ポケットモンスターHEXA NOAH











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無害なる者
第四章 九節「オリジナル」

「最も恐れるものとは無害なる者なのだ」

 ヨハネは無意識のうちに彼との思い出を反芻していた。よく彼がこぼしていた言葉の一つだ。それはヨハネが興味本位に尋ねた事に由来する。

「最弱のポケモンって何だい?」

 その頃のヨハネはまだ国際警察官として未熟だった。ポケモンの知識も浅く、彼にそんな質問をしてしまったのだ。今にして思えば浅はかな質問だったと思う。しかし、彼は真摯にその言葉を受け止めた。

「ポケモンに、強い弱いの区別はない。もし、最弱のポケモンがいたとするのならば、それはそのポケモンが悪いのではなくそれを育んだ環境やトレーナーが悪いのだ。私はこれでも数多のポケモンとトレーナーを見てきた。仕事柄、ね」

 仕事柄、という言葉に彼の苦労が滲んでいるように思えた。それに比して、自分は何と幼稚な質問をしてしまったのだろうと今になって恥じる。しかし、その時には興味は尽きなかったのだ。彼の纏っている空気がどのように変質するのかを確かめたかったし、自分自身、彼に染められていくような感覚を味わっていた。

「仕事柄、か。じゃあ、そんなに真面目に捉えてもらわなくっていい。そうだな、最強の矛と最強の盾どっちが強い? って話程度に聞いてもらえれば」

 その話を聞いて彼は、「矛盾の故事か」とこぼした。

 思えば彼に出会わなければ自分の今の人生はなかっただろう。あったとしても別の目的を糧にしていたはずだ。

「教えてあげよう。最強の矛も、最強の盾も存在しない。それがポケモンなのだ。ある一定数に、強大だと言われるポケモンは、もちろん存在する。それを伝説級と呼んだり、準伝説と呼んだりしてラベルをつけるのが、君達国際警察官の仕事でもあるのだろう?」

 彼の皮肉は不思議と皮肉には聞こえなかった。むしろ自覚出来ていなかった自己をきちんと呼び覚ましてくれるいい機会だった。

「僕達国際警察官は、確かに、伝説級のポケモンの認定も行っている」

 それは部外者には秘中の秘の話だったが彼にならばいいだろうとヨハネは思っていた。

「国際警察官は様々な地へと赴き、様々なポケモンを観測する。それこそ、天を統べるポケモンや時間と空間を操るポケモンまで様々だ。僕達がラベルを施してきたポケモンの数は言うに及ばず、だろう」

 ヨハネが彼に目を向けると彼はいつだって少しだけ笑うのだ。それは、人によっては「嗤う」と表現してもいい笑い方だったかも知れない。しかし、ヨハネには彼が邪悪を身に宿しているとは考えられなかった。むしろ、彼こそ、この世界の真理を覗き込んでいる存在なのではないかと確信していた。

「君はよく喋るな」

 暗に、必要のない事まで、と言われているようだったがヨハネは答えた。

「必要だから、僕は君に話す」

「なぁ、知っているか、ヨハネ君。この世には真性異言という話がある」

 ヨハネにはその話についての知識がなかったので素直に首を振った。彼が続ける。

「習っていない言語や、学んだはずのない国の言葉を話せる人間がごく稀に存在する。多くの場合、その言葉をどこかで耳にしてそれがたまたま頭の中に居座って口にしたり、または簡単な応答程度ならば出来たり、という範囲に留まっているが、真性異言という話は古来より存在する」

「聞いた事がないな」

 ヨハネの言葉に、それはそうだろう、と彼は応じた。

「この世の裏側の話だ。多くの場合、これらの説話はポケモンに換言されて伝わっている。たとえば、ポケモンの言葉が解る、と言った具合に」

 裏側、とヨハネは反芻した。彼はよくその話をしたものだ。この世界の、摂理に反していると自ら前置きしてからそういう話をする。ヨハネは彼の話す嘘か真か分からない話の数々が嫌いではなかった。

