第三章 七節「否定するという強さ」
「十三番通路? だからないって、そんなもん」
どうやら地下二階は工事中らしい。際限なく岩肌を削る音が響き渡る。イシスは工事を担当している人間に話しかけたのだが、うんざりと言った具合に返された。
「もしかして、最近そんな事聞いた奴が多い?」
イシスが尋ねると、「うん。まぁな」と首に巻いたタオルで額の汗を拭いながら作業員は頷いた。地下二階は蒸すようだ。ふたご島は基本的に寒冷な気候にあるが、地下二階は何か巨大な生物の息遣いでも感じさせるような熱気に包まれていた。その事からも、ただの工事中の場所ではないとイシスは判断した。
「何でか、十三番通路の事を聞きたがる。意味が分からん」
「十三番通路の開通計画は?」
「ないよ。そもそも図面にも存在していないんだ」
イシスは図面を見せてもらうように頼んだ。作業員は疲れているのか、ため息混じりに、「好きなだけ検分しな」と図面を手渡して作業に戻った。
図面には十二番通路と十四番通路の事は明確に書かれているのに対して、その合間を埋める十三番通路については何一つ記述がなかった。
だが不自然な間隔をイシスは見逃さなかった。
十二番通路と十四番通路の間に、一部屋分の間隔がある。通路を通す事は不可能ではないように思えた。
「勝手に検分しろ、ね」
イシスは図面を置いて、問題の岩肌に触れる。すると、岩肌が弾力を持って押し返してきた。イシスが目を見開いて、振り返る。作業員達は気にする素振りすらない。
もう一度、強く押そうとすると、突然岩肌が変形し、イシスの腕を引っ掴んだ。ずぶずぶとイシスの身体が沈んでいく。岩の中に押し込まれてひき潰されるかに思えた。しかし、圧迫感はすぐに失せ、イシスは硬い地面の感触を味わう事になった。
「……冷たい」
頬に当たる地面の感触に、「ずっとそうやっているつもりか?」と声が降りかかった。つい先ほど、夕食の時に聞いた声と同じだ。イシスが顔を上げると、緑色の巻き毛の女性がゴミでも見るような目つきで自分を見下ろしていた。
「何だ、あんた……」
「他人の領分に入ってきて、図々しい事この上ないな」
イシスは立ち上がり、「何言って」と声を上げようとすると、『やめなさい』と涼やかな声が響き渡った。イシスはその声の主へと目を向けてハッとする。
枯葉色の髪をした少女が立っていた。エメラルドグリーンの瞳が聖母の光を宿す。イシスはたじろいでいる自分を発見した。
「あんたは……」
「言葉に気をつけるんだな、罪人。ホズミ様は、お前ら下賎なる者と喋る口を本来持たぬお方だ」
イシスは少女へと視線を向けたまま、「ホズミ」と呟く。『そう』と少女は喉元を押さえて言葉を返した。
『私の名前はホズミ。事情があって電子音声を使わせてもらっています。もし気に障ったのなら謝りますが』
「いや、そんな事は」
イシスは反射的に答えていた。女性の射るような視線がイシスを突き刺す。ホズミは、『彼女の名はカフカ』と説明した。
『私の従者です』
「従者、って」
「言葉通りだ。痴れ者め」
カフカはイシスを指差した。イシスがむっとしていると、「何の真似だ」とカフカが口にする。
「こっちの台詞だ。妙な空間に入れやがって。どこの監房だ、ここ?」
周囲を見渡すが鉄柵の類はない。カフカが、「俗人と一緒にするな」と怒る声を出す。
「ここは監房ではない。妙な空間と言ったが、貴様が望んだから入れてやったまでだ。本来ならば入れないからな」
イシスはカフカの言葉に宿る棘を無視して話が通じそうなホズミを視界の中央に捉える。
しかし、このホズミという少女は何かしら直視を忌避させるものがあった。枯葉色の髪か、それともエメラルドグリーンの瞳か。
――否、どちらでもないのだとイシスは直感する。
