第二章 十二節「心のかがり火」
飛んだ意識はそのまま〈キキ〉へと宿った。
〈キキ〉が判ずるより早く、ノアの先行した意識が〈キキ〉の身体を動かしていた。螺旋を描く嘴の一撃が完全に〈キキ〉を意識の外に置いていたノクタスの腕に食い込んだ。抉り込み、緑色の表皮を裂いていく。看守が、「何を……」と声を詰まらせた。ノアを視界に入れ、その表情が驚愕の色に塗り固められていく。
「お前、眼が――」
「〈キキ〉。ドリルくちばし。完全に〈キキ〉を戦力外だと思い込んでいた代償よ」
ノクタスが振り返り様に剣を振り払う。その一撃を〈キキ〉はするりと避けた。舞い遊ぶように漆黒に濡れた翼を羽ばたかせる。
ノクタスは〈キキ〉へと剣を振り翳し襲い掛かるが、〈キキ〉は木の葉の如く舞い、剣の一撃はことごとく空を切った。
「何故、当たらない」
看守の声に、「簡単な理屈」とノアは答える。
「〈キキ〉のほうがノクタスよりも速い。この閉鎖空間で、得物を持った鈍重なポケモンと、機敏に動けるポケモンとが対峙すれば、それは自明の理」
自分の言葉でありながら、自分ではない感覚に陥る。ホズミとカフカに教わった事だ。しかし、それ以前から自分の中にあった言葉のように思える。
ノアはゆるりと立ち上がった。看守と対面する。ノクタスは、ノア捕獲を諦めていないのか、剣を突き出す。
「投降しろ」と看守が言った。
「我々に従うのならば、まだ間に合う」
「その我々、というのが知りたいわ。あんた達は何者で、何のためにあたしを追い回すのか。ロケット団のランスを殺しておいて」
ノアはランスへと視線を注いだ。特別な感情は芽生えない。しかし、育ててくれた恩義はある。ノアが歩み出すと、看守はびくりと肩を震わせた。攻撃が来ると思ったのだろう。
しかし、ノアが次にした行動は、見開かれたランスの瞼を、優しく閉ざす事だった。この男とて、ノアを野望の道具にしようとした。身勝手な連中の一人だ。しかし、ただ憎む気にはなれないのは一欠けらでも愛情があった事を確認したいからか。それは自己満足だ、と自嘲気味に理解している自分もいながら、綺麗事を捨て去る冷徹さは持ち合わせていない。
ノアは振り返って肩越しの視線を向ける。
「あんた達は何者か。この問いに答えるまでに、十秒やる」
ノアの言葉に、「いい気になるな」と看守は下卑た笑みを浮かべる。
「ノクタスは一進化ポケモン。対して、ヤミカラスは進化の道を閉ざされた。お前らが勝つ道は今やノクタスの腹の中だ」
「三秒」
ノアは伏せた瞳で告げて手を払う。すると、〈キキ〉がノクタスの背後を取った。しかしノクタスは動じない。先ほど背後を取られた感触を知っていたからだ。
「馬鹿め! ノクタスは冷静にその行動に対処――」
そこで不意に言葉が途切れた。何故ならば、〈キキ〉から放たれた一撃は看守の頭部へと叩き込まれたからだ。ごぶ、という血の塊を飲み込んだような不恰好な声が響く。ノアは続けて口にする。
「今、六秒。あと四秒以内に、問いに答えて。さもなければ」
「の、ノクタス! そいつをぶっ殺せ!」
ノクタスが棘の腕を突き出して腕に力を込める。パンと膨れ上がった腕から棘の一斉掃射が全方位に放たれる。
「ニードルアーム! 棘の腕でヤミカラスをひき潰す!」
ノクタスの散弾銃のような一撃はノアにも当然襲い掛かった。しかし、ノアは動じず〈キキ〉を呼んだ。その一声で、ノアの眼前に舞い降りた〈キキ〉が銀色の皮膜を張る。その皮膜に投射された棘の腕がそのままノクタスの身体に突き刺さった。自分の棘で自分を突き刺したノクタスは目を見開く。
「オウム返し。さっきの戦いを見てなかったのかしら。優先度の低い変化技を先制で撃てる特性、悪戯心。それに、聞いてなかった? この子はただのヤミカラスじゃない。あたしの〈キキ〉。そして、たった今、十秒経った」