「興味深いね。真性異言とかいう話は、では滅びたのかい?」

 尋ねると彼は少しだけ顔を翳らせて、「滅びただろうな」と答えた。

「少なくとも、歴史の表舞台からは姿を消した」

「その話と今までの話、どう関係が?」

 ヨハネが愚鈍にも訊くと彼はヨハネを見やって言った。

「私の言葉は、君にとっての真性異言となるだろう」

 最初、その言葉の意図するところが分からなかった。ヨハネがきょとんとしていると、彼はにわかに肩を震わせて笑った。

「何だい、それ」

 ヨハネがようやく口を開くと、彼は微笑みながら、「冗談だ」と呟く。彼の冗談が本当なのかそれとも嘘なのかは誰にも判断出来ない。きっと嘘発見器にだってさえ、彼の言葉の真偽は伝わらないだろう。

「真性異言はゼノグラシアと呼ばれる。宗教的意味を含むのならばグロソラリアだが、この二つには明確な差がある。君もよく知っておくといい」

「僕が知っていたら、役に立つのかい?」

 ヨハネが訊くと彼は、「役に立つ、立たないだけで全てを判断材料にするのはよくないな」と戒めた。

「思わぬところで、こういう知識があるのとないのとでは差があるものだ」

 彼の言葉を聞きヨハネは肩を竦める。やはりその時には彼の言葉の半分も理解出来ていなかった。

「グラシデアの花、というものがある」

 彼の言葉に、「聞いた事があるね」とヨハネは応じた。

「確かシンオウで主に語り継がれている。幻のポケモン、シェイミに由来する花だ」

 国際警察としてシェイミの情報は頭に入っていた。彼は頷き、「似ていると思わないか?」と尋ねる。

「何が?」

「真性異言の別名と」

 ヨハネは目を見開いて薄く微笑んだ。

「偶然だろう」

「だろうな。しかし、こうも考えられないか? その言葉が消滅した事で、代替物としてその言葉が誕生した。ポケモンに関連する事柄のほとんどが、自然物の代替である事を君は知っているか?」

 ヨハネは黙りこくった。その沈黙が答えだった。

「君には何度話したか知れないが、ポケモンは何も意味なくこの世にあるのではない。全ての物事には必ず意味がある。ポケモンはこの世界の欠損を埋めるべくして誕生した。私はこの存在を第三種生命体と名づけている」

 彼の話の中でよく出てくる名称だ。第三種生命体。人間と自然物を第一種と第二種と大別し、さらにその枠から外れたポケモンに名称を与えた彼の造語だ。しかし、彼の仕事柄、適当に名づけたとも思えない。彼は研究者であった過去を持つからだ。

「第三種生命体がこの世界の欠損部分を補完するために、名称を拝借した、と?」

「私は、ポケモンの発見と共に消えていく存在を知覚している。この世界では稀な人種、いや、もっと言えば危険思想だ」

 彼の言葉にヨハネは、違う、とも、そうだとも言わなかった。ただ一言、「面白いね」と返しただけだ。彼は視線を振り向け、「君のそういうところが好意に値する」と応じる。

「私の事を間違っていると糾弾するわけでもなく、かといって私にただ賛同するわけでもない。君は、私にとってしてみれば第三種生命体のようなものだ」

 ヨハネは乾いた笑い声を上げた。

「それって褒められているのか分からないよ」

「もちろん、褒めているのさ。私の知る限り、この世界の中で異物感に囲まれて生きている数少ない人間の一人だからね」

 彼の言葉にヨハネは真顔になって、「知る限り、と言った」と応じる。

「言ったが?」

「僕のような人間はいるのか?」

 いつだって不安だった。自分の感情が間違っているのではないかと。自分の存在がこの世界より爪弾きにされるべきものなのではないかと。しかし、彼は答えを濁す事はない。

「いるさ。本来ならば、この世界は君のような人間ばかりであったはずだ。だと言うのに、哲学者は偽りの代替物に置き換えられている。書物からは彼の者の名前は消え失せ、偉人と哲学者は歴史上から消滅し、紛い物達が名を連ねている」