纏っている空気だ。ホズミの纏っている空気が凡人離れしているのである。イシスは覚えず身が引き締まる思いだった。
「あんた、いや、あなたは、何者、なんですか……」
覚えず敬語になった事にカフカは、ほう、と感嘆の息を漏らす。
「俗人なりに理解したようだな。ホズミ様が異なる、という事に」
異なる、というレベルで済ませていいものか。この世にありながら、この世ではない場所に居所があるような少女だった。感覚としては唐突に幽霊が現れたものに近い。
眼前に現れたものに、ただただ言葉をなくしている状態だ。
『そう畏まる必要はありませんよ』
ホズミは柔らかな、春の陽射しのような声で告げる。イシスはきゅっと心臓が収縮したのを感じた。
『あなたは我々モンスターボールの番人の前に現れるだけの素質を持っている』
改めて番人だと紹介されても違和感しかなかった。この二人がモンスターボールを管理しているとでもいうのか。イシスの無遠慮な視線に、「弁えろ」と罵声が飛ぶ。
「我々は管理しているのではない。監視しているのだ」
同じではないか、とイシスは声を出そうとしたがホズミの姿を見てその言葉を呑み込んだ。ホズミは微笑んで、『まずはお話を聞きましょう』と言った。
『積もる話は後に、でもいいのでは?』
イシスは肺の中に溜まった息を吐き出して、空気を入れ替えてから口火を切った。
ノアの事を知るために、自分はここに来たのだと。ノアの名前を出すとカフカが頬を引きつらせた。ホズミはしかし、微笑むばかりである。イシスは話が二人に通じているのか不意に不安に駆られた。
「ノア・キシベ、か」
忌々しげな空気さえ漂わせてカフカは言い捨てる。
『よくありませんよ、カフカ。そんな風に人の名前を呼ぶのは』
ホズミの戒める声に、「ですが」とカフカは抵抗の声を出す。
「あの者に接触した事がそもそもの間違いだったのです。だから、こんな俗人までもがこの場所を知るはめになる」
イシスを見下ろして高圧的にカフカは吐き捨てた。イシスが、「何を」と反抗しようとすると、『ノア・キシベさん、についてですね』とホズミが言った。
イシスはぴたりと立ち止まって、「あ、ああ」と気後れ気味に頷く。
『ノアさんについて、語れる事は少ないわ。でも、私達の知っている事ならば、でいいかしら?』
ホズミが尋ねると、「もちろん、です……」と身体から抵抗する気力が凪いでいくのを感じた。カフカは鼻を鳴らして腕を組む。
『あなたの知っているノアさんは、決して世界の敵というわけではなかった』
イシスの印象の中ではむしろ普通の少女だった。素直に頷くと、「あの眼が、普通か?」とカフカが口にする。また、眼の話題が出た、とイシスは感じ取った。小説家も言っていた。ノアの眼に何がある? ただの傲慢な眼だとか、そういう印象上の事を言っているではない。実際に感じ取れる何かを、この二人は感じているはずなのだ。イシスは切り込む言葉を挟んだ。
「わたしは、留置所でノア・キシベに会った。でも、その時はただ雑談しただけだ。あれはみんなが言うような世界の敵の娘だとか、そんなんじゃない。ただの歳若い少女だ」
「そう見えるのは、貴様だけかもしれないぞ」
カフカの言葉に、「どういう意味だよ」とイシスも言葉尻がきつくなる。
「ノア・キシベ。あれについて、貴様はどの程度知っているというのだ?」
カフカの質問にイシスは話すべきか迷ったが、自分が知りうる事実をまず打ち明ける事が事態究明の鍵になるのだと早期に判断した。
イシスは留置所で出会ったところから、面会人より〈デュアル〉を手渡され、ノアの無力化を命じられた事まで話した。すると、無力化の辺りで、「やはり……」とカフカが苦々しい表情を浮かべた。それに疑問を差し挟む前に、『続けて』とホズミに促され、イシスは胸の内を語った。
