第四章 十一節「迫る影」
イシスは重傷だったが突然に医療房に現れたノアに面食らって顔を上げた。そのノアが看守を連れ立っているものだから余計に怪しんだらしい。
「……何のつもりだ?」
てきぱきと監房の鍵を解いてイシスの状態を見やる看守に睨みを飛ばした。ノアがいさめる声を出す。
「この子は看守じゃないわ」
「看守じゃない? って事はあの子供か」
吐き捨てるような言い回しに看守になったロキがため息を漏らす。
「お姉ちゃん、この人助けるのやめちゃう?」
「駄目よ。元はと言えばあんたが傷つけたんだもの。それにしたってイシス、頑丈なのね。話では感電で失神していたみたいだけど」
イシスは、「このくらい」と頬を張った。
「同室の女のやった攻撃に比べりゃ何て事はない。あの女はタイプ一致の電撃をわたしに見舞おうとしたんだからな」
「これだけ元気なら、大丈夫ね。偽の問診を書いて、監房まで連れて行きましょう」
ノアの指示にロキは頷いて問診記録を書き換えた。イシスが密かに耳打ちする。
「……おい、ノア。どうなっている? あの子供はわたし達の敵だったはずだ」
「意識はあったのね?」
「消える一瞬前にな。それに今わたしを襲う奴なんてあの子供くらいしか思い浮かばないだろ」
「ロキよ。あの子供呼ばわりはやめて」
ロキが顔を振り向けてイシスへと忠告した。イシスは、「何だって敵だった奴の言う事を聞かなきゃいけないんだ」と不服そうだ。
「もう敵じゃないのよ。あの人に向かう鍵を、一番に持っている」
「わたしや小説家みたいに心変わりしたって事か? そんな簡単に」
「簡単じゃなかったわ。あたしも〈キキ)も、死ぬ寸前」
ノアが肩を竦めてみせる。イシスが言葉を引っ込めると、「お姉ちゃん」とロキが呼んだ。
「何?」
「監視カメラがある。俺はいいけれど、お姉ちゃん達が映るのはまずいんじゃない?」
ロキは監視カメラを顎でしゃくった。ノアは首肯して、「そうね」とイシスを担架に乗せる。
「じゃあ、これはどう? あたしがイシスを監房に運んでいる間、あんたは全ての証拠を揉み消してから監房に戻ってくる。あたしの監房で落ち合いましょう。どうせ小説家も失神しているだろうから」
「そうね」とロキは応じて看守達の待っているであろう方向へと恐れもなく歩いていった。担架に乗せられたイシスは、「本当に大丈夫なのか?」と尋ねる。
「あの子供、……じゃないロキか。あれが裏切らない保障は? どうしてあいつを信じられる?」
「一度戦えば嫌でも分かるわ。相手が抱えているものの大きさにね」
ノアはローラー付きの担架を女子監房に向けて走らせた。幸い看守とは出会わなかった。監房の入り口に立っている看守はイシスが黙らせた。その際に金を差し出しているのが見えた。大体の事は金で揉み消せるようだ。
監房に辿り着くと思っていた通り、小説家は失神していた。泡を吹いているのでまずいと思ったが、すぐに追いついてきたロキのタブンネが回復を施す。
「タブンネってそんな事も出来るのね」
「本来は戦闘用じゃないからな。それで相手を油断させやがって」
イシスの悪態にもロキは反応しない。看守から元の姿へと早変わりし、小説家が目を覚ましたのを確認した。小説家は頭を抱えて、「私……」と呟く。
「ドッペルゲンガーに行き会ったの。この監房で」
「夢よ、夢」
ノアが言うと、「ゆめだよ、お姉ちゃん」とロキが笑顔を向けた。どうやら小説家はその笑顔で少しばかり救われたようだ。
「それで、聞かせてもらおうか。あの人とやらが何者かって事を」
早速イシスが本題に触れてきた。ノアもそれはすぐにでも聞き出したかったがその前に言うべき事があった。手でイシスの話題を遮り、「その前に」と口を開く。
「ロキ、あんたのママ、イミテは死んだの?」
それだけが判然としなかった。ノアの力で救えるとロキは言っていた。しかし、自分には死者を生き返らせる能力などない。
ロキは膝を抱えて、「わかんないけど」と前置きする。
「あの人は、ママのポケモンであるタブンネをあずかると、それを今のじょうたいにして、それからロキがやるべきことはノア・キシベの無力化だって言っていた」
「やっぱり、無力化、か……」
イシスはそこが引っかかっているようだ。しかし、ノアが着目したのはそこではない。
「イミテは本当に死んだの?」
尋ねるとロキは頷いた。
「何が原因で……」
「イシス」といさめる声を出すと、「いいよ」とロキは首を振った。
「たぶん、必要なことだから」
話したくないだろうに語ろうとするロキには一種の痛々しささえ感じられたが、ノアは黙りこくった。
「ママはね、あの人に殺されたんだと思う」
その言葉にその場にいた全員が息を呑んだ。
「あの人に、って。じゃあ、あんたにとってあの人は……」
「そう。たおさなきゃならないかたきだよ」
どこまで理解して言っているのだろう。ロキの純粋そのものに見える澄んだ瞳に決意が宿ったのは感じられた。
