第三章 二節「イシスとカメテテ」
ハッと起き上がり、枕元の時計を確認する。
「は、八時か……」
思っていたよりも眠ってしまったらしい。イシスは強張った身体を起き上がらせる。寝返りでも打ったのか、首筋が痛んだ。さすりながら、「早朝点呼には遅れたな」と呟く。
「仕方がないか」
イシスは二段ベッドの上から降りながら、洗面台に向かおうとする。その時、監房の前で看守がイシスの行動を目に留めた。
「よう、看守さん」
イシスの気安い声に、「何だ」と中年の看守は苛立ちを隠そうともせずに応じる。片手に警棒を持っており、それを振るっていた。既婚者なのか指輪を嵌めている。まるで力の象徴だと言うように。
――それは支配の象徴だ。
不意に誰かの声が脳裏に差し込んできた。イシスはううん、と眉を寄せて周囲を見渡す。誰かが呼びかけた気配はない。
「用がないなら俺は行く。早朝点呼に遅れたから、朝飯の順番は最後だぞ」
警棒を突き出して看守は告げた。イシスは、「そんなのってないよ!」と言葉を返す。
「だって、昨日はまともに眠れなかったんだから」
「知った事か。貴様らはきちんと管理された環境にいるのだ。その環境に合わせる努力をしろ。怠慢は自らの首を絞めるだけだぞ」
「そんなぁ……」としおれそうな声を漏らしながらイシスは手首に視線を落とした。左手首に手錠がかけられている。赤いランプがあり、何やら点灯する仕組みらしい。それをいじっていると、「こら!」を叱られた。
「貴様、脱獄を企てるつもりか!」
思わぬ声に、「脱獄ぅ?」と素っ頓狂な声で返してしまう。その声に、「あん?」と看守は凄みを利かせた。どうやら逆鱗に触れたらしい。「いや」と言葉を持ち直す。
「何でこれが脱獄に繋がるのか、分からないんだけれど……」
イシスは金髪を掻いた。看守は怪訝そうな眼でイシスを眺めていたが、「忘れたのか?」と声をかける。
「昨日、きちんと説明したはずだろう。モンスターボールと連動している手錠だと。ポケモンが繰り出された場合、それが反応してシグナルを送る。まったく、説明係は何をしているんだ。今日だけで二十人以上だぞ」
看守は鬱屈した気分を晴らすように警棒を振るった。イシスが身を引きながら、はて、そんな記憶があったか、と思い出そうとする。
しかし、何分自分の記憶は見当違いの方向に行きがちだ。だから聞いたようで忘れているのかもしれない。
「えっと……、つまりその」
自分の身体を見回しながら、イシスは声を出す。オレンジ色のコート型囚人服に袖を通している。腰のホルスターには球体が留めてあった。
上半分が黒く塗られたモンスターボールだ。
それを見てイシスの脳裏で記憶が奔流のように溢れ出した。立ち眩みを覚えてイシスはたららを踏む。顔を覆いながら、「そうだ」と口にする。
「わたしはポケモンを与えられた。裁判所でふたご島刑務所に十年服役しろって言われて、ここに連れて来られたんだ」
どうして忘れていた? その疑問に看守は、「まったく」と小言を発した。
「お前みたいな調子がどうしてだか昨日から今日にかけて多い。半日分の記憶がまるで虫食いみたいにない奴らがな。看守でもその調子なんだから、先が思いやられる」
「看守さんが?」
イシスが顔を上げると、「ああ、そうだとも」と看守は不満そうに鼻を鳴らした。
「退屈な監視生活が続いているからってどうにも気の緩みがあるな、あいつらは。俺はそんな事はない」
「じゃあ、看守さんは昨日の事は覚えているわけ?」
「当たり前だ。食った晩飯だってきちんと言えるぞ」
「たとえば?」
「たとえば……」
そこから先を看守は濁した。指折りながら必死に思い出そうとしている。イシスは、「覚えてないじゃん」と指差して笑い声を出す。すると、取り成すように、「とにかく!」と大声を上げて看守は警棒を振るう。その警棒の先がイシスの指先に当たった。
「痛ってー!」
イシスが叫んで指を引っ込めると、看守は鼻を鳴らした。