「……でも、あいつが本当にわたしにとって害するものだとは思えないし、それにどうしてノア・キシベを恨んでいるのか、自分でも分からない」
「答えは今の話の中にある」
カフカは直立不動のまま言葉を返した。イシスが目をしばたたかせる。
「何……?」
「面会人だ。貴様の中でノア・キシベの認識が変わったとしたらそこでしかありえない。そして、貴様の認識を変えた張本人は悠々と胡坐を掻いて今の状況を俯瞰している事だろう」
「どうして分かる?」
イシスの問いかけに、「愚問だな」とカフカは首を引っ込める。
「認識を操る能力なら、既に話に上がっているじゃないか。〈インクブス〉。我々が生け捕ったスリープこそが元凶だよ」
カフカの思わぬ言葉にイシスは、「確かに」と呟いた。だが、ならば何故? という新たな疑問が湧き起こる。
「どうして、面会人は手離したんだ? それだけ強力なポケモンならば――」
「強力ではない、という事なのだろう」
手持ちのはず、と続けかけたイシスの声をカフカが遮る。イシスはその結論の行く末に、「ちょっと待って欲しい」と声をかけた。
「認識を操る能力のポケモンが強力ではないだって?」
「現に小説家のものになっている。つまり、手離しても惜しくはない程度の戦力だったという事なのだろう。あるいは、手離す事で真価を得られるものだったか……」
カフカの濁す声にイシスは小説家から聞いた話を符合させた。
「あの人、って小説家は呼んでいたな。それはわたしの面会人と」
『同一、と考えていいでしょう』
言葉の後をホズミが引き継いだ。イシスは面会人の顔や特徴を必至に思い出そうとするがどうしてか記憶のその部分だけが欠落している。面会人と会った事や、手渡された事、それにノアを無力化しろと言われた内容までは思い出せるのだが、肝心の面会人がどのような姿かだったのかは分からない。
「その、あの人とやらは何がしたいんだ? このふたご島刑務所の支配か?」
「そんなものは必要ないだろう。ここは、既にカントーの支配下だ。それに鎖に繋がれた罪人達を支配しても何ら利益はない」
確かに、とイシスは顎に手を添えて考え込む。考えられる事を列挙していく。
「今から頭に浮かんだ案を言っていく」
『どうぞ』とホズミが手を差し出した。イシスは片手を上げて指を一本立てた。
「かつてのカイヘン、ヘキサの蜂起のように罪人を集めて一つの戦力として纏め上げようとしている」
「ノー、だな。それはカントーがもっとも恐れる事ではあるに違いないが、ヘキサのように長期計画が必要になる。キシベはロケット団の遺物を用いてヘキサ蜂起を成し遂げた。カントーが下調べもせずに罪人達を一箇所に繋いでおくはずがない。ふたご島には戦力的意味はないと判断すべきだろう」
カフカの言葉は相変わらず冷たいが理論は通っている。イシスは指を折って、「じゃあ、この案は却下だ」とすぐに引き下がった。元々、答えを導き出すための手段に過ぎない。この案は自分でも早々にないと感じていた。
「クーデター。軍隊化された囚人による反政府組織の発足。それの頭になろうとしている」
その言葉にもカフカは首を横に振った。
「答えはノーだ。さっきのヘキサの案を言い換えただけじゃないか。それに、反政府組織のようなものと今、カントーのお歴々は対話の真っ最中だ」
カイヘンのブレイブヘキサの事だろう。自分達で作った組織が歯向かってきた事にカントーは憤慨している。だが、ブレイブヘキサは武装蜂起のような真似はしない。あくまで対話によるカイヘンの自由化を求めている。だからこそ、カントーからしてみれば国際社会で叩く事が出来ない分、性質が悪いのだろう。イシスはこのふたご島刑務所でそのような組織立った振る舞いが出来るとは思っていなかった。