看守がハッとする前に〈キキ〉が螺旋を描く嘴をノクタスへと叩き込んだ。螺旋の応酬がノクタスの身体を右へ左へと嬲る。ノクタスは磔にされたように動けないようだった。攻撃を満身に受け止め、ノクタスはその場に膝をついた。看守が、「馬鹿な」と口にする。
「俺のノクタスが……。こうも簡単に」
看守の喉元へと〈キキ〉が漆黒の刃を突きつけた。看守が顔を上げるとノアは冷たい眼差しで見下ろした。
「答える猶予は過ぎたわ。ここにあるのは既に義務だけ。答えなさい。あんた達は何者で、どうしてあたしを追い回すのか」
看守は何度か口を開こうとして噤んだ。ノアは嘆息をつく。
「だったら、代わりに質問する。ロケット団か?」
「ち、違う。ロケット団じゃない」
どうやらそれは断言出来るようだ。そうでなければ元ロケット団幹部のランスを殺した事になる。もしロケット団が存続していたのだとすれば、それは背信行為だろう。
「じゃあ、何者?」
「それは……」
そこで看守はしぼんだ風船のように勢いをなくした。答えるだけの口を持たない、とでも言うように。
「まさか、あの人の差し金?」
鎌をかけるつもりの一言だった。しかし、その一言に看守は決定的な反応を見せた。顔を上げたかと思うと、目を戦慄かせる。
「……知っているのか?」
「そうなのね?」
「教えてくれ。あの人は誰なんだ?」
「あたしが聞きたいわ。あの人とは何者なのか」
看守は嫌々をするように首を振った。
「俺にも分からないんだ。ただ、俺のサボネアを少しの間預かるって言って、それで連れて来られた時には戦闘用のノクタスになっていた。命じられたんだ。ノア・キシベを確保しろ、と」
ここでも同じか、とノアは歯噛みする。小説家と同じ、ノアの確保、または無力化を命じられている。一体、そこまで駆り立てるものは何なのか。ノアは問いを重ねる。
「サボネアを預けたって事は、顔は見ているのよね?」
「いや……」
看守は残念そうに顔を伏せる。ノアはキッと睨み据えた。その感情に同期したように、〈キキ〉が翼に殺意を宿す。看守はそれを察知して、「本当に分からない!」と喚いた。
「分からない?」
「預けたには預けたはずなんだ。そして、ノクタスになって帰ってきた。でも、何でか俺は、あの人の顔も、素性も知らないんだ。そんな相手にどうして大切な手持ちを預けたのか、今でも分からない」
看守は顔を覆った。本当に困惑しているようだった。嘘の匂いはない。この看守は本当の事だけを言っている。だが、齟齬が付き纏う。預けたはずなのに顔を見ていない。やり取りは行われたはずなのに誰かも分からない。
「男なの? 女?」
「それも駄目だ」と看守は今にも泣き出しそうだった。
「全然思い出せない。その部分だけが欠落しているんだ。まるで食い散らかされたように」
ノアはハッと思い出した。小説家があの人に貰ったと言っていたスリープならば、あるいは可能かもしれない。あの人とやらはスリープを使って自分の素性を隠しつつ、あらゆる人間へと接触を行った。その結果、ノアを狙うという目的だけを命じられた人々が集まってきた。目の前の看守も被害者なのではないか。唐突に浮かんだ考えに、だが、とノアは逡巡する。
「今の戦い、あたしを確保すればその後に何かを行うような目的があった。でなければランスを殺すなんて大仰な事、出来るはずがない。そんな事をすれば絶対にあんたとあたしが真っ先に疑われて――」
「その通りだ。だからこそ、手は打っておいた」
看守の口から滑らかに言葉が出た。しかし、当の本人には自覚がないようだ。首を巡らせて、「誰だ?」などと言っている。
「今のは、あんただ。看守、あんたの口から出た」
ノアが指差すと、「俺は何も……」と弁明する前にノクタスが起き上がった。しかし、正常に立っているわけではない。振り返ってノアは目を見開く。
ノクタスは剣に吊り下げられるように浮かんでいた。ノクタスそのものは戦闘続行不可能に見える。だが、剣は違った。剣の鍔の部分に円形の意匠がある。その部分がカメラのシャッター口のようにカシャリと開いた。その内側にあったのは水色の単眼だった。
