第二章 六節「始まりの言葉」
改めて、自分から〈キキ〉へと歩み寄る形となった。ホズミが笑顔を咲かせる中、カフカは仏頂面で舌打ちをついた。
「うまくいくとはな。ならば、もう一度戦うか?」
メタモンがずずいとカフカの足元でぶるぶる身体を震わせる。ノアが〈キキ〉を出すのを待ち望んでいるようだ。ノアはモンスターボールを握り締めた。
最早呪縛はない。純粋に、自分と〈キキ〉はトレーナーと手持ちポケモンの地位につけた。多くの人間にとって当たり前であるその役割が、今は何よりも大切なものである事が分かる。自分は軽んじていた。モンスターボールさえあれば、操った事のないポケモンでも思うがままだと決め付けていた。
だが、実際に戦うとどうだ。
自分は〈キキ〉の能力すら知らず、〈キキ〉を活かす戦いを出来なかった。トレーナー失格だ。正体不明の繋がりに任せて〈キキ〉を操れると高を括っていたのだ。ノアは自分を心の中で叱責すると共に固く戒めた。
――絶対にポケモンを軽んじてはならない。
主人と従者の関係では、決してないのだから。
「いいわ。受けましょう」
ノアはモンスターボールを握り締める。〈キキ〉が今しがた自分のポケモンになったのだ。もちろん、〈キキ〉にとってはこれが初陣である。小説家のスリープとの戦いは〈キキ〉からしてみれば夢見心地だったのだろう。自分という一個のトレーナーと、ヤミカラスの〈キキ〉はここからスタートするのだ。
ノアはスリープをボールに戻し、赤と白のコントラストが眩しいモンスターボールを放り投げた。
「行け、〈キキ〉!」
ノアの声に呼応して〈キキ〉が躍り出て光を振り払う。濡れた漆黒の翼ではばた〈キキ〉キはカフカとメタモンの〈ザムザ〉と対峙した。
「〈ザムザ〉。ヤミカラスに変身」
メタモンが〈キキ〉を見つけるや否や、体細胞を変化させて漆黒の身体になり、砂利のように体毛の位相を変えて翼を作り出す。全ては一瞬の出来事だった。メタモンはヤミカラスへと変身を遂げた。
先ほどの戦闘の再現にノアはぐっと拳を握り締める。ここで退いてなるものか。ノアの意思に呼応したように、〈キキ〉は灯火のような赤い瞳に戦意を宿らせて吼えた。弱々しいが変身したメタモンが僅かに反応して後ずさる気配を見せた。気持ちで負ければ戦いでも負ける。ノアは〈キキ〉へと指示を飛ばす。
「〈キキ〉! 翼で打つ!」
〈キキ〉が空気の刃を翼で形成し、バッと開いた瞬間には束のようになった空気が位相を変え、メタモンへと襲い掛かっていた。先ほど、メタモンに放たれ〈キキ〉は防戦一方であった。その技を今度は〈キキ〉が先制して放つ。姿だけ真似たメタモンはしかし、身を翻してその一撃をかわした。
「戦いの真似事では敵は墜とせんぞ!」
カフカの声に上を取ったメタモンが翼を返す。空気の膜が形成されているのが分かった。ノアはすさかず反応して〈キキ〉へと命令する。
「〈キキ〉。驚かす!」
〈キキ〉がメタモンに向き直ったかと思うと、翼を目の前で交差させて一瞬だけ幕を作ると、自分の顔を突き出した。突然の行動にメタモンが攻撃の手を緩める。
ほう、とカフカが感嘆の息を漏らした。
「怯ませる効果を知っているのか」
ノアは応じている暇はない。戦闘は今も継続中なのだ。決して気を緩める事など許されない。
「そのまま嘴を突き出してつつく!」
行動の連鎖には理由がある。「おどろかす」の姿勢で顔を突き出した〈キキ〉は「つつく」の姿勢に入るのに抜群の位置にあった。〈キキ〉の黄色い嘴がメタモンを突き、メタモンは後退する。ノアはそのままの勢いを殺さずに指示を出した。
「もう一度、翼で打つ!」
同じ技を繰り返せば威力は下がる。先ほどカフカが言っていた事だ。〈キキ〉は右脇から上段に突き上げる形の翼を打ち放つ。しかし、その一撃はメタモンに達する前に止まっていた。ヤミカラスに変身しているメタモンは翼で〈キキ〉の一撃を受け止めている。