「じゃあ、この案も却下」
指を折ると、「そもそも」とカフカが声を発する。
「罪人達から認識を奪い、顔を隠している相手が頭目として矢面に立つとは思えない。キシベは異質だった。あれは偶像として自身を成立させつつも、自分ではない部分で自分を操っていた人間だ」
『欺く事に長けていたのでしょうね』
欺く、という言葉が引っかかったがイシスは次の案を出す。
「じゃあ、個人的な復讐。ふたご島刑務所の中で、怨恨を晴らそうとしている」
「ノア・キシベの無力化によって、か?」
イシスは頷き、「先の二案よりかはまだ現実味がある」と付け足した。
「個人的な怨恨で世界の敵の娘を殺す、というのはありそうだ」
カフカは一瞬、賛同したのかに思えたが、「しかし」と声を出す。
「殺す、とは一言も言っていない」
イシスはその言葉にハッとする。自分が命じられ、さらに今までの一連の行動に付き纏う違和感はそれだ。
殺せ、とは言っていない。無力化、という部分が奇妙なのだ。
「……言われてみれば確かにそうだ。どうして、あの人とやらは殺せと言わないのだろう」
「その必要がない、とも捉えられるな」
「その必要がない……」
イシスが言葉を繰り返すと、「可能性だ」とカフカが口にする。
「もしかしたら、あの人と言うのはノア・キシベを過大評価しているのかもしれない。だからこそ、殺害は無理だと判断し、無力化、という言葉を用いたか」
しかし、それにしてはおかしな点が付き纏う。イシスは指摘した。
「だが、それだと複数の人間にノア・キシベを無力化させる命令を出していたのは何でだ? 最初から、その複数人でノア・キシベを囲えばいい話だ」
「囚人に限定しているのも奇妙と言えば奇妙だ。看守を使ってノア・キシベを殺す事など動作もないように思えるが……」
『あるいは、既にそれを試しているか』
差し込んできたホズミの声にイシスは、「看守殺し……」と呟いていた。カフカが目を向ける。
「何か、思いついたのか?」
「いや、これはあくまで想像に過ぎないんだけれど」
イシスは浮かんだ考えを取り下げようとしたが、カフカが、「言え」と詰め寄った。
「どうせ、さっきから想像の連続だ」
思わぬ言い回しにむっとしそうになったが堪えて、話す。
「看守殺し。それなら説明がつくと思ったんだ。もし、看守までもがグルになってノア・キシベの無力化をしようとしていたら?」
「だから、どうだって言うのだ?」
「あんたらは知っているのか分からないが、ノア・キシベの面会人は元ロケット団幹部、ランスだった」
「そのくらい、承知している」
イシスは頷いて、「ならば」と可能性へと至る言葉を放つ。
「ノア・キシベの無力化をしようとしていた看守と、恐らくは彼女の懐柔を目論んでいたロケット団が対立した可能性は?」
カフカは初めてその可能性に思い立ったように目を見開いたが、ホズミは落ち着いた表情のままだった。まるで精巧に出来た人形のようだ。
「……しかし、ランスも今や死に、その可能性を立証する手段がない」
「何とかして、ロケット団に会う事は出来ないか?」
イシスの提案に、「不可能だ」とカフカは却下する。
「そういう犯罪者は別の監房に入れられているだろう。無論、ポケモンの所持など許されているはずがない。厳重に管理され、しかも、ロケット団だと? そのような組織は二十年近く前に解体されている。カイヘンや他地方ならばいざ知らず、その打撃をもろに受けたカントーが残党を許しているはずがない」
「つまり……」
「現存するロケット団員など僅かな例外を除いて存在しないという事だ」
イシスは悪態をついた。それではランスに至る鍵はなくなった事になる。諦めかけたその時、『不可能ではない』とホズミが告げた。
