第二章 十節「誰がために」
ゴルバットは先手を打たれて戸惑っているようだったがランスが命令を下した。
「何をしている、ゴルバット! 相手は小娘と小さなヤミカラス一体! 今まで数多の悪行に手を染めてきた我々が恐れるべき敵ではない!」
その言葉でゴルバットも正気に帰ったのか、翼を羽ばたかせ〈キキ〉と対峙した。相手のレベルは正確に読み取れないが恐らくは50前後。〈キキ〉はそれに対して43である。圧倒的不利には変わりはない。だが、〈キキ〉はホズミやカフカと戦った事で得たものがまだあるのだ。
「ゴルバット、毒々の牙!」
ゴルバットが大口を開いて歯を剥き出しにする。ノアは〈キキ〉へとすかさず命じた。
「オウム返し!」
ゴルバットが紫色の溶解液を含んだ牙を突き出す前に、〈キキ〉が跳ね返した同じ効力の攻撃がゴルバットへと突き刺さる。ゴルバットは気後れしたように無駄な滞空をした。
「まさか、効いただと?」
ノアは間髪入れずに〈キキ〉に指示を飛ばす。
「そこで電磁波!」
〈キキ〉が翼に黄色い電子を纏いつかせ、広げると同時に周囲に撒き散らした。集束し、ゴルバットの身体へと突き刺さる。ゴルバットの身体を電磁の鎖が固めた。
「ゴルバット!」
「これで、もうゴルバットは〈キキ〉の前には立ち回れない」
カフカの言っていた弱点の克服法の一つだ。「でんじは」は相手を麻痺にする技。麻痺状態の相手は動きが鈍くなる。その状態に陥れれば〈キキ〉ならば相手を抜く鋭さで攻撃を放つ事が出来る。
「〈キキ〉、もう一度ドリルくちばし!」
〈キキ〉が素早くゴルバットの背後に回る。ゴルバットが振り返って翼を払い防御の姿勢を取ろうとするがその前に捩り込んだ螺旋の嘴が突き刺さる。ゴルバットに次の動きを読ませる前に反対側に回った〈キキ〉は再び「ドリルくちばし」を放った。流星のような一撃がゴルバットの翼を捉える。ゴルバットの翼の皮膜に穴が開いた。
「僕のゴルバットが……!」
ゴルバットの浮遊能力ががくんと落ちる。視線を落としたゴルバットへと〈キキ〉は刃のように翼を突きつけた。
「これで詰み、よ」
ノアの声にランスは、「馬鹿な」と呟く。
「僕のゴルバットが負けるはずがない。貴女のような小娘に……」
「質問に答えてもらうわ。何のために、ここに来たの? あたしをロケット団の神輿に担ぎ上げるためだけってわけじゃないでしょう? 〈キキ〉だけしか持っていないのを知っているわけだし」
ランスは苦渋の表情を浮かべた。本来ならば自分が優位に立って導くつもりでいたのだろう。それを小娘に問われる形となったのだから性質が悪い。ノアは落ち着いた様子を装いながら重ねて問う。
「答えて。何か、目的があったはず」
「ロケット団の、新たな後継者とするために――」
「お喋りは嫌いよ」
ノアはすっぱりと切り捨てた。ランスが時間稼ぎをしようとしているのは明白だ。
「何が目的で、あたしに接触した? 世界の敵の娘を持ち出すのには、それなりのリスクは承知だったはず」
ランスは舌打ちを漏らし、「その能力のためですよ」と口にした。
「能力?」
ノアの様子にランスは嘲笑を浮かべる。
「気づいていないんですか? 自らの能力に? まさか、それでこのふたご島刑務所に入れられた意味も知らないとか言うんじゃないでしょうね?」
意味。そのような事、気にも留めなかった。だが、言われてみれば奇妙ではある。世界の敵、キシベの娘とはいえ実刑判決を下すのは無理やりだった。
「……何か、裏があるのね」
ランスはノアの言葉に、「本当に知らないですね」と優位に立った声を出した。ことり、と胸元から何かが零れ落ちる。それはモンスターボールだった。ノアが眺めているうちに、ランスは足でモンスターボールの緊急射出ボタンを踏みつけた。