「剣が、動いている……」
ノアは口にしてから、違う、と感じた。看守に目をやるが目の前の光景にただ呆然としている。
――こいつは何もしていない。
ノアが驚く前に剣に衝き動かされるようにノクタスの身体が跳ねる。ノアは素早く〈キキ〉を呼んだ。〈キキ〉の攻撃がノクタスのこめかみを射抜く。しかし、ノクタスは止まらなかった。その段になってようやくノアは、ノクタスを支配しているのが看守でもノクタス自身の意思でもない事が分かった。
全てはこの剣が操っていたのだ。ノクタスを支配し、看守を見張っていた。ノクタスの攻撃は〈キキ〉とノアに放たれるのではなかった。
真っ直ぐに突き刺さった先は看守の胸だった。剣が看守の身体を貫通する。ノアが戦慄していると、「どうして、ノクタス……」と看守は最期に呟いて、事切れた。ごとりと転がる看守の死体をノアはただ眺める事しか出来ない。自分のポケモンに引導を渡された男の末路に背筋が震える。
ノクタスが看守から剣を抜き取り、ノアへと向き直る。その時になってノアはノクタスが剣を握っているのではない事に気づく。剣の青い布がノクタスの腕を締め付けているのだ。これでは道具なのは剣ではなく、ノクタスのほうである。
身体を垂らしたノクタスの身体がビクンと跳ね上がり、ノアへと一直線に襲い掛かる。ノアは〈キキ〉へと命じる。
「オウム返し!」
〈キキ〉が前面に銀色の結界を張ると、ノクタスの一撃は確かに反射された。しかし、それは剣がノクタスに突き刺さるという最悪の結果だった。ノクタスは動く気力どころか生命力を奪われてその場に倒れ伏す。ノクタスの身体から体液が漏れた。
ノアは肩を荒立たせてそれを眺めていた。既に〈キキ〉と繋がっている感覚は薄れている。何が起こっているのかを理解する事だけに神経を割いた。
その時、劈くようなサイレンの音が鳴り響いた。肩を震わせると、赤い警戒色に室内が塗り固められる。
『脱獄発生』のアナウンスが響き、ノアは看守へと視線を落とした。看守は最期の気力で行動したのだろう、ブザーのピンが外れていた。それと連動して脱獄警報が鳴っているのである。ノアは周囲を見渡し、この場所から出る出口を探す。ランスの入ってきた面会人用出入り口。自分の入ってきた囚人用の出入り口。
ゆらり、と持ち上がる影をノアは察知した。そちらへと目を向けると、ノクタスの腕から離れた剣がノアを睥睨していた。青い布が鞘を抱え込んでいる。ただの剣ではない事は、既に自明の理であった。ノクタスの腹を引き裂き、紫色の光を湛えた物体を持ち上げる。それを誇示するように、剣は、否、剣のポケモンはノアを見下ろす。
「あたしを狙っているのは、三人だってってわけ」
ランスと看守、それにまだ見ぬこの剣のポケモンを所持するトレーナー。
「あんたの主人こそが、あの人である可能性もあるってわけだ……」
ノアは攻撃態勢に移った。しかし、剣のポケモンに戦闘する気は毛頭ないようだ。ふわり、ふわりとノクタスが入ってきた天井へと昇っていく。ノアが、「待て!」と言った時には既に剣のポケモンは身を隠していた。
追いすがろうと身体を向かわせようとしたその時、囚人用の出入り口が開いた。何人かの武装した看守がポケモンを伴ってノアを取り囲んだ。〈キキ〉で応戦しようとしたが、今の状態で勝てないのは自分が一番よく知っている。ノアは見られる前にすぐに〈キキ〉をモンスターボールに戻し、両手を頭の上に置いた。一瞬にしてノアは看守達に制圧される形となった。
「……酷い。二人とも殺されている」
看守のうち一人が状況を把握して、ノアを睨みつける。
「重脱獄囚、及び殺人の実行犯でノア・キシベを拘束する!」
その言葉にノアは何も言い返せなかった。ただ、剣のポケモンが消えていった天井へと視線を据える。
――絶対に追いつく。
ノアの心に宿ったその決意は篝火のように、身を焼きかねない炎の一筋として、自身に刻み付けられた。
第二章 了