第三章 一節「哲学者の脳」
「人間が他の種族と異なる点、君は何だと思う?」
突然に尋ねられてイシスは戸惑った。耳につけたピアス穴をいじりながら聞いていたので半分聞き逃してしまった形となる。イシスは立ち上がろうとしたが、そこで留置係の睨みが矢のように飛んでくるのを感じた。
今、自分は監視下に置かれている。ガラス越しの面会とはいえ、自分は重犯罪者、このカントーにおける害悪と判断された人間なのだ。
悪い芽は早めに摘み取っておく。ヘキサ事件からこの先、カントーが学んだ教訓である。しかし、それが翻って今のカイヘン地方の権利を強めているのだから皮肉なものだ。当然、反発はあると考えるのが妥当だというのに、カントーはそれを怠り、ただ支配と安寧の中にカイヘンがあると思い込んだ。だから、取って代わられた。今も、カイヘンの支配は徐々に、ではあるが緩まっている。
と、そこまで益体のない考えに身を浸してから、目の前の面会者に視線を合わせようとする。
自分はいつだって別の事を考えている。誰かと喋っている時、笑っている時、怒っている時、泣いている時、実は別の何かに思いを馳せている。
子供の頃から抜けない悪癖のようなものだった。おかげで注意力散漫だと、何度か指摘を受けたものだ。
「えっと……、何だって?」
ただ、今の自分はようやく大人の視点に立てている。何度も躓き、転びながら得た処世術だ。きちんと相手の話を聞く。正直に質問には答える。それが十七年間生きてきて、ここ数年でようやく染み付いてきたのだから我ながら笑える。
面会人は呆れた様子もなく、ただ淡々と質問を重ねた。
「人間が他種族と異なる点。挙げられるか?」
「他種族って……」
イシスはちらりと視線を逸らす。目の先にはモンスターボールがあった。ただし、赤い面が黒く塗られたモンスターボールだ。
このふたご島刑務所で生活するに当たって支給されるモンスターボール。前回経験済みだ。このモンスターボールにはロックがかかっており、システム上、一日に何度もポケモンの出し入れが出来ない。また、動きは全てモニターされる。
いわばポケモン用の鎖。ふたご島という劣悪な環境のために、いちいち看守が囚人の衣食住までは面倒が見きれないと判断したと言う事実でもある。
自分の身は自分で守れ。弱肉強食の教えが嫌でも染み付いている。
ふたご島刑務所にはレベルの高い野生ポケモンが出現する。囚人が食われようが切り裂かれようが、それは囚人が悪かった。
路肩を歩いていて、車が突っ込んできたら車を責めるのではなく、歩いていた不幸な一般人を責めるという理論と同じ。運が悪かった。それで済むような仕組みだ。表向きは自由を標榜しているが、それは責任の放棄と同義である。
ふたご島は、翻ってみればカントー政府はゴミクズにまで目をかけてやるような余裕はない。今は周辺各国との連携維持が最優先。他の事は考えられない。ただし、身の内から湧いた吹き出物はきちんと消毒する。そう言いたいのだろう。
カイヘンでの独立治安維持組織ブレイブヘキサの独断に目を光らせて、今はそれを駆逐するのが先であろう。しかし、駆逐と言ってもかつてのような横暴な真似は出来ない。だから言論の場に引きずり出して、正当な言葉によって相手を黙らせる。とは言っても、カントー政府の役人達はどれも語彙が貧困で罵声と野次ばかり浴びせるのが得意な輩ばかりであるが。
また別の事を考えてしまっていた。イシスは反省しつつベリーショートの金髪の毛先を摘んだ。今考える事は、面会人の質問だ、と言い聞かせる。きちんと答えなければ、約束のポケモンでさえ手渡してもらえない。
ふたご島刑務所で何よりも優先させるべきは手持ちの確保である。裁判での減刑は期待出来ない。元より、イシスにその気はない。国家弁護士を雇って法廷で自らの無実を説いてもらう時間は無意義に思えた。どうせ、今のカントーで思想犯の行き着く先は見えている。一度捕まった以上、諦めざるを得ないのだ。
もっとも、自分の場合は二度目であるが。
イシスは毛先をいじりながら面会人の質問に答えた。
「そうだなぁ、五指がある事、とか? 手足の自由が利く事?」
まともに考えていないのが見え透いていたが、面会人は責める素振りはない。それどころか、きちんとイシスの意見を吟味するように頷いた。
「なるほど。五指と手足を特別性と見るか。そういう意見はこれまでの歴史上にも存在していた。古代には元々人間は頭が二つ、手足が四つあり、全ての循環器が二つずつ存在していた。今よりも知恵に優れ、腕力も充分にあったと言う。しかし、神は、それではヒトは恵まれ過ぎ、神々の領域を脅かすとして二つに分けた。だから、人間には生まれながらに惹かれ合う、という逸話が存在する」