「ホズミ様?」
カフカの声に、『私はこのふたご島と同調している人間』と自らの胸元に手をやる。
「同調?」
言葉の意味するところが分からずにイシスが戸惑っていると、「ホズミ様、それは――」とカフカが思わず叫び出しそうになった。ホズミは片手を上げてカフカを制し、『いいのよ』と言った。
『この人は真実を追い求めている。ならば、私が感じていた事も、包み隠さずに話すべきでしょう』
ホズミの淀みない言葉にカフカは、「ですが……」とまだ何か言いたげだったが、何度か言葉を飲み込む仕草をした。そうでなくてはやっていられない、とでも言うように。
『イシスさん。あなたは隠し事をせずに、全てを話してくださいました。ならば、私にもそれに応える義務があると感じています』
「失礼ですけど、あなたには何が?」
イシスが尋ねると、『全て』と答えが返ってきた。
「全て、って……」
『このふたご島刑務所で観測される全ての出来事に、私は干渉出来る』
驚愕の言葉に、「まさか」と笑い話で済まそうとしたが、ホズミも、カフカも真剣な眼差しだった。それが嘘偽りでも、誇張でもない事をイシスは確信する。
「でも、そんな事」
『もちろん、一人では出来ない。私は出歩く事すら儘ならぬ状態。だから、カフカが〈ザムザ〉をあらゆる場所に潜伏させている。それと同調し、私はソナーのようにこのふたご島刑務所を感知野の網に捕らえる事が出来る』
〈ザムザ〉、というのは何なのか、と目線で問いかけると、「私のつけたメタモンのニックネームだ。悪いか?」とカフカが高圧的な態度で返した。イシスは覚えず吹き出しかけた。
それを見咎めて、「貴様、笑ったな」とイシスが怒りを露にする。
「いや、笑ってない、笑ってないよ」
「嘘をつけ。今、吹き出した。貴様、何故笑う」
「だって、まんまじゃん。グレゴール・ザムザでしょう? 元ネタ」
イシスの指摘にカフカは頭の芯まで赤くして、「何もおかしい事はない!」と叫んだ。
「いや、おかしいって。あんたの名前がカフカでしょう? だから、フランツ・カフカの『変身』になぞらえて〈ザムザ〉ってわけだ」
まさしくメタモンにおあつらえ向きな名前というわけだと納得したが、カフカは指摘されて顔を伏せた。
「……今まで誰にもばれなかったのに」
『カフカ。何も恥じる事はないわ。世界にただ一つ、あなただけのニックネームなんですもの』
ホズミが笑顔でいさめる。イシスへと向き直り、『いいかしら? 続き』と言った。
「あ、すいません……」
話が脱線した事にイシスが謝る。カフカは鼻を鳴らして腕を組んだ。
「貴様だって、まともな名前ではないくせに」
『カフカ』とホズミが声を出すと、カフカは渋々ながら怒りを鎮めたようだ。確かに自分の〈デュアル〉も変わっている。そもそも、自分が付けた名前ではないので馬鹿にされても特に痛くも痒くもなかった。
『それにしても、博識ね。現在において、旧書物はほとんど役に立っていないというのに』
「ああ、ほとんどが電子書籍に取って代わられたからかな。でも、わたしはそういうのが覚えやすい性質なんだ」
「余分を覚える、というわけか」
吐き捨てたカフカにイシスは睨む目を向けた。カフカに訂正する気はないようだ。
『それでも知識をきちんと使える、というのは貴重よ』
ホズミの評に、イシスは既視感を覚えた。つい最近、同じような褒められ方をした事がなかったか。その予感が形になる前に、ホズミが言葉にする。
『同調、というのは分かるかしら?』
イシスはその部分が最も疑わしいと思っていたので早速口にする。
「そうだ、同調。それって何? ポケモンと意識を通わせるみたいなもの?」
「そのような低次元で済ませていい能力ではない」
