ポケットモンスターHEXA NOAH - イシスとカメテテ
第三章 五節「信用に足る存在」

 電気も点いていなかった。暗い、じめじめとした監房の奥ですすり泣く声が聞こえてくる。

 それだけで躊躇してしまいそうだが、ここで臆せば負けだと自身を奮い立たせた。念のため、カメテテの〈デュアル〉を抱えて来ている。もしもの時は盾にするくらいの気持ちだった。まだ〈デュアル〉を信用したわけじゃない。

「いるのか?」

 イシスは暗がりに向けて尋ねていた。すると、すすり泣きの声が消え、代わりに擦り切れたレコードのような弱々しい声が聞こえてきた。

「……誰?」

「わたしはイシス。イシス・イシュタル。ノア・キシベの、知り合いだ」

 自分の事をどう紹介するか決めあぐねて出した言葉に暗闇の中の何かが身じろぎしたのを感じた。イシスは壁際にある電灯のスイッチを探り当てて押そうとする。

「いいか? 電気を点けるぞ」

 返事はない。イシスは了解と受け取って電気を点けた。
驚いた事に目的の人物はほとんど目の前にいた。監房の中央に座って顔を伏せているのは間違いなかった。

「あの時の、小説家……」

 イシスは留置所での騒ぎを思い出す。あの時、喚いていた小説家に間違いなかった。では、どうしてこの監房にいるのか。イシスは問い詰める。

「あんた、どうしてノア・キシベと同じ監房にいる? 新規の囚人なら古参の囚人と同室にされるのが決まりのはずだ」

 イシスの質問に小説家は答えない。ただ呆けたように顔を伏せて、口を半開きにしている。イシスは屈んで視線を合わせた。しかし、その眼差しは虚ろだ。何かを見つめている風ではない。眼球はただ光を反射しているだけに見える。

 イシスは息を吐き出してから小説家の襟首を掴んだ。小説家の首が揺らぐ。

「答えろ。どういうトリックを使った? ここのルールで決まっているはずだ。新規の囚人は必ず振り分けられる。一体、何を」

 イシスの言葉に小説家は頭を振って部屋の一点を指差した。その空間には何もいない。「でたらめを」と激昂しようとしたイシスへと小説家が呻くように口にする。

「〈インクブス〉」

 その名称で先ほどまで何もなかった空間が捩れて、黄色と茶色の体表を持った小太りな何かが出現した。突然の事にイシスは腰を抜かしそうになった。

「これは……」

「〈インクブス〉。スリープと呼ばれる私のポケモンよ」

「スリープ……」

 手を波打たせているスリープは何かの技を放っているのだと知れた。

「何をさせている? 余計な真似をすると」

「余計な真似なんて。ただ、私は〈インクブス〉に認識を食わせているだけよ」

「認識、だと?」

 小説家の襟首を突き放し、「どういう事か、説明してもらおうか」と強い口調で言い放つ。小説家は襟元を直しながら、「最初の経緯から、でいい?」と訊いた。イシスは頷く。

 小説家は面会人からスリープを受け取った事を語り、そのスリープを使ってノアの無力化を最初、命じられていたのだと言った。思わぬ符合にイシスが戸惑う。

「ノア・キシベの無力化……」

「そう。あの人にポケモンを手渡される時の、それが条件だった」

「あの人、ってのは?」

 小説家は頭を振る。

「私にも分からない。〈インクブス〉は私の夢も含めて食んでいる。それを抽出しようとしたけれど無駄だった。本来の持ち主であるあの人の命令には逆らえないみたい」

 小説家は暗い眼差しをスリープへと向けた。イシスは佇まいを正して、「夢、ってのは?」と訊いた。

「認識の事よ。私はノアの認識を食って、何も出来ない木偶の坊にするように命じられていた。でも、あの子は私が思うよりも遥かに強かった。何よりも、あの眼が……」

「眼、って?」

 イシスが尋ねると小説家は、「いいえ」と顔を伏せて首を振った。どうやら話したくない事らしい。

「ヤミカラス。ノアは〈キキ〉と名づけたそのポケモンに私は敗北した。私とノアは、この刑務所で生き延びるために、ある提案をした。あなた、ポケモンを出しているのね」

 イシスのカメテテへと小説家が目をやる。イシスは、「まぁ」と頷いた。

「どうして?」

「こいつが勝手に出てしまう。モンスターボールの二十四時間のロックなんて簡単に解除して、気づいたら外に出ているんだ。だから、最初から出していたほうが後から怪しまれずに済む」

