第四章 七節「無害なる者V」
イシスは翌日になっても現れなかった。
ノアは監房を訪れようかと思ったが、昨晩の手前、まともに顔を合わせられる気がしなかった。
食堂でそれとなくイシスの姿を探してみたが、イシスらしき影を見つける事も出来なかった。
「どうしたのかしら?」
ノアは呟きながら小説家の分の朝食を受け取る。小説家はスリープの能力を維持するために自分から動く事は避けなければならなかった。ノアは朝食の入ったパックを受け取って監房に戻ると、小説家とロキがじゃれあっていた。
「一晩で随分と仲良くなったのね」
ノアが朝食を手渡すと、「ありがと」と小説家は早速ロキに朝食を与えた。
「自分の分は?」
尋ねると、「いいのよ。一回分くらい」と小説家は手を振った。
「でも、わるいな。ロキがお姉ちゃんのをとっているみたいで」
「ああ、ロキちゃんはそんな事を気にしなくっていいのよ」
小説家にもイミテの事を話してしまった負い目があるのだろうか。ロキを可愛がろうとしているのが分かった。ロキの姿はスリープによって見えていない。そのお陰で能力の及ぶ範囲ならば看守に見つかる心配はなかったが、ロキの分まで朝食を貰うわけにもいかなかった。数に齟齬が出れば相手も気づくだろうからだ。
ノアはパンを口にしながらそういえばロキは今までどのように生きてきたのだろうかと考える。刑務所で育った子供だというのならばイミテが育てたのだろうか。看守達がそのような事を許すはずがない。それにロキはイミテが既に死んだと言っていた。だとすれば孤独の中、どうやって食料や寝床を手にしたのか。気になったが追及するのも彼女の傷を抉りかねないと思い、やめておいた。
「ねぇ、ロキちゃん。あの人から、あたしの事は何て聞いているの?」
ノアは聞くべき事を確かめたが、小説家は渋い顔をした。重要な事だ。だと言うのに、ロキの事を気遣っているのだろうか。
ロキはそんな二人の思いとは裏腹に明るい声を出した。
「あの人はノアお姉ちゃんがママを助けてくれるって言ってたよ」
「助けるって、どんな風に?」
質問を重ねると小説家が歩み寄ってきて、自分の名を呼んだ。
「何よ」と返すと、潜めた声で耳打ちする。
「ロキちゃんに嫌な思い出を思い出させたくないとは考えないの?」
「あたしだってそれくらいは思っている。でも、聞かなきゃ前に進めないでしょう」
イシスの言葉が思い出される。全てを疑ってかかるくらいの気概でなければ生き残れないと。それほどの覚悟は抱けなかったが、ロキの存在に少しばかりの違和感を覚えているのは確かだ。
「あの人の事が、母親の事に繋がるかもしれない」
「だとしても、よ。一人の女の子を泣かせるかもしれないって怖がっていたら、いつまで経ってもあの人には辿り着けないわ」
ノアは小説家を押し切り、「教えて欲しいの」とロキに言った。ロキは小首を傾げる。
「あの人は、ママを助けるのにはお姉ちゃんの力がいるって言っていたよ」
「あたしに、何をしろって言っていたの?」
「うーん……」
ロキは指で下唇を押し上げながら考え込む。ノアは我慢強く待った。
「あの人って言うのは誰?」
「あの人はあの人だよ。ロキにだって分かんないもん」
やはりスリープによる記憶操作が働いているのか。ノアはさらに追及する言葉を重ねた。
「ねぇ、ロキちゃん。これはとても重要な事。あの人の正体さえ分かれば、そのあたしのやるべき事も分かるかもしれない」
それでもロキは呻るばかりで答えを口にはしなかった。小説家が割って入り、「時間がかかるのよ」と声を差し挟んだ。
「ロキちゃんだって、まだ」
ロキの頭を撫でながら小説家が口にする。まだ、母親を失ったショックから抜け出しきれていないと言うのか。しかし、イミテの事だって充分に分かったわけではない。
イミテがどのような経緯で死を迎えたのか。そもそも本当に死んだのかさえ定かではないのだ。
「あたし、ちょっと出てくる」
ノアが立ち上がると、「どこへ」と小説家が尋ねた。
「看守に聞き回ってくるわ。情報を少しでも多く得たい」
ノアが監房から出ると、「いってらっしゃい」とロキが手を振った。ノアは微笑んで手を振り返す。
この少女が敵だと思いたくはない。しかし、イシスの言葉には引っかかりを覚える。
「イシスに会わなきゃ」
昨日の事を謝ろう。ノアはそう思ってイシスの監房へと向かおうとしたが、その途中で緊急搬送の医師達と担架に出会った。誰が運ばれたのだろう、とノアが呆然と考えているとイシスの監房の前に人だかりが出来ていた。歩み寄り、「どうかしたの?」と女囚の一人に声をかける。
「この監房の囚人が怪我したんだって」
その言葉にノアは、「まさか……」と声を詰まらせていた。背中を嫌な汗が伝う。
「怪我って、どの程度の?」
「片腕に骨折。それに感電でショック死寸前だったって。誰かがやったんでしょうね。今、看守さん達が犯人探しに躍起になっているわ」