カフカが怒気を含めた声で口にする。
『同調、とはポケモンとの意識面、及び身体面でのシンクロ状態を指します。反応速度の向上、声を伴わない命令、さらに意識圏の拡大、というメリットが存在する、かねてよりポケモンと人間の間に存在する溝が埋められた形となる状態の事』
イシスは初耳だったので、「そんなの可能なのか?」と訊いていた。
『眉唾物だけど、ずっと前から取り沙汰されていた。ただ実証する手段がないのと、人体実験になってしまうという面から、半ばタブー視されてきたものよ。ポケモンと同調する事は高度なトレーナーならば一度くらいは経験するものなのだけれど』
イシスはホズミの言葉に驚くよりも先に疑いの目を向けていた。可能不可能の領域を超えて、既に実証しているらしいホズミだが、自分にはそれを感じられる手段はない。
「貴様、ホズミ様を疑っているな」
カフカの声に、「いや、そんな事」と返しながらも心の奥底に沈殿した疑念を払拭する事は出来なかった。
『いいのよ、カフカ。誰でも一度は疑うもの。むしろ、疑っているほうが正常だわ。このようなお話をまともに受け入れられるほうがどうかしている』
ホズミの声にカフカは大人しく引き下がった。しかし、その眼には敵意が宿っている。
『私はこのふたご島という空間と同調している。正しくはここに住まうポケモン達と、ね。彼らの見たものや感じた事が感知野を通して私の中へと入ってくるのよ』
それは正常な挙動なのだろうか、とイシスは感じた。自分の中に何者かの意思が入り込んでくるなど、通常の精神で持ち堪えられるとは思えなかった。
『不思議そうね』と心を読み取ったようにホズミは言う。
『最初は、確かに平常心ではいられなかった。自分がおかしくなったものだとばかり思っていたわ。でも、少しばかり時間を置いて、それにカフカがいてくれたから、今の私はここにいる。代償として声を失ってしまったけれど』
首筋に手をやってホズミは俯いた。イシスは尋ねる。
「同調ってのは、代償を伴うものなのか?」
「必ずしもそうではない。ホズミ様の場合は、あらゆるポケモンと同調するために身体機能の一部を捨てる必要性に迫られたのだ。一つ捨てれば、一つ手に入れる。等価交換として、ホズミ様はこの力のために声を失ってしまった」
カフカとしては、それは望んでいるところではないような言い草だった。イシスはカフカとホズミがどのようにして今の関係を形成したのか、気になったが追及はよしておいた。彼女達からしてみれば踏み込まれたくない領域かもしれない。
『同調、の存在についてはこのくらいしか説明出来ないけれど、大丈夫かしら?』
イシスは、「まぁ、そんだけ分かったら」とそれ以上の説明を断った。
「ならば、今度は我々の番だ」
カフカが前に出てイシスを指差す。突然指されて、イシスはうろたえた。
「な、何だよ」
「そのポケモン、カメテテの使い方を貴様は熟知しているのか?」
イシスは指されているのが自分ではなく、〈デュアル〉のほうだと気づいた。
「基本くらいは……」
「本当か? まさかノア・キシベと同様に、特性もタイプ相性も分かっていないのではないか?」
「そこまで重傷じゃない」
返しながら、ノアはそんな基礎的な事さえも分かっていなかったのか、と思い返す。ポケモンは持った事がないと留置所では言っていたが本当だったのだろう。
「こいつの特性は悪い手癖。直接攻撃を受けると、相手の持ち物を奪う。お陰でこの様だ」
イシスは〈デュアル〉を床に置いて懐から今まで奪った持ち物の数々を取り出した。指輪や貴金属は看守や、その目を盗んだ囚人達のもの。その他にも役に立つのか立たないのか分からない道具ばかりだった。
「よく集めたものだ」
カフカが鼻を鳴らす。
