第四章 三節「希望の方舟」
番人の待つ通路へと続く岩壁は固く閉ざされていた。ノアとイシスは違和感を覚える。小説家はスリープが二度も奪われるのは御免だとついてこなかった。
岩壁を撫でながら、「変ね」と呟いた。
「前なら、何かしらあったんだけど」
岩壁が柔らかかったはずだ。しかし、小突いてみても固い感触が返ってくるばかりである。
「間違えたか?」
イシスが疑問を呈するが、そんなはずはなかった。周囲には十二番通路と十四番通路へと続く道がある。十三番通路、ここだけが閉ざされているのは以前と同じだ。だが、ここには招かれれば通れるはずなのだ。だというのに、岩壁は自分達を拒んでいるかのようだった。
「この岩壁、レベル100のメタモンのはずなのに」
「もしかして、もうわたし達に協力する気はないのか?」
イシスの言葉に嫌な予感が過ぎった。ノアは覚えず声を張り上げる。
「カフカ。ホズミ。いるんでしょう?」
ノアの声にコツン、と足元で音がした。視線を落とすと、一本のスプレー型の回復薬が落ちていた。
「回復の薬だ」
イシスが拾い上げたそれを見つめて口にする。どういう事なのか。ノアは問い質したかった。
「どういうつもり?」
岩壁を叩くが拳が痛いだけだった。
「ノア。わたしは多分、あいつらがもう協力する気はないという意思表示のために、これを送ってきたんだと思う」
回復の薬をイシスは掴んで舌打ちを漏らす。
「……ここまでって事なの?」
「ああ。無責任だが奴らはそのつもりなのさ」
そんな、とノアは声にならない叫びを漏らす。
「カフカ! ホズミ! あなた達は、知っているんでしょう? この刑務所に渦巻く、陰謀の影を!」
ノアがさらに声を増して岩壁を叩く。その手首を取って、イシスが頭を振った。ノアが目を向けると、イシスは、「行こう」と告げた。
「もう、ここには来てはいけないんだ。わたし達自身で、決着をつけろって事なのさ」
ノアはその現実を受け容れられなかったが、イシスは当に受け容れている様子だった。受け容れて次の段階に進もうとしている。その歩みを止めてはならないのだ。
「……行きましょう」
ノアは踵を返した。一言だけ、言い置く。
「ありがとう」
地下二階を二人分の足音が残響した。
気配が離れていくのを感じながらカフカは瞑目していた顔を上げる。既にこれは決定されていた事だった。自分達はこれ以上、手助けはしない。それは番人という線引きのために必要な事だった。
「ホズミ様。しかし、本当にこれで、よかったのでしょうか」
胸のうちに湧いた一抹の不安。あの二人は確かに充分な強さにはなった。だが、それを凌駕する刺客がこれから先、送り込まれてくるだろう。それに対しては未だに無力。カフカは、伝えそびれた事がないか不安だったが、隣にいるホズミはそのような素振りは見せない。
『私達が教えられる事は全て教えたわ。カフカ』
エメラルドグリーンの瞳には僅かな翳りがある。彼女達の未来が不安なのは何も自分だけではない。
『そこから先に進むか否かはあの子達次第』
戻る事もまだ出来るのだろうか。しかし、退路を消し去るような彼女達の足取りにはまだ補助したい気持ちに駆られる。
「しかし、退路を消したのは他ならぬ私達ではないでしょうか。彼女らは、ノア・キシベもイシス・イシュタルも大きな流れの中に呻いているに過ぎない」
二人の前ではカフカは尊大な態度を取っていたが、それも全てこの刑務所で生き残る術を教えるため。現実は甘くない事を痛感させるためだ。
『大きな流れに逆らうのも人の自由。私達は、あの子達に強制する事なんて出来ないのよ。全てはあの子達がこれから決める事』
「しかし、ホズミ様。ノア・キシベの〈キキ〉も、イシス・イシュタルの〈セプタ〉も、まだあまりに弱い」
『弱さを補えるのはどんな時であれ自分だけよ。最後に頼れるのも、ね』
ホズミの言葉は非情だ。冷徹に物事を割り切っている。自分にもそのような冷たさが備わっていれば、と感じる。
「せめて、餞別に送った回復の薬を有効に利用してくれる事を願うばかりです」
本当の窮地に陥った時、あれ一つでは何の役にも立たないかもしれない。それでもないよりかは、とカフカが提案したのだ。ホズミは最初から何も渡すつもりはなかった。
『もしかしたら、あなたの行動は、彼女達の運命を、少しだけ変えたかもね』
少しでも変えられたのだろうか。特にノアは過酷な運命を辿る事になるだろう。カフカはその事に対して、未だに甘さを捨て切れなかった。
「もう少しだけでも、強くしてやれたのではないか、と後悔しています」
『これ以上の強さは自分で得るしかない。あなただって分かっているでしょう? 私達は番人。ここを離れるわけにはいかない』
「それは、その通りですが……」
『あなたの心が分かるわ。カフカ。ノアさんに、着いて行きたかったのね』
見透かされてカフカは言葉を飲み込む。ノアには何かしら眩しさがあった。一つ自分の壁を越える度に、彼女は輝きを湛えるだろう。その光を推し進める一端に自分もなれれば、と思ったのは間違いではない。しかし、それをホズミに察知されたのは恥に違いなかった。
従者であろうと決めたというのに、主人に自分以外の君主につく事を命じられたようなものだ。
『何も恥じ入る必要はないわ。だって、あの子は眩しい。私の感知野の眼にも、あの子がこれから放つであろう光は直視出来ないわ』
ホズミは微笑んだ。カフカはそれでも顔を伏せたまま、「申し訳ありません」と謝った。
『謝罪する必要はないわ。あの子には、あるのよ。私にはないものが』
「しかし、君主の前で浮気心を見せるなど、従者にあるまじき事」
カフカが跪くとホズミは薄く笑った。
『そう狭い見識で動く事もないと思うけど。あなたはノアさんに未来の光を見た。それは私も同じだもの』
カフカは僅かに顔を上げる。ホズミは、『眩しいわね』と呟く。
『あの子が絶望の方舟となるか、希望の方舟となるかはこれから次第だもの』
ノアはイシスと共に監房へと帰っていこうとしてはたと気づいた。
「ねぇ、あんたがこのままこっちの監房に来ちゃまずいんじゃない?」
その言葉にイシスが肩を竦める。
「実は逃げているんだ」
「逃げている?」
初耳だった。何から逃げているというのだろう。
「何で?」
「わたしを同室の女が襲ってきたって言っただろ。あの人の手先で」
「ああ」
ノアが頷くと、「それだよ」とうんざりした様子でイシスがこぼした。
「重要参考人だから。何度も調書を取られる。わたしは三度目で愛想が尽きた」
ノアはくすりと笑った。案外、短気なのかもしれない。
「何だよ」とイシスが唇を尖らせる。ノアは素直に返した。
「存外に沸点が低いのね」
「悪かったな。こちとらこのふたご島刑務所も二度目なんだ。それだってのに、何度も取調べを行う看守達が悪い」
二度目である理由を、そういえばノアは訊いていなかった。尋ねてもいいのだろうか、と逡巡の間を浮かべていると、「……あの」と控えめな声がかけられた。ノアとイシスはそちらへと目を向けた。