「それは誰曰くだい?」

「オリジナルさ。この私の」

 彼は立ち上がった。話が切り上げられるかに思われたが彼は続けた。

「人間が他の種族と異なる点、何だと思う?」

 唐突な問いだが、これは彼の口癖だ。何度もこの問いの前に立ち塞がれたので今日は答えを用意していた。

「哲学だ」

 この答えに彼は感嘆するかに思われたが、応じ方は淡白なものだった。

「イエス。それも一面の答えだろう。哲学する事、人間は考える葦だと説いた哲学者がいた」

「パスカル」

「イエス。君は偽りの哲学者に惑わされる事はないのだな」

「だから、この世界に馴染めない」

 ヨハネが肩を竦めると彼は笑った。それも一瞬の事で、「では哲学とは」と問いの言葉が返ってくる。

「君がその答えに至った構築式を語ってもらおう」

 それは、とヨハネが言葉に詰まった。この答えは昨晩、寝る前に不意に浮かんだもので熟考の末に求めた答えではなかった。それを察したのか、「どうやら」と彼は口元に笑みを浮かべる。

「私の答えに至る鍵ではないようだ」

 彼が立ち去ろうとする。ヨハネは呼び止めた。

「もうちょっと話そう」

 彼は目を瞠って、「君は珍しい」と告げる。

「僕が? どうして?」

「私と一分一秒でも長く話そうとするのが、だ。大抵の者は私と話す事に耐えられない。何故か、理由は分かるか?」

 当然、ヨハネには分からない。何故ならば彼と話す事は楽しいし、有益だと思えるからだ。彼は答えた。

「教えよう。私は自らを鏡であると感じている。鏡の前で問答したところで意味のない事。それとも、君は鏡の前で問答する事が好きなのかな?」

 微笑んだ彼にヨハネは頭を振った。

「鏡なんかじゃない。生きている人間だ」

 ヨハネの言葉に彼は少しだけ目を見開いたが、すぐに無表情の中に消えていった。

「私は、生きているのか?」

 その問いがどこに向けられたものなのか、ヨハネには分からなかった。その時はただ闇雲に、「生きているとも」と応じた。

「僕と、話している」

 すると彼は空間の一点を睨んで忌々しげに口にした。

「もしかしたら、今思考している私はこの世に未練などないのではないか。身体を捨て、どこかでもう一人の私が考えているのではないかと思うと、突然に怖くなる。この世界で自分だけがオリジナルだと思える余裕が消え去るんだ」

「何を言っているんだ。君はここにいる。オリジナルだ」

「誰も自分の脳髄を引き出して眺め観察する事が出来ないように、私という存在もまた、眺め観察する事は出来ない。客観的な思考とは、ヨハネ君、それを意識した瞬間から消滅しているのだ。誰一人として自分の脳幹と対面した事がないように、誰一人として自分の感情と主観を交えずに向き合える人間などいない」

「君の言っている事が分からない」

「分からないか。私にも分からない。ただ、言い知れぬ不安だけがある。オリジナルを語る私もまた、何者かのオリジナルによって束縛されているのではないかと。ドッペルゲンガーというものを知っているかな?」

「対面したら死んでしまうって言う、もう一人の自分」

「何故、対面したら死ぬのか、考えた事は」

 ヨハネは素直に首を横に振った。

「憶測の世界では、医学上脳の一部機能が損なわれる事によって起こる脳障害だと考えられているが、それだけではドッペルゲンガーは説明出来ない。私は、こう考えているのだよ、ヨハネ君。対面する事に恐怖はあるか?」

 ヨハネは尋ねられているのだと分かり、「そりゃあ」と答える。

「あるに決まっているだろう。自分を幻視するんだから」

「では人は何故、自分の似姿と出会う事に恐怖するのか。それは人の根幹材料であるオリジナルであると言う自負が脅かされるからに他ならない。オリジナルとは、どこからどこまでの事を言う? 人間は、それまでの経験の蓄積とダイアログによって存在を維持しているのだ。ならば人間とは、もっと言えば子供とは、自分の似姿を造る事に限りなく近いのではないか。親は何故教育する? どうして優れた人間、自分の知性に近い人間を描こうとする」

 それは人間の原罪の事を言っているのだろうか。ヨハネには答えは見えなかったが、とりあえず帳尻を合わせた。

「それは、親が子にそうあって欲しいと思うのは当然の欲求だから……」

「何故、自分と隣り合った人間、隣人を描くのか。自分自身と対面する恐怖は抱くのに、自分に限りなく似た誰かと出会う事には恐怖せず、むしろ恍惚すら覚えるのか。親は子に、立派な大人になれと教えるが、その実エゴと利己心の押し付けに過ぎない。そしてエゴの発するところは親という個人だ。教育によっては親と正反対の性格に育つ場合があるが、それでも親の形質を受け継ぐ。この世界に、自分の遺伝子を分けた存在が確かに存在する。君はまだ若い。人の親になった事はないだろう」