「集めたくって集めたんじゃない。〈デュアル〉がわたしの接触した人間から勝手に奪っていくんだ。今でもこいつはわたしに触れた瞬間、あんた達の何かを奪うだろう」
それはトレーナーである自分から離れていても同じ事だ。〈デュアル〉は顔面を下にして、ぺったんぺったんと這い進む。驚くほど鈍い動きに、「これで戦闘用か?」とカフカは訊いてきた。
「これでも戦闘用。いや、わたしがノア・キシベを無力化するために与えられた一手。レベル自体は低いわけじゃない。ただ、使い勝手がわたしの本来のバトルスタイルじゃないって話」
「これも、あの人とやらの計画か」
カフカは地面を這う〈デュアル〉を見下ろした。その眼に敵意の欠片もないのを感じ取って、「意外だな」と声を出す。
「意外?」
「ポケモンが出ていて、一応戦闘用だって警告しているのに、何もしないどころか敵意すら感じさせない」
「このポケモンが私達を攻撃するような様子がないのはすぐに分かる」
「それも、同調とやらか?」
イシスの言葉に、カフカは緩めていた敵意の波を露にした。
「勘違いするな、罪人。ポケモンそのものには、ほとんど敵意などないのだ。それは同調など使うまでもなく、分かる」
「どうしてだよ。このふたご島刑務所の野生ポケモンは人を襲う事もある。だから、囚人にポケモンの携帯が許されている」
「それは、貴様らがポケモンの領域を侵すからだ」
カフカの言葉には迷いはなく、ただ淡々と事実のみを告げているようだった。
「わたし達が?」
イシスの疑問にカフカは〈デュアル〉に視線を落としながら答えた。
「人間にはその自覚などなくっても、ポケモンは何かしらを感じ取る。それは彼らにしか分からない。自然界は人間だけで成り立っているわけでも、ポケモンだけで成り立っているわけでもないのだからな」
人間だけのものではない、と豪語する連中はいてもポケモンだけのものでもない、と口にする相手は初めてだった。イシスは、「どうして、そう思う?」と訊いた。
「事実だろう。人間だけでこの世界は存在しない。ポケモンもだ。人間の認識なしには、その存在は確定しない」
「認識……」
小説家と話した事と重なる。人間の認識とはかように脆く、儚いものでありながら一世界を成立させるのには必要不可欠ではある。
「ポケモンでも人間でも領分を侵されれば、それは敵とだと判断せざるを得ない。あるいはふたご島という土地そのものが我々人間の手を拒むためにポケモンを作り出したか」
「土地の、力……」
「眉唾物だ」とカフカは吐き捨てたが、イシスには何かしら引っかかるものがあった。ふたご島と同調しているホズミという存在を目の当たりにすればあながち馬鹿に出来たものでもない。
「貴様のバトルスタイルは?」
カフカが尋ねたのでイシスは正直に答える。
「ダイケンキによる白兵戦。器用貧乏に育てた感はあるけれど、あらゆるタイプに応戦出来るようになっている」
「ならば、本来ならばダイケンキが貴様の隣にいるはずだったというわけか」
「そういう事さ。でも何かの手違いか、はたまたあの人とやらの策略か、使い勝手もまるで違うポケモンを掴まされた」
イシスは〈デュアル〉を見下ろす。肩を竦めて、「これじゃ役立たずだ」と言った。その言葉に、「役立たずなポケモンなどいない」とカフカが返す。
「役に立たないのはポケモンではなく、それを扱うトレーナーのほうだ。問題があるのは、トレーナーだと思うがな」
「何だよ。さっきは人間も不可欠だって言ったのに、もう意見変えるわけ?」
「戦いの話だ。ポケモンと人間が共闘する場合、脆弱な人間は邪魔者だ。それを補っても余りある性能にまで引き上げるのには、それなりの努力が必要になる」
『その努力の、手助けをしたいのよ』
