第二章 八節「ロケット団の影」
ノアが覚えず後ずさる。見守っていた看守が、「どうした?」と尋ねた。ノアは背中を向けて、「面会は中止だ!」と喚いた。
「――いや、面会は継続してもらう」
看守の口から滑らかに放たれた言葉にノアは一瞬わけが分からなかった。
「今、何を……」
「面会は継続してもらう。俺は決してあなた方の事を口外しないし、ここで起きた全てに事については黙秘する。この命に誓って、だ」
まるで何者かに内側から操られているかのように、看守は芝居がかった台詞を発する。ノアは振り返って男のほうを見た。男の傍に、巨大な翼を羽ばたかせる影が浮遊している。紫色の表皮に、青い皮膜の羽。胴体のほとんどを巨大な顎が占めている。黒い口腔内を開いて、その巨体からは想像出来ないような小さな瞳がノアを見据えた。
そのポケモンの名を、知っている。
「ゴルバット」
男の声にノアは改めて男と対面した。
「――ランス」
ノアが男の名前を口にすると、男――ランスはフッと口元を緩めた。
「育ての親に対して呼び捨てとは」
品がありませんね、とランスは続ける。髪を撫で付けたランスはノアを見つめる。年の頃は既に三十を回っているはずだが若々しさに溢れた顔立ちをしている。
「ママは……」
「マリアさんは、ここには来ない。僕が代わりを引き受けました」
ノアの母親の名前を気安く呼ぶ。ランスに対して、ノアは敵意を剥き出しにした。
「何のつもりで、ここに」
「ノア嬢。貴女はキシベ様の忘れ形見だ。それを、こんな場所に留めておく事を、僕はよしとしない」
ランスは屈んだかと思うとガラスを挟んでノアに頭を垂れて跪いた。
「どうか、そのお力。我らロケット団のために」
ランスの言葉にノアは辟易すると共に、やはりか、という言葉が突き立った。ランスはかつてのロケット団員だ。幹部候補生であった時にロケット団が事実上の解散。
その三年後、ロケット団残党によるジョウトでの蜂起の際に参加したもののある一人のトレーナーによって壊滅まで追い込まれた。ランスはその後、身を隠し、カイヘンから渡ってきたノアの母親、マリアの身元引受人になった。その時には既に二十代後半であったのだが、今とそんなに変わらなかったような気がする。この男は一つの目的のためならば歳も取らないのだ。
「もう、ロケット団なんて解散したはずでしょう?」
「その通り。ロケット団はカイヘンの地にて、ディルファンスと交わり、ヘキサという組織になった。だがロケット団そのものが廃れたわけではありません。僕は、ロケット団再興に力を貸してくれる何人かを知っている。貴女の事を話せば、それはぜひ迎え入れたいとのお達しです」
「どうして、今になって……」
「今だからこそ、です。貴女は出版社に入り、我らロケット団から逃れようとした。しかし、その血の宿命からはどこまで行っても逃げる事は叶わない。キシベ様は、揺り起こそうとしたのです。カイヘンを、カントーを。我らが絶対者であり、ボスであるサカキ様に代わって」
「そんな崇高な目的を、キシベが持っていたはずがないわ」
ノアが断言するとランスは僅かに顔を上げて、「ご息女である貴女でも理解出来ないか」と立ち上がった。
「キシベ様のやろうとしていた事を、理解している者は少ない。このままでは歴史の闇に葬り去られてしまう。僕は、いや、我々は十五年間待ちました。貴女が立派な女性になるのを。新生ロケット団を率いるのに相応しい人物に育つのを」
「そのために、ママを利用したって言うの」
ノアの口調には明らかな敵意と嫌悪が混じっている。ランスは首を引っ込めて肩を竦める。
「利用など。マリア様も貴女と同じように、丁重に迎えたまでです。キシベ様が唯一、愛したお方ですから」
「キシベはママを愛してなんていなかったわ」
それだけは分かる。所詮は一時の慰みものに過ぎなかったのだと。ランスは顎に手を添えて少しだけ考え込む仕草をした後、「解せませんね」と言った。
「貴女はロケット団の希望。ここまで言われて何故、首を縦に振らないのか」
「間違っていると、分かっているからよ」
ノアが発した言葉にランスはぷっと吹き出した。肩を揺らして笑いながら、「我々が間違っている、と」と顔を覆った。ノアは目の前のこの男ですら狂気に取りつかれていると思っていた。全てはロケット団再建などという妄執のために全てを投げ打ってしまう人の業。キシベという男に何を見たのか。ノアはもう一度、確かめるように強い口調で言った。
「キシベは間違っている」
「悪の娘である貴女から、そんな言葉を聞く事になるとは」
嘆かわしい、とランスは告げてノアをキッと睨みつけた。ノアは気圧されないように腹の底に力を込める。
「小娘風情が、我々ロケット団の何が分かるというのだ! ならば無理やりにでもその力、ロケット団のために使わせてもらう!」
ゴルバットが目をぎらつかせて翼をはためかせ、ぼうと光を放った。その光をノアは直視しそうになったが、寸前で目を瞑って回避する。ランスが、ほうと感嘆の息を漏らした。
「怪しい光を防御しますか。情報ではポケモンに関する知識は持ち合わせていないとの事でしたが」
ゴルバットの放った「あやしいひかり」は相手を混乱させる技だ。それによって看守は操られている。今の光をまともに浴びればノアとて同じ末路を辿っただろう。ランスは指を鳴らす。
「ゴルバット。エアカッター」
ゴルバットが翼を刃のように打ち下ろす。その一撃で強化ガラスであるはずのそれが砕け散った。ノアはホルスターに手を伸ばす。ランスはその姿を見て嘲笑を漏らした。
「ポケモンを得たのでしたね。確かヤミカラスであったはず。キシベ様が遺した唯一のポケモンであり、マリア様がずっと大切に保管されていた。ですが、そのヤミカラスでは僕のゴルバットに到底及ばない」
「やってみなければ、分からない事もあるわ」
ノアが発する言葉を決死の強気だと受け取ったのか、ランスは鼻を鳴らす。
「詭弁を。ゴルバット、翼で打つ」
「行け! 〈キキ〉!」
ノアはボールを突き出して緊急射出ボタンを押し込んだ。手の中でボールが二つに割れて中から光に包まれた影が躍り出る。ゴルバットが打ち下ろした翼による一撃を、光に包まれた矮躯は受け止めた。その景色に、ランスが瞠目する。
光を振り払い、濡れた漆黒の翼が露になる。赤い瞳が灯火のような戦闘の光を宿す。ゴルバットへの一瞬の命令の遅れの隙をついて、〈キキ〉が翼を翻した。体勢を崩したゴルバットへと畳み掛けるように嘴を突き出して攻撃する。〈キキ〉そのものがまるで削岩機のように回転しきりもみながらゴルバットを押さえつけた。
「ドリルくちばし!」
〈キキ〉の放った技がゴルバットの身体を叩きつける。ゴルバットは翼を大きく広げて急所へと命中しかけたその攻撃を翼の表面で受け止めた。
ランスが歯噛みする。
「ドリルくちばし、だと……。僕の記憶している限りではそんな強力な技は覚えていなかったはず」
「ここで覚えたのよ。いいえ、正しくは思い出した。〈キキ〉にはその素質があった」
ノアはホズミとカフカが自分との戦いの中で教えてくれた事を思い返す。