 その通りだが、先ほどから彼の言葉には責め立てる何かを感じた。自分を責めているのか、ここにいない誰かを責めているのか。

「子供とは、人間の、親の似姿だ。親という存在を知らなくとも親代わりの人間がいれば、その通りに子供は育つ。子供は親の映し鏡だ。子供というものは必要以上に、親の形質を受け継ぐのだと、肝に銘じたまえ」

 彼はそこで言葉を切った。ヨハネは言葉の奔流に押し流されそうになったが、必死にしがみついた。

「君がどうしてそんな話をするのか分からない」

「鏡だと、私は言った。子供が親を、親が子供をある一点では蔑視し、軽視するのと同じように、鏡を鏡と素直に受け取れる人間は少ない。そこにあるのはただ光を屈折させ、反射させるだけの板だと言うのに、それを額面通りの意味で受け取れる人間はいないのだ。同じように、私を私として認識出来る人間もまた、存在しない」

「僕はいる。こうして君と話している」

 ヨハネの言葉に、「そう。それこそが奇妙な巡り会わせだよ」と彼は目を細める。

「本来ならば交わるはずのなかった光が交錯するように、あるいは遠く離れた街角の風が大嵐を引き連れるように、君と私は何故だか出会った。この出会いは必然なのか、否か」

「僕は出会うべくして出会ったと思っている」

 彼は表情を変えない。ヨハネは、「本当さ」と付け加えた。

「僕は惑い、啓示が欲しかった。君の存在がそれなんだ。闇を照らす光」

「私は闇であっても、光である自覚などないのだがね」

 彼は口角を緩める。自分の言葉は大それたものに聞こえたかもしれない。しかし、この言葉に嘘はない。何なら嘘発見器にかけてもらってもよかった。

「君と出会ってよかったと思っているよ」

「それは後々禍根を残す。私と君との出会いが必然ならば、私を排除しようとする世界の動きもまた、必然なのだ」

「君を排除なんて」

 ヨハネは頭を振った、心底、信じられないとでも言うように。

「あるはずがない」

「どうかな。この対話の時点で怪しい。私と君は、こんな場所で話し合っている」

 彼が周囲を見渡す。国際警察官ならば必ず給付される一室だった。地方毎に、必要とあらばスペースは確保される。たとえそれが首都の一等地であっても国際警察官の権限がそれを許す。ヨハネはその頃はまだまだ新米だったが、国際警察官の実力は何もキャリアだけではない。人望もあれば事件を検挙した数にも左右される。

「バディが優秀なんだ」

「ああ。ハンサムとか言ったか、君の相棒は」

 先輩刑事の名前を出されてヨハネは一瞬うろたえたが、それもすぐに笑顔の中に隠した。

「ハンサムさんはとてもいい人だよ。他人を外見で判断しない。それに、思想でも」

「思想で排除していたとしたら、君は彼のバディではないだろうからな」

 ヨハネは両手の指先を合わせながら、「聞きたいんだ」と言った。

「何が?」

「最弱のポケモンがいないとして、じゃあ最も恐れるべきポケモンっているのかな、って」

「恐れるべき、か」

 彼はそう呟いた後、壁の一点を凝視してぽつりとこぼす。

「最も恐れるべきは無害なる者なのだ」

「無害なる者?」

 首を傾げると彼は首肯した。

「見た目からして攻撃的なポケモンは、人間でも、それは恐れるべきだと判断する。君達で言うところのラベル付けだ。絶えず行っているだろう。攻撃的な見た目を持っていたり、あるいは攻撃的な性格のものを恐れるように出来ていたりする。そう思っているのではないか?」

「違うのかい?」

 彼はゆっくりと頭を振って、「それは大きな誤りだよ」と正した。

「忘れてはならない。一番に恐れなくてはならないのは、棘を持ったり、毒牙を持ったりしている存在ではない。それこそ取るに足らないような、丸々として、保護欲を駆り立てるような存在こそ、恐れるべきなのだと」