続けられたホズミの声にイシスは目を向けた。エメラルドグリーンの瞳が細められる。
『あなたが運命に抗う力を得られるように、私達の助けを借りるつもりはない?』
ホズミの言葉にイシスは首を引っ込めて、「別に困っていないけれど」と返す。
「ホズミ様は放っておけない性分なのだ。ノア・キシベの事まで背負い込まれて」
「だったら、余計な心配を増やすもんじゃないな、従者さん」
イシスの言葉にカフカが食いかかろうとすると、ホズミが手で制した。
『モンスターボールを渡しましょう』
「何で? わたしは別にそれが欲しくって来たわけじゃない」
『承知しております。ノア・キシベの真実が知りたくって来たのでしょう。ですから、真実に至るためにも、これは必要なのです』
ホズミが壁に手を翳すと、岩肌が不意に口を開けてモンスターボールを一個、地面に落とした。〈デュアル〉が反応して身体を伸縮させながら近づき、それに取り付いた瞬間、赤い粒子として吸い込まれた。〈デュアル〉がモンスターボールの機構に細工して自分が入れるように調節したのだろう。
『本来ならば、一度野性に帰して捕まえるのが筋なのですが、あなたのポケモンは何をするべきか理解しているようですね』
ホズミの言葉に、「ただ馬鹿なだけさ」とイシスは答えた。
「特性が働いて、そこら辺に転がっている道具すら自分のものにしてしまうんだから。それに、こいつに対して拘束用のモンスターボールは意味ないし」
「それでも、逐一看守側にモニターされるよりはずっといいだろう」
カフカの声に、「ありがたいっちゃ、ありがたいね」と応える。
「でも、誤解すんな。わたしが頼んだわけじゃない」
「何だと」と売り言葉に買い言葉のカフカへと、『よしなさい』とホズミがいさめる。
『カフカ。あなたとイシスさんの相性は最悪のようね』
「言われるまでもないよ」
イシスは〈デュアル〉の入ったモンスターボールを拾い上げて腰のホルスターにつける。
「ただ、貰ったモンスターボールと情報だけは前向きに受け取ってやる。言うまでもない事だけれど、ここの事は話さないから安心するといい」
「貴様程度、ホズミ様は歯牙にもかけん」
カフカの言葉に、イシスは鼻を鳴らして、「邪魔したな」と身を翻した。
「本当に、いいのか? 我々と特訓すればそのカメテテの本来の力を引き出す事が出来るのに」
「必要ない。これでもトレーナー歴はそれなりだ。それに、確かめたかった事が分かったから、もういい」
『あなたが確かめたかったのは、ノアさんが敵かどうか』
ホズミの声に踏み出しかけていた足を止めた。肩越しにホズミへと視線を向ける。
『そうでしょう?』
「さぁね」
実のところ、本質を言い当てられて動揺している部分はあった。だが、それを悟らせたくなかったのだ。
『何故、自分がノアさんを恨んでいるのか。あなたはその根元を知りたがっている』
「奇妙かい?」
『いいえ』とホズミは首を横に振った。
『とても気高い意思だと思うわ。自分の内奥にある理由に対して懐疑的なのは自らさえも疑うという確固とした自我を持っているから。あなたは与えられるままの状況に対して、ノーと言える強さを持っている』
「買い被り過ぎだよ」
イシスは答えて岩壁に手をついた。
「開けてくれ」
『最後に一つだけ、忠告しておくわ』
ホズミの声にもイシスは振り返らなかった。それでもホズミは口にする。
『あの人の一手が自分だけではない事。それだけは頭の隅に置いて』
「もういい。出してくれ」
カフカが指を鳴らすと岩壁に吸い込まれてイシスは地下二階のフロアに佇んでいた。突然現れたように見えたイシスへと作業員が目を見開いて凝視している。
「今、岩壁から……」
「何の事だか」
イシスはとぼけて中央階段を上った。