「看守は何も言わないの?」

「看守さんは諦めているよ」

 イシスは肩を竦めた。

「逆に仕舞っているほうが怪しまれる」

「そう。だったら、〈インクブス〉の能力は必要ないわね」

「認識を食う、ってどういう事だ?」

 イシスが尋ねると、「そのままの意味よ」と小説家は説明を始めた。

「例えば、あなたには今、私が見えている」

 小説家が指を一本立てる。「これは何本?」という質問に、イシスは答えた。

「一本だろ」

「そう。それこそが認識、視認という領域ね。視て、認めているわけよ。あなたの脳がね。でも、〈インクブス〉はその認識するという正常な動作に介入する事が出来る。つまり、先ほどまで〈インクブス〉の姿があなたには見えていなかったように、あなたの眼は確かに光と色の信号を捉えているにも関わらず、脳へと送り込まれる過程で邪魔が入っている状態ね」

 イシスは小説家の言葉を理解しようとしたが、ちっとも頭に入る気がしなかった。仕方がないので小説家に後は任せる事にする。

「つまり、どういう事だ?」

「〈インクブス〉は見えない偽装を行っていると思ってくれればいいわ。常人の眼には映らない。隠れ潜み、他人の夢に入り込む。それが〈インクブス〉」

「夢魔、の名前通りというわけか」

「あら。知っているのね」

 小説家が意外そうに目を見開く。

「これでも余計な知識には詳しいんだ」

 イシスがこめかみを突きながら口にする。

「それで、あの人ってのは誰なんだ」

「私だって知りたいわ。そのために危険さえも冒した。モンスターボールの番人に立ち向かって、見事に玉砕した、ってわけよ」

 小説家が肩を竦める。しかし、腰に留めてあるモンスターボールは市販のものだった。ふたご島刑務所で携帯を義務付けられている黒いモンスターボールではない。

「でも、何とかして手に入れたわけだ」

「ええ。ノアが命を賭して私の〈インクブス〉を取り返して、モンスターボールまで与えてくれた。でも、そのノアが、こんな事に……」

 小説家は頭を抱えて嗚咽を漏らす。どうやらこの小説家はノアにご執心のようだ。

「どうして、ノア・キシベを信じている?」

「どうしてって、決まっているでしょう。私の〈インクブス〉を取り返してくれた。それに、もうノアとは対等な友人だわ。いいえ、ノアのほうが上、私は家来よ。ノアの物語を書きとめるために私はいたはずなのに、その肝心のノアがいないんじゃ、物語が進みっこない!」

 どうやら小説家はノアの事を大切に思っているというよりかは、自分の小説が完成しない事に危惧を抱いている様子だ。イシスは眉をひそめて、「ノア・キシベは何をした?」と質問する。

「私が聞きたいわよ」

 小説家はヒステリック寸前のように喚いた。

「ノアは何をしたの?」

「看守殺し、面会人殺しと脱獄の容疑がかかっている」

 イシスはありのままを伝えた。小説家は口元を押さえて、「何て事……」と呻く。

「ノアが、そんな……」

「わたしはあんたがそれに一枚噛んでいるんじゃないかと思ってこうやって訪ねてきたわけだ」

「言っておくけれど、無駄よ」

 小説家は首を横に振る。

「無駄足かどうかはわたしが決める。直前まで一緒にいたのはお前のはずだからな。ノア・キシベに変わったところはあったか?」

「再三聞かれたわ」

 小説家は拳を握り締めて床を叩きつける。

「何もなかったって」

「本当に?」

 イシスの声に疑念が混じっている事を感じ取ったのか、「ちょっと逞しくなったみたいだってけれど」と小さくこぼした。

「ノア・キシベはお前の〈インクブス〉を番人から取り返した、と言っていたな。番人、とは何だ?」

「番人を知らないの? 〈インクブス〉の由来は知っているのに?」

 小説家の言葉にイシスは自分の無知を恥じ入りそうになったが、今はそれを隠して問いを重ねるべきだと判じた。

「番人ってのは?」

「モンスターボールの番人よ。このふたご島刑務所ではモンスターボールが逐一モニターされている事はあなたも知っているでしょう? って、そのカメテテは解除しちゃうんだったっけ?」

「このカメテテ、……いや、〈デュアル〉は特別なんだ」

 女性が名づけた名前を口にする。大して思い入れがあるわけではない。ただ、一方で勝手な名前をつけられて、もう一方でまた違う名前で呼ばれるのは混乱するだろうという配慮からだ。〈デュアル〉がそれを気にしているかどうかはともかくとして。

「〈デュアル〉って言うの? 素敵な名前ね」

「社交辞令はいい。番人について教えてくれ」

 単刀直入なイシスの物言いに小説家は頷いて、「そうね」と語り始めた。

「このふたご島刑務所は、ずっと前にグレンタウンジムとして使われていた経緯があるでしょう?」

 イシスも聞いた事があった。グレンタウン。ふたご島から西部に位置する離れ小島であり、随分と前に活火山が噴火して町としての機能が立ち行かなくなったと言う。一時期、町にあったジムはふたご島へと移転されたが、生態系が狂う事を懸念した有識者によってグレンタウンジムはグレンタウン本島から北東に位置する人工島へと移設される事態となっている。