光が弾け、ノアの網膜に焼きつく。呆然とするノアの前に現れたのは悪性腫瘍のようなポケモンだった。クレーターを思わせる噴射口からガスを噴き出させ、浮遊している。目鼻があり、髑髏マークが刻まれていた。ランスはそれに飛び乗って、「マタドガス」と命じる。
「煙幕! ここは勝ち負けにこだわるよりも貴女の確保を優先する!」
マタドガスと呼ばれたポケモンが全身から黒いガスを噴き出させる。ノアの反応は一拍遅れた。「〈キキ〉!」と命じて翼でガスを払おうとするがその時にはノアは動けなくなっていた。神経系統のガスだと判じた時には膝をぺたりとついていた。ガスマスクをつけたランスが目の前に佇んでいる。〈キキ〉はポケモンだからか辛うじてその影響を受けていないようだったが、ノアは完全に麻痺していた。
何のつもり、と言葉を発しようとするが舌がもつれてうまく発声出来ない。ランスが、「無傷でパッケージを確保、とのお達しです」と口にした。
「貴女は大切な商品だ。ロケット団という古巣を再建するための大黒柱なのですよ。それがこうもわがまま娘に育ってしまったとは。育ての親として金を出していた僕の働きも報われない」
何を言っているのか分からなかった。ただランスは自分の事を物か何かだと思っている事だけは分かる。よからぬ事に利用されるのだという事も。ノアは身をよじろうとしたが、指先の末端に至るまで動きは制限されていた。目を見開くと、視界がプルプル震える。涙が出そうになったが、それすら自由ではない。ノアの身体へとランスの手が伸びる。ノアは抵抗の眼差しを向けようとしたがランスは、「おっと」と手を引っ込める。
「噛みつかれては興ざめだ。僕は貴女を無傷で連行したい。貴女も僕に手傷を負わせようなどと考えない事です。その抵抗は無駄な足掻きとなる。とはいえ、このふたご島刑務所で得た経験、ロケット団再建に役立たせていただくのも悪くない」
ランスは懐から包みにくるまれた掌大の物体を取り出した。しゅるしゅると布が解けていき、中から紫色の光条が放たれる。その光に〈キキ〉が反応した。ぴくりと忙しなく飛び回る。ランスは口角を歪める。
「これがあれば、進化出来る事を本能的に知っているようですね。貴女にはヤミカラスのトレーナーでは生ぬるい。その進化系、ドンカラスのトレーナーとして、我らロケット団の先陣を切る人間となってもらいましょう」
〈キキ〉へと声を飛ばそうとするが、舌がもつれる。〈キキ〉はランスの持っている物体に吸い寄せられているかのように視線が離せない様子だ。震えながらその身体が紫色の光を満身に受けようと翼を広げる。本能には抗えないのか、〈キキ〉がその物体から力を得ようとした。ランスが、「来い」と促す。
〈キキ〉の姿が紫色の光に包まれかけたその時であった。
不意に鋭い音が走り、ランスが頭上を仰ぐ。天井に十字の粉塵が走ったかと思うと、引き裂けて何かが躍り出てきた。ランスは咄嗟にマタドガスを盾にする。マタドガスの顔面を銀色の剣閃が切り裂いていた。ランスが呆然と呟く。
「何、だ……」
ノアにも何が起こったのか理解が出来なかった。しかし、目の前にノアを守るように現れた姿だけは視認出来る。緑色の人型だった。帽子のような頭部に、黒縁の瞳を持っている。全身からは棘が突き出ており、人型ではあるが人間ではない事を示していた。
「ポケモン……。その姿、ノクタスか」
ランスが忌々しげに口にする。ノクタスと呼ばれた緑色のポケモンは右手に何かを持っていた。それでマタドガスを掻っ切ったのだ。ノアは視界の中にそれを認める。
剣だ。
銀色の剣で、青い布が垂れ下がっており鞘と繋がっている。青い布はノクタスの腕に巻きついていた。鍔の部分には王宮の由緒ある剣である事を誇示するかのような意匠がある。ノクタスはそれを掲げてノアの前に立った。まるでノアを守る騎士のように。
「ノクタス程度で。ゴルバット! エアカッター!」