「ポケモンだと、何がそれに相当するのかな」

 彼は少しだけ考える仕草をしてから答えた。

「タブンネ、というポケモンが、それに近い」

「イッシュによくいるポケモンだ。経験値をたくさんくれるポケモンだね」

「だがあれは、経験値目的でやってきた輩を殺害するような冷酷な一面も持ち合わせているのだ。タブンネは攻撃技を決して覚えないわけではない。豊富な補助技から敵意の存在しないポケモンだと思われているが、君は、技マシンではあるがあれが十万ボルトも冷凍ビームも覚えるのを知っているかね?」

 彼の言葉にヨハネは目を見開いた。

「……初めて知った」

「だろう。無害を装っているあれに立ち向かおうとしてはいけない。下手なレベルのポケモンで手出しをすれば手痛いしっぺ返しが待っている」

 ヨハネは、「ふぅん」と頬に手を当てて聞き流していたが、少しだけ気に留めておく事にした。

「そのポケモン、簡単に手に入るのかな?」

「輸入制限にも引っかからないだろう。大規模なポケモントレードの場ならばどのような低レベルのポケモンとでも交換してもらえるはずだ」

 ヨハネはその言葉を聞いてから、「ちょっと手持ちに加えてみようかな」と呟いた。彼が微笑む。

「それはいい。タブンネを操るポケモントレーナーなどそうそういない」

「いや、僕が操るんではないんだ。ただ、育成しておいて損はないかな、と思っただけで」

 ヨハネの言葉の含むところを察したのか、彼は、「なるほどな」と口にした。

「いいんじゃないか。君ならばうまい組み合わせを思いつきそうだ」

 ヨハネは彼のそういうところが好きだ。全く飾る様子もない言葉を投げかけてくれる。虚構だらけの世界に少しだけ光が差したような気がするのだ。

「ありがとう。いつか、君にも見せたいと思う」

 ヨハネの言葉に彼は顔を翳らせた。

「それはないだろう。その頃には私はもう、君の傍にはいられない」

 悲しい宣告だったが恐らくは事実になるであろう事はヨハネも理解していた。彼は身を翻す。

「そろそろ読書に戻るとするよ」

 彼はいつでも本を携えていた。焦げ茶色のブックカバーで何の本なのか一度聞いたが、どうしてだか頭に残らなかった。専門分野ではないせいだろう。

「君はいつだって本を読んでいるな」

「本というものはいい。いつだって新鮮な風を脳に運び入れてくれる」

 彼がこめかみをつついて微笑んだ。ヨハネは知っている。彼は眠れないのだ。文字通りの意味で、彼が眠ったところを一度として見た事がない。もしかしたら彼は眠るという機能を排除されたのかもしれないと思ったが、そうではないらしい。本人曰く、唐突に夢の中に行き着く事があるらしい。それは治したほうがいいと進言したが、自分のものになっていると彼は聞き入れなかった。

「私は本を読む。君は寝たまえ。眠る事もまた、国際警察官の仕事だろう?」

 彼の言葉にもっともだと感じてヨハネは頷いた。

「ああ。おやすみ、キシベ」

 彼――キシベは口角を吊り上げて笑い返した。

「おやすみ、ヨハネ君」

 そのような会話を何度も交わしたのを今では懐かしく感じる。

「もう、十年、か」

 ヨハネは呟き、自分の時間があの時以降止まっている事に気づく。その時間の秒針を進めなければならない。そのために必要なのが今行っている事だった。

 ヨハネがいるのは看守が詰めている管理塔の一室だ。その部屋は国際警察の権限でヨハネのプライベート空間となっている。ヨハネは椅子に座ってキシベとの思い出を反芻していたが、やがて立ち上がって壁の一角に触れた。壁がスライドして開き、中から蒸気に包まれたモンスターボールが数十個並んで出てきた。窪みが空いているものもある。自分が打った一手だ。

「最も恐れるべきは無害なる者。ノア・キシベ。ロキを殺せるか? あの子供は無害そのもの。悪意など微塵にも感じていない。そして、彼女は鏡だ」

 鏡。キシベが絶えず自分に言い聞かせていた人間の業を呼び覚ます道具。

「鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。今ならば意味が分かるよ、キシベ。ノア・キシベは迷いの具を相手にして、どのような行動に出るか、楽しみだ」

 ヨハネは口角を吊り上げて嗤った。



オンドゥル大使 ( 2014/09/03(水) 21:58 )