「それがどうかしたのか?」

「その時のジムトレーナーの一部が未だに隠れ住んでいて、ふたご島刑務所になってからもモンスターボールを司る番人として存在しているって噂」

「噂だろう」

「それが噂じゃなかったから、私は〈インクブス〉を奪われたんでしょう?」

 つまり小説家はその番人とやらに挑んで敗北を喫し、手持ちを奪われたという事なのだろう。しかし、存在すら定かではない番人がどうしてポケモンを奪うのか。イシスには不思議でならなかった。

「信じるとして、どうして相手はポケモンを奪うんだ? 不可解の種を生むだけじゃないか」

 小説家は顔を伏せて、「恥ずかしい事にね」と前置きする。

「私は〈インクブス〉を奪われた事にさえ気づいていなかったみたい。呑気に敵から貰った飴玉を舐めていたのよ。後になって、〈インクブス〉が戻ってきたから、私にはその記憶が取り戻されたけれど、もしあのまま漫然と時を過ごしていたらと思うとぞっとするわ」

「番人のポケモンは、記憶を奪うのか?」

 イシスの質問に、「違う」と小説家は首を振った。

「私のポケモンが奪われたから、記憶も奪われたのよ」

 その言葉にイシスは眉根を寄せる。

「……意味が分からないな。相手はついでに記憶を奪うようなポケモンを所持しているのではないのか?」

「相手のポケモンはメタモンよ」

 小説家は苦々しく口走った。

「メタモンは相手そのものに擬態する能力を持つポケモン。〈インクブス〉の能力をコピーされて敗北した挙句、その変身したメタモンによって私は記憶を食まれた」

 小説家は、「この様よ」と息をついた。つまり番人そのものには記憶を奪うような能力はなかったという事なのだろう。しかし、小説家のスリープが結果的にその能力を相手に植え付ける事になった。

「挑んだ時点で、自分の鏡像と戦う覚悟を持たなければならない、というわけか」

 イシスは頬杖をつきながら〈デュアル〉へと視線を落とす。もし、このカメテテが敵になったとして、どうやって倒すか。〈デュアル〉の技構成を頭に描き、「なるほど」と呟く。

「その番人は、どこに?」

「地下二階、十三番通路よ。でも、選ばれた者しか入れないわ」

「条件は?」

 その質問に小説家は、「今この状況よ」と返す。

「番人を探る者に番人は現れる。私もノアも、それを必要としたから相手が現れた。後は導かれるままに」

「なるほどな」

 立ち上がったイシスに小説家は怪訝そうな目を向ける。

「もういいの?」

「ああ。充分に参考になる意見を得られた」

 小説家はノアに関する情報を全て話したのだろう。面会前後の話を聞こうとしても恐らくは無駄だと判断した。何故ならばその前後に小説家は手持ちを奪われていたのだ。ノアの動向を探る事も、ましてや味方する事など出来るはずもない。

「一つ、訊いてもいいか?」

 イシスは小説家へと視線を配る。小説家は身を縮こまらせて、「何でも」と応じた。

「もし、ノア・キシベを援護出来る立場だったとしたら、あんたならどうする?」

 イシスの質問に小説家は面食らっている様子だったが、やがて決心したように答えた。

「もちろん、援護したわ」

「どうして? 相手は世界の敵の娘だぞ」

 自分にとって不利益となるはずだ。それに当初は、小説家がノアを無力化する手はずだったのである。敵に塩を送るのではないが、味方する理由が思い浮かばない。

 小説家は、「そんなの関係ないわ」と応じる。

「だって、友達ですもの」

「友達……」

 イシスはその言葉をそのまま返した。自分で発すると思いのほか薄っぺらく感じられる。

「あなたにはいないの?」

 小説家の逆質問にイシスは少しだけ思案した。友達。そのようなものから隔絶された生活を何年過ごしただろう。

 イシスはハッと我に帰って、「馬鹿馬鹿しい」と一蹴した。

「そんなものほど、当てにならないんだよ、ここは」

 イシスの言葉に小説家は答えなかった。監房を出て行く際、イシスは小説家をちらりと窺った。

 無条件に信じられる関係なんて、この世には存在しない。

 それこそ、有利不利、利益不利益を計算して、その上で関係を構築しなければ生きていく事など出来ないのだ。

「この世界はそんなに甘くないよ」

 イシスは誰よりも自分の肝に銘じるつもりで口にした。



オンドゥル大使 ( 2014/08/14(木) 20:29 )