「プラトン」
「イエス」
哲学者の名前を口にすると、面会人は頷いた。留置係に目を向けると怪訝そうに眉をひそめている。
「今の話は一般的じゃない」
「それはそうだろう。これは人間の特別性を説いた話だ。しかも、今の世の中ではいまいち流布しない。書物からは彼の者の名前は消え失せ、偉人と哲学者は歴史上から消滅し、紛い物達が名を連ねている」
「それは今流行っている何かの文句か?」
「いいや。私のオリジナルだ」
面会人が息を吐き出す。疲労したような吐息だった。思えば、どうしてこの面会人は自分を訪ねたのだろう。イシスは聞いてみたくなったが、話の脱線とポケモンが手渡されない危惧を考えてやめた。
「オリジナルって事は、あんたは哲学者?」
イシスは自身の指先を眺めながら訊いた。爪は自傷帽子のために綺麗に切られている。やすりで削られたためにささくれもない。
面会人は穏やかに答える。
「私は哲学者ではない」
「では何?」
イシスは面会人を指差して口にした。
「わたしの家族でもない第三者の誰かさんが、わたしの面会とポケモンの引き渡しにわざわざ現れるなんて」
本題を切り出された事に、面会人はうろたえもしない。ましてや、動揺などあるはずもなく、ただ淡白な答えが返ってきた。
「私はイシス・イシュタル、君を買っている」
フルネームで呼ばれイシスは眉をひそめた。カントーにおいてほとんどフルネームで呼ばれる事はない。呼ぶ機会があるとすれば、それは法廷で判決を下す場面であろう。
「わたしを、だって?」
「そうとも。私の中で君は一手になり得る逸材だと考えているからね」
「一手? 何ほざいてやがるんだ……」
イシスは奇妙に感じて留置係へと視線を移した。しかし、留置係の目は虚ろで面会人を見ているようで見ていなかった。その眼は何も映していない。まるで夢見ているようなうっとりとした目つきだった。
「何を――」
「イシス・イシュタル」
イシスの声を遮って面会人が口にする。まるで神託のように響き渡った声にイシスは言葉を詰まらせた。
面会人は指を一本立ててそれを唇の前に持ってくる。その時になって初めて、イシスは面会人の顔が一切視覚情報として入って来ない事に気づいた。どうしてだか、自分は目の前にいるはずの面会人の顔を認識出来ていない。その事実に気づいた時、イシスの身体は硬直していた。指先まで稲妻で貫かれたように動きを止める。眼球がわなわなと震える中、面会人の姿が揺れ動く。
「ようやく現実認識が追いついたようだ。だが、遅いな。まぁ、いいだろう。これくらいがちょうどいいんだ。これくらいのほうが使い甲斐があるというもの」
面会人はモンスターボールを突き出して、「これが支配の象徴だ」と告げた。
「カントーという土地の、ひいてはヒトの、私の支配。逃れられぬ。決してな。ただ君と話す事は面白い。先ほどプラトンの名前をするりと出した辺り、なるほど、それが君の罪か。この状況を不自然に思わないようにしてから、ゆっくりと話そう」
その時、面会人の傍に黄色と茶色で彩られた何かが存在するのを感じた。何かは手を波打たせ、発達した鼻を持ち上げてイシスの脳内に直接信号を送り込む。その思念の渦にイシスはぽかんと何かが抜け落ちたのに気づく。しかし、何が抜け落ちたのか分からない。何か重要な事が抜け落ちたような気がするが、何かの一端すら掴めない。
「話を続けようか」
面会人の声にハッと我に帰る。そうだ。面会人と話をしていたのだ。イシスは顔を片手で覆って、「またか」と呟いた。自分の悪癖だ。別の事を思案するのにうつつを抜かしていたのだろう。
「えっと……、何だっけ?」
「哲学者の話だよ。君は、何を好む? プラトン? アリストテレス?」
「古代の人間の事は、わたし詳しくないよ。ただかじっただけ」
イシスは指と指でちょっとした隙間を作る。
「それでも、この世界において君のような人間は珍しい。ほとんどの人間が、この現象に気づかずに一生を終えるのだから。だからこそ、君は思想犯としてこのふたご島刑務所に幽閉される結果になったのだろうけどね」
言われて思い出す。裁判で刑が執行され、重思想犯として懲役十年の服役が決まったのだ。思い出すと鬱屈した感情が芽生えてくる。どうせ、諦めていた事とはいえ、実際に身に降りかかるとショックではある。
