのだろうと記憶の糸を手繰るが、話題になっていたからだという考えしか出てこない。
「ノアのお母さんってよく分からないわね」
小説家の言葉にむっとしていると、「ノアお姉ちゃんのママはいるの?」とロキが訊いてきた。
当たり前のような質問だが、ロキには既に母親のイミテがいないのだ。その状態で生きてきた身としては当たり前のように母親がいる事が不思議なのだろう。ノアは、「いるわ」と答える。
「誇れるママよ」
たとえ世界の敵と罵られようが謗られようが母親だけはノアを守ってくれる。そんな気がしていた。
「キシベの事でマークを受けているのかもしれない。その可能性はあり得る」
イシスの言葉にノアは首を横に振った。
「それだけじゃない気がする」
それだけならば刑務所に叩き込まれた時点でノアは無力化されたようなものだろう。あの人は刑務所の中でさえノアの力を消滅させる事にこだわったのだ。
「これは、私の勝手な推論だけれど」
小説家が話し始める。ノア達は耳を傾けた。
「ノアの、あの力の事を警戒しているんじゃないかしら」
言い難そうに放たれた言葉にノアは疑問符を浮かべた。イシスと、ロキでさえもどこか息を呑んだ風である。ノアは逆に尋ねていた。
「あの力って?」
その言葉に小説家は目を見開く。
「自覚がないの?」
ノアには何の事だか分からなかった。ロキとイシスにも視線を送るが不可思議そうな顔をしている。
「分からずに使っていたのか……」
イシスの言葉にノアは少し苛立ちを込めて、「だから何よ」と言った。ロキが不安げな面持ちでイシスへと視線を送る。イシスは頷いた。
「ノア。これからロキがお前に化ける。あの力を使っている時のお前だ。構わないな?」
確認の声にノアは気後れ気味に応じるしかない。
「だから、あの力って何? あたしが何だって言うの?」
ロキをイシスは顎でしゃくる。ロキは一瞬にしてノアへと変身した。自分の似姿が経ち現れた、はずだった。
しかし、その姿には自分の記憶と齟齬がある点が一つだけ存在した。
「眼が、赤い……」
ノアは呆気に取られていた。ロキが化けた自分自身は、瞳の色が赤かった。充血しているというわけでもない。虹彩部分が赤く染まっているのだ。ノアは、「冗談でしょう」と三人に視線を送った。しかし、沈黙が返ってきた。それが何よりも雄弁な答えだった。
「ノア。お前は危険に陥った時にこの眼になる。わたしは番人からの又聞きだが、小説家とロキの反応を見る限りでは、間違いないらしい」
ノアは赤い眼の自分を見つめた。
「でも」と抗弁の口を開く。
「だから何なの? 眼が赤いだけで、そんな力だなんて大袈裟よ」
「大袈裟じゃないのよ、ノア」
口を開いたのは小説家だった。ノアが視線を振り向けると小説家は部屋の隅にいるスリープへと目を配った。
「〈インクブス〉をあなたが倒した時、あなたの眼が赤くなっていた。〈インクブス〉は見えない力で引っ張られたみたいに硬直していたわ。まるで私の指示が聞こえないみたいに」
小説家の言葉に言い返す前にロキが、「ロキも」とノアの姿のまま続ける。
「タブンネが十万ボルトの矢を確かに放とうとした時、お姉ちゃんはこの姿になった。タブンネは確実に攻撃の手を放とうとしていた。それを阻むみたいなプレッシャーを感じたのは本当」
ロキが当惑したまま元の姿へと早変わりする。ノアは額を押さえてイシスへと顔を振り向けた。
イシスは、「それらしい兆候はあった」と答える。
「番人からある程度の話は聞いている。どうやら、ノア。お前には相手の命令系統に影響を及ぼす能力が備わっているらしい」
「何それ。そんな能力、使った覚えが――」
返そうとしてカフカのメタモンや小説家のスリープ、面会室での戦闘、ロキのタブンネを前にした時に感じた全能感を思い返す。あれが能力の一端だったのか。ノアは知るよしもない。
「答えは分からない。本当にそんな能力が人間にあるのかなんて。ただ、ノア。その能力ゆえにお前は投獄されたんじゃないのか?」
イシスの言葉にノアは、「ああ……」と口にした。そう考えれば腑に落ちる。ランスが自分を狙ってきた事も、あの人が殺害ではなく無力化にこだわっていた事も。
「なるほどね。あたしを無力化させなければ殺害も出来ないって事か」
「わたしには詳しい事はさっぱりだ。だが、お前は他の人間とは少し違う」
イシスは胸中では自分を慮ってくれているのだ。他の人間と少し違う、程度の言葉で慰めてくれる。本当は世界の敵と糾弾されてもおかしくない立場だと言うのに。
「私も、そう思うわ」
小説家が出し抜けに声を発した。ノアが振り返る。
「だってノアは私の友達だもの」
小説家の言葉には不思議な説得力があった。
友達。今までの人生で本当に手に入れた事があっただろうか。キシベという姓を偽るか隠し通すかでしか得られなかった友情。それが今は呪われた名前を口にしても付いて来てくれる人間がいる。ノアは覚えず目頭が熱くなりかけたがぐっと堪えた。
「……これで、でもはっきりした事があるわ」
ノアの声に、「どういう意味?」と小説家が疑問を挟む。
「あの人の目的。それにこれからの身の振り方が。三人とも、聞いて。あたしに、考えがある」