現場を検証する看守が手を払って、「さぁ、行った行った」と集まってきた囚人達を散らそうとする。ノアはその手を掴んで言葉を投げた。
「この監房の囚人って、イシス・イシュタルじゃないの?」
ノアを認めた看守が目を見開いて、「そうだが」と口にする。
「まさか、お前がやったのか?」
「そんなわけないでしょう」
ノアと看守がやり取りしていると、不意に囚人の誰かが声を上げてノアを指差した。
「こいつよ、こいつ!」
その言葉にノアも看守も固まった。
「昨晩、この監房に入っていくのを見た!」
「何言って……」
ノアの言葉が形になる前に、「昨晩の防犯カメラの映像が出ました!」と慌しく看守が入ってきた。
「昨晩、深夜二時頃。この監房に入ったのは間違いなく、その場にいる囚人番号666。ノア・キシベです」
看守がノアを指差した。ノアが状況を整理出来ずにいると、「やはり、世界の敵の娘か」と看守がノアへと手錠をかけた。ノアが驚くよりも先に看守の鉄拳が頬に食い込む。痛みが電流のように走った。
「時刻0932。囚人番号666、ノア・キシベを傷害及び殺人未遂容疑で一時拘束する!」
ノアにはわけが分からなかった。全てがジェットコースターのように過ぎ去っていくのを感じるだけだった。
レンズを光が透過する時、純粋な物質以外は弾かれる。余計な情報を省いたものだけが自分の中に情報として蓄積されるのを知っていた。
生まれつき持っている能力だ。母親から教わった事と言えばこの能力の制御方法だった。
制御出来なければ、暴走して自身の姿さえも忘れてしまう。現に母親はその症状に陥っていた。自分が元々どんな姿であったかを忘却の彼方に追いやってしまったのだ。だからこそ、この力を行使する時には万全を期さねばならない。
「ロキちゃん。大丈夫よ」
小説家の声にロキは目を向けた。既に「小説家」の構成要素は自分の中に存在する。あとは組み上げていくだけだった。
「ううん。ねぇ、ノアお姉ちゃんは?」
「そう言えば遅いわね。ノアったら、看守さんから情報を得るって言っていたけれど……」
小説家が立ち上がり、監房の表へと歩いていく。ロキはその一瞬で自分の中の構成要素を組み換えた。
「まだ戻ってないみたい。それに何だか騒がしいような――」
振り返った小説家が言葉をなくした。何故ならば、そこには自分の鏡像が立っていたからだ。小説家は何度か目をしばたたき、状況認識を行おうとしたが不可能だったらしい。その唇が叫びの形状になる前に、モンスターボールの緊急射出ボタンを押し込んでいた。
「いけ――」
光を纏って弾き出されたそれが小説家を組み伏せる。その間にスリープへと向き直った。スリープは突然に主人が二つに増えたものだから狼狽しているようだ。念力をうまくコントロール出来ないようである。「小説家」の声を完璧に真似て命令した。
「大丈夫よ、〈インクブス〉。主人は私」
その言葉にスリープが大人しくなっていくのが分かった。少しだけ自分を取り戻したスリープへと「小説家」の声で言い放つ。
「あれを見えないようにしてくれる?」
組み伏せた小説家を顎でしゃくると、スリープは手を波打たせ小説家の存在という認識を食った。これで小説家はどれだけ喚こうが誰の認識にも入る事はない。
「攻撃」
命じると小説家に馬乗りになっていたそれが電流を手から発した。小説家は瞬く間に失神する。
小説家の意識が完全に飛んだのを確認してからボールに戻し、自分の姿を再構築した。
ロキは唇から言葉を紡ぐ。
「さて、どうしようかな。イシスも小説家も無力化したし、ノアお姉ちゃんは看守に縛られて動けない」
鼻歌混じりに自分の戦果を確認する。この一日で障害となる二人を排除した。あとは王手をかけるだけである。
「せっかくだし、ノアお姉ちゃんも舞台から降りてもらおう」
ロキはスリープの認識を食う能力を用いたまま、監房から出た。常駐している看守の袖を引っ張る。看守には自分は見えていない。幽霊に袖を引っ張られたものだろう。彼の眼には自分が映っていながらその存在は確認出来てないというのが滑稽だった。
ロキは看守の構成要素を一瞬にして自分に叩き込み、自己を分解して組み直した。看守の目の前に全く同じ姿の看守が現れる。ようやくそれを認めた看守が驚愕する前に、ロキは組み伏せた。自分を対象に組み換えている間は対象の能力に左右される。ただの子供に過ぎないロキでも相手を真似ている間はその力が使えるというわけだった。成人男性の力で看守を気絶させる。
ロキは鼻歌混じりに歩み出した。看守の皮を纏っている今、スリープの認識を食う能力は必要ない。
「ノア・キシベ。俺のママのために、お前は無力化されなければならない」
途中ですれ違った看守が目をぽちくりさせて振り返ったが空耳だと思ったようだ。声は成人男性のそれである。
ロキはノアが捕まっているであろう取調室へと向かった。