「わたしは、ただ色んな考え方を覚えているだけなんだ」
イシスは覚えず口にしていた。別に、今さら罪が軽くなるとは思っていない。ただ、何かしらを理解している風な目の前の面会人に胸の内を打ち明けてからせめて服役したかった。
「昔っからの癖でさ。どうでもいい事ばかり覚えていく。だから人並みになるまで時間がかかるんだ。特別、何か遅れているわけではないけれど、そのどうでもいい部分に対して、何て言うのかな……」
具合のいい言葉が浮かばずに指先を彷徨わせる。面会人が、「容量を割いてしまう?」と助け舟を出す
「そう、それだ」とイシスは指差した。
「わたしはそればっかりが板についちまってさ。だから、昔観た映画の監督とかスタッフロールとか、全部言えるよ。でも、そんな社会的にはどうでもいい部分ばかり覚えてしまうせいでちっとも前に進めやしない」
イシスが肩を竦めると、「それは才能だ」と面会人は口にする。イシスは少し吹き出しそうになりながら、「才能?」と聞き返す。
「君の場合は長期記憶の領域が、他人よりも強いのだろう。だからそういう具合になる。意図せずしてその力を使えている事に、少しばかり嫉妬はするがね」
「嫉妬って、何を?」
イシスは掌を掲げて、「なーんにもない」と開いたり閉じたりした。
「わたしには何にも残っていない。あんたみたいな第三者が来たって事は、わたしの家族はもう諦めたんだろ」
ポケモンの譲渡でさえ。そう言い含んだ声に、「いや」と面会人はモンスターボールに指を当てた。
「そんな事はない。君にはきちんと役に立ってもらう」
「役立つ? 何の?」
「私以外でこの世界に疑問を持つ人間は貴重だが、懐かしんでばかりはいられないからね」
「ちょっと待て。どういう――」
「最後に、イシス・イシュタル。君はアルセウス創世神話を信じているか?」
強い口調で放たれた声にこれは冗談の類ではないとイシスは判断した。何かを、面会人は決めようとしている。それは裁判で下される裁判長の判決よりも恐ろしいものに思えた。
「アルセウス、神話……」
「そう。少し前だが、アルセウス教とスウセルア教による宗教対立が起きた。そのどちらもに共通しているのは、ある日、この世界はアルセウスというポケモンによって創造されたのだとする神話だ。だが、君はどう思う? ポケモンがこの世界を創ったと思うか?」
イシスは判断に困っていた。しかし、この質問は少し誤れば何かが瓦解する。その予感だけはあった。
「……わたしは、それはないと考えている」
慎重に発した言葉に、「それはどうして?」と面会人が尋ねた。
「だって、モンスターボールに入る神なんて、神様じゃないだろう」
その言葉に面会人は突然拍手を送った。イシスはびくりと肩を震わせる。
「素晴らしい」と面会人は絶賛した。
「その思考回路こそ、私の一手として欲しいのだ。君と話が出来てよかった。その考え方ならば私の思うところを汲んで、頼みがあるのだ」
「頼み、だって?」
これから獄中に入るのに? そこまでは訊かなかったが、全ては想定内だと言うように面会人は頷いた。
「ふたご島刑務所で、ノア・キシベを無効化して欲しい。それが私の望みだ」
「ノア・キシベ……」
そう言えば留置所でそう名乗る少女と出会った。だが、彼女には何の力もないように思えた。それを無力化とは。大袈裟な表現に笑い話かと思ったが、面会人の声にそういう類の空気は見られない。
「どうしてだって、そんな事を?」
「私では出来ないからだ。私が不用意にふたご島刑務所を練り歩いてノア・キシベを刺激してはまずいからね。私の計画のためにも、ノア・キシベは無力化されなければならない。来るべき時までは、ね」
イシスには面会人が何を言っているのかまるで理解出来なかった。自分では及びもつかない事を話されている気分だ。
「ノア・キシベには、何が……」
「君が知る必要はない」
面会人はそう断じて、虚空に声をかけた。
「スリープ、催眠術」
何もいないはずの空間が脈打ち、青い波紋が浮かんでいくのが眼窩に刻み込まれる。イシスは声を上げた。留置係でもいい。助けを求めたが、留置係は既にどこか虚空を睨んでいる。まるで今起こっている出来事が視界に入っていないようだ。
イシスは戸惑いよりも先に恐怖を覚えた。
「あんた、何を……」
「君にはこのポケモンが似合う。先の話だがね。惹かれ合う、引力の只中にあるのは何も人間同士とは限らないのだよ」
何の話だ、と声を荒らげようとしたが、イシスはその前に無辺の闇へと放り出された。