「貴様らのような社会のゴミとは違うのだ! 弁えろ、クズ共!」
看守が怒りに肩を荒立たせながら通り過ぎていく。その後姿に舌を出してやってから、イシスは顎に手を添えて考え込んだ。
「それにしたって、記憶がないな。どうしてなんだ……」
昨日の夕食は、と指折り数えるが、何度思案しても思い出せそうになかった。
「まぁ、いっか」
夕食が思い出せないからって死ぬ事はない。イシスは歩き出そうとしてぴちゃりと水音が背後で響いた。
足を止める。
振り返ると、奇妙な物体が床に突っ伏していた。見た目上は水色の岩であるのだが、そこから触手のようなものが二本、生えている。先端は鉤爪のように尖っており、有機的な事から何らかの生物である事は窺えた。
「何だ、これ?」
イシスは先ほどの看守に見てもらおうかと思ったが、今馬鹿にした手前、声をかけるのは憚られた。
指でちょんちょんと突くと、その岩は少しだけ動いた。
「うおっ。動いた」
イシスが指を引っ込めると、その何かは触手部分を引っ込めたり、伸ばしたりしてゆっくりと移動を開始した。
ぴちゃり、ぴちゃりと水音が聞こえる。ぺったん、ぺったんと一歩ずつ前に進む何か。イシスから離れているように見えた。イシスは、「害虫の一種かな?」と首を傾げる。
放っておこうと思った。知らないうちに現れたのならば知らないうちに消えていくだろうと。
今度こそ監房を出ようとすると、人影と鉢合わせた。小太りの女性で、「やぁねぇ」と手を振った。
「イシスちゃん。ポケモンの管理くらいきちんとなさい」
「ポケモン?」
言われて何の事だか一瞬分からなかった。女性はイシスと同じコートを羽織っている。という事は同じ囚人なのだろう。
「昨日、同じ部屋だからって事でお互いのポケモンを見せ合ったじゃない。ボール越しだけど。あの時は目的があるからそれまで見せないって言っておきながら……」
小言を言い始める女性へとイシスは、「ちょ、ちょっと待て」と制する声を出した。
「ポケモンって、どれの事だ?」
「どれって、それよ、それ」
女性は訝しげにイシスの後ろを指差す。それの指し示す先には害虫だと思っていた何かがあった。
「あれって……」
「カメテテでしょ。よく岩礁とかに張り付いているわね」
「カメテテ……」
それがこの何か――ポケモンの名前なのだろうか。イシスの振り向ける眼差しがあまりにも奇妙だったからか、女性は顔を覗き込んで、「大丈夫?」と尋ねた。
「あ、ああ、何となくぼんやりする」
「そういう人、今日は多いみたいよ」
やぁねぇ、と女性は芝居がかった仕草をした。そういえば先ほどの看守も似たような事を口にしていた。
「ぼんやりしている?」
「というか、昨日以前の一部の記憶が欠落しているみたい。重要な事まで忘れている人もいるから割と大変なのよ」
「昨日、以前……」
自分はポケモンを手渡された事を忘れていた。このカメテテというポケモンの事も今初めて知った気分だった。
「こいつって、何?」
「何って、イシスちゃんのポケモンでしょう? 勝手にモンスターボールから出ちゃったのね」
イシスはその言葉に手錠に視線を落とす。赤いランプが点いていた。
「おいおいおいおい、何て事をしてくれたんだよ!」
これでは先ほどの看守が言っていたように脱獄未遂と見なされてもおかしくはない。イシスが困惑していると、「あなた、本当にどこか打ったの?」と女性は心配そうに訊いた。
「カメテテが勝手に出るので困っている、って自分で言っていたじゃない」
その声に、困惑がぴたりと止まった。代わりに嫌な汗がどっと出てくる。
「……ちょっと待ってくれ。わたしが、あんたにそれを言ったって?」
「そうよ。このカメテテは特別だから、誰かと接触しないように気を遣っているって」
「接触……」
「ほら、また。盗っているわよ」
その言葉にイシスはカメテテへと視線をやった。そこで絶句する。
カメテテの鉤爪の先には先ほどの看守が嵌めていた指輪があった。