ゴルバットが空気の刃を纏いつかせ、ノクタスへと翼による斬激を浴びせかける。しかし、ノクタスは剣でそれを受け止めた。空気の刃がシューシューと吹き抜けるがノクタスには掠りもしない。全て銀色の剣が受け止めている。
「ポケモンが武器を伴うだと」
ノクタスはゴルバットへと返す刀で攻撃を加えた。銀色の剣が一瞬だけ闇色に輝き、黒色の剣閃を浴びせかける。ゴルバットの翼が肩口からばっさりと落とされた。ランスが目を見開く。ゴルバットが墜落する前にモンスターボールを突き出して赤い粒子がゴルバットを戻した。
つい一瞬前までゴルバットがいた空間を剣が引き裂く。もし、少しでも反応は遅れていれば両断されていただろう。ノクタスの迷いない動きにランスは翻弄されているようだった。周囲を見渡し、「どこだ」と呟いている。
「トレーナーがいるはずだ。どこで見ている? 何の目的でこの戦いに割って入った?」
その問答に答えることもなく、ノクタスはランスに向けて駆け出した。ランスが、「マタドガス!」と声を上げる。マタドガスは大きく口を開いたかと思うと喉の奥をごろごろと鳴らした。次の瞬間、マタドガスは紫色のヘドロを吐き出した。
「ヘドロ爆弾!」
マタドガスの攻撃に対してノクタスは剣を翳す。すると、剣がマタドガスの放った「ヘドロばくだん」を吸い込んでいくではないか。銀色の剣が一瞬だけ汚れたが、すぐに元の光を取り戻した。その光景にランスが驚愕する。
「道具じゃないのか……。その剣、まさか――」
その言葉が放たれる前にノクタスが真っ直ぐに突き出した剣がマタドガスの眉間へと突き刺さった。マタドガスが断末魔の声を上げる。全身から毒ガスを噴き出したマタドガスにとどめの一撃が放たれた。一筋の剣閃が打ち下ろされ、マタドガスを両断する。マタドガスの身体が膨れ上がったかと思うと風船のように弾け飛んだ。あとには滞留するガスだけが残った。マタドガスとゴルバットを一気に潰され、ランスは尻餅をついて唖然としていた。声も出ないらしい。
ガスマスクがずり落ちて驚愕の表情で塗り固められているのが分かる。ノクタスを見つめる瞳がわなわなと震えていた。
「どうして邪魔をする?」
ランスの質問にノクタスはもちろん答えない。剣の切っ先をランスの喉元へと突きつける。ランスは、乾いた笑い声を漏らした。
「そうか。分かったぞ。お前も、我々と同じだな。ノア嬢の能力を利用しようと――」
発せられかけたその声は突き刺さった剣の一撃に掻き消された。ランスの左胸へと剣が食い込んでいる。
口を絶叫の形のまま、ランスが硬直した。ばたばたと暴れるかと思ったが最期は呆気なかった。ランスはぱたりと動きを止め、顔を伏せる。ノクタスが剣を引き抜いた。ランスの生命活動は完全に停止していた。ノクタスは棘の腕でランスが持っていた物体を拾い上げる。何をするのかと思えば、あろう事かそのまま呑み込んでしまった。
ノアには何が起こったのか当然理解出来ない。ノクタスを操っているトレーナーはどこなのか。誰なのか。何故、ランスを殺したのか。聞きたい事は山ほどあったが、まず一つ、確認すべき事があった。
「敵、なの……」
マタドガスが殺されたお陰か痺れが引いてきていた。たどたどしく発した声にノクタスは応じない。同じように剣の切っ先をノアの首筋に向けた。今しがたランスの血を吸った銀色の刀身が鈍く輝いている。この部屋には誰もいないはずである。ランスと自分以外。だが、ノアはふと気づいた。視線を巡らせる。その段になってここにいるはずの第三者がいない事に気がついた。
「まさか、ノクタスのトレーナーは……」
その言葉尻を裂くように背後から声が聞こえた。
「パッケージを確保する。世界の敵の娘、ノア・キシベ」
その声に振り返った。そこに立っていたのはノアをこの面会室に導いた看守だった。看守はモンスターボールを手に持っている。
「ロケット団には渡さない。世界平和のために、お前は在らねばならないのだ」
ノクタスの腕が伸びる。その瞬間、ノアの意識は飛んだ。