「ちょっと待てよ。じゃあ何で、あの人に協力するような真似をしたんだ?」
イシスの疑問に、「勝てないってわかっていたから」とロキは答えた。
「そもそもの能力が、ロキとあの人じゃちがう。あの人の前じゃ、ロキの物真似なんて多分、意味ないんだと思う」
「だから、あの人に取り入って、隙を窺おうとした」
小説家の合点した声にロキは首肯する。
「でも、だったらだからこそ、タブンネなんて使い物にならないだろう」
「それが、あの人の保険なのよ」
ノアは覚えず呟いていた。今までの刺客を思い返す。「どういう意味だよ」とイシスが目を向ける。
「考えても見て。相手に力を与えて、自信過剰になったり、反抗を考えられたりしたら困るなんて最初に思う事よ。だから、あの人はもしかしたらそれら全てを倒せる実力のポケモンを備えているのかもしれない」
自分が見た、剣の形状をしたポケモン。あれこそがあの人の秘策なのだとしたら。
「剣のポケモンの、名前は分かる?」
ロキに尋ねたが首を横に振った。イシス、小説家へと目を向けるが彼女達も肩を竦めるばかりである。
「皆目、見当がつかない。だが、その剣のポケモン、恐らくはわたし達のポケモンに対する抗体の役割を果たすはずだ」
「こうたい?」とロキが訊くので、「困った時に対処する術よ」とノアが説明した。
「そうじゃなきゃ、ポケモンを配る意味がない。あの人は全員を相手取っても勝てるくらいの算段があった」
それ以前に、あの人とは何者なのか。それだけのポケモンを所持し、育成出来る人間とは。
「ロキ。あの人の姿になれる?」
「なれるよ」
その言葉にイシスが目を剥いた。
「子供には勝てると思いこんでぼろを出したか」
ロキが、「子供じゃないよ」と抗弁を返す。
「はっきりと覚えてる。だって、かたきの顔だもの」
そう思えばその通りなのだ。ノアは、「今、なれる?」と訊いた。
「小説家の〈インクブス)であんたがいるという認識を消している。見られる心配はない」
監房の外に視線を配るロキに声をかけた。ロキは逡巡の間を浮かべてから頷く。
「やってみる」
「おいおい、信用していいのか? もしかしたらガセの情報掴まされるかも」
「イシス。今は少しでもあの人に繋がる情報が欲しい。間違っていたとしたら、それを糧に乗り越える。それぐらいの気概は見せなくっちゃ永遠に辿り着けないわ」
ノアが放った言葉にイシスは渋々納得したようだった。
「じゃあ、なるよ」
ロキが一瞬にして変身する。その姿は長身の青年だった。彫りの深い顔立ちをしており、黒髪を肩まで伸ばしている。虹彩は突き抜けるような青だった。肌は病人のように青白い。
一際異彩なのは顔を斜めに走る傷痕だった。そこから闇が滲み出したかのように、青年の顔立ちには険がある。
「これが、あの人か……」
イシスが口にする。目の前にしても実感が湧かないのかもしれない。ノアは、「話せる?」と尋ねた。ロキは首を横に振った。
「情報が少な過ぎるよ。あの人は、最小限の言葉でロキに命じた。多分、この能力を警戒していたんだと思う」
「つまり、姿だけ、か」
イシスが残念そうに呟くが、「でも収穫はあった」とノアが強く拳を握り締める。
「向かうべき指針は示された」
ロキが元の姿に戻る。ノアは射る光をその目に宿した。
戦うべき相手は見えた。
「その看守を倒すのが、わたし達の最終目的ってわけか」
「ちがうよ?」
ロキの言葉に声を発したイシスは疑問符を浮かべる。
「違うって、何でだよ。この刑務所で男って言ったら、囚人か看守だろう。お前や様々な人間に自在に接触出来て、なおかつポケモンの所有数が決められていないなら、看守で決まりだ」
「ちがうって。確かにあの人は男だけれど、看守さんじゃない。ロキはあの人が何度かママに会っていたのを見た事がある。ママは言っていた。あの人は信頼出来る人だって。確かこくさいけいさつとか言っていたかな」
放たれた言葉に全員が戦慄した。
「……ちょっと待て。今、何て言った?」
イシスが確認の声を漏らし、ノアへと目を向ける。ロキは言葉を繰り返した。
「だから、こくさいけいさつだって」
刑務所で育ったロキにはその言葉が分からないのだろう。その響きが意味するものも。
「国際警察、って言ったか? ロキ」
イシスが額に汗を浮かび上がらせて聞き返す。ロキが頷くとノアへと視線を振り向けた。
「ノア。こりゃあ……」
「ええ。とんでもない事に巻き込まれたみたいね……」
ポケモンに関わりのなかった自分でも分かる。国際警察。それは様々な犯罪を取り締まる地方を越えた法の模範。司法の代行者の事だ。
「あたし達が戦うべき相手は国際警察。思っていたよりも、相当危険だわ。これって」
小説家が話を聞いて震え出す。イシスも覚えず、と言った様子で目を戦慄かせた。
その中でノアだけが正常であろうとしたが、それさえも不可能だった。
来るべき敵の正体に至ったと思えば、それは及びもつかない存在だった。
ノアは背筋を震わせた。嫌な風が、監房内に吹き込んできた。
第四章 了