「これ以上攻撃を受ければさしもの〈ザムザ〉といえども危うい。今はお前のポケモンに変身しているわけだからな。同じ性能である以上、高度に扱ったほうの勝ちとなる。少し形勢が有利だからと言って侮るなよ」
カフカはそこで初めて、表情に笑みを浮かばせた。戦闘の愉悦の笑みだ。カフカは先ほどまでの唾棄すべき戦闘だとは思っていない。〈キキ〉とノアをポケモンとそのトレーナーとして対応しようとしている。
〈キキ〉は応戦のために身を返して翼を上段から打ち落とそうとする。メタモンはそこで驚くべき変化を見せた。なんと、肩口から五指の手を突き出して〈キキ〉の一撃を受け止めたのである。
「何て、事……」
「勝つためならば手段は選ばん。〈ザムザ〉の形状は自在だ」
メタモンが〈キキ〉の翼を掴んだまま天地を逆さまに落下していく。〈キキ〉は四肢を暴れさせて足掻いたが、がっちりとメタモンの手が押さえつけている。
「このまま落下させれば、どれほどのダメージを負う? 形勢は逆転したな」
カフカの声にノアは、「いや」と眉間に力を込めていた。このまま負けてなるものか。不条理が現実ならば、その現実をコントロールしてみせる。
「勝つために手段を選ばないのは、あたしだって同じ事!」
ノアは〈キキ〉の視界と自分の視界がぴっちりと合わさったのを感じた。ちりちりと皮膚を焼くようなプレッシャーの圧がかかっている。メタモンとカフカによるものだ。ノアはそのプレッシャーの網を片手で薙ぎ払った。
それと同期して、〈キキ〉はがっしりと食い込んでいるメタモンの手を翼で切り払う。メタモンの五指が飛び、〈キキ〉は地面に追突する前に逃れる。
「何だと?」
狼狽したのはメタモンとカフカだ。完全に巻き込む形での攻撃態勢に映っていたメタモンはそのまま地面へと落下した。べちゃり、と液体の飛び散る音が響き、ヤミカラスの形状を取っていたメタモンが元の紫色のゲル状に戻る。ノアは今が好機だと判断した。
「〈キキ〉、追い討ち!」
漆黒の瘴気を纏いつかせて〈キキ〉が高空からの闇の刃を打ち下ろす。メタモンは変身する前にその身体を両断された。
一瞬の静寂。
〈キキ〉とノアは硬直していた。〈キキ〉は「おいうち」を放った姿勢のまま。ノアは攻撃を命じた時のままだ。
動いたのはカフカとメタモンだった。しかし、メタモンのゴマのような目はあらぬ方向を向いていた。頭を切り裂かれたメタモンは溶けたアイスのようにだらりと脱力している。すぐに頭の傷は修復するが、再びヤミカラスへと変身する素振りは見せなかった。
それが「ひんし」の状態である事を、ノアは直感した。
「……勝ったの?」
『勝負あり、ですね』
ホズミが告げるとカフカは、「まだ〈ザムザ〉は」と抗弁を垂れようとするが、『見苦しいわよ』と鋭い口調を返す。
『カフカ。メタモンの能力をフルに使って負けたのだから、敗北は素直に受け止めるべき。そうでなければ意外なところの落とし穴に躓く事になる』
ホズミの声に二の句を継げないようだった。カフカはモンスターボールをメタモンに向ける。赤い粒子となってメタモンがボールへと吸い込まれた。
「……私の、負けだ」
その言葉を口にするまでどれほどの逡巡があったのか、ノアにははかり知れない。だが、自分達が勝ったのだと認識するには時間がかかった。
「……〈キキ〉」
ノアが名前を呼ぶと〈キキ〉は翼を羽ばたかせノアの腕に止まった。少しだけ重いが、生き物の持つぬくもりが伝わってくる。ノアは当たり前の事に、今さら気づいた。
「ポケモンも、生き物」
『その通り』
ホズミは応じてノアへと手を差し出した。ノアが呆然と眺めていると、『カフカは強情だから』と微笑んだ。
『代わりに握手を交わしましょう。ポケモン同士の健闘を讃えて』
ノアはおっかなびっくりにその手を掴んだ。紅葉のような手を包み込み、ここにも命がある、とノアは自覚する。電子音声でも、この少女は生きているのだ。その事は簡単に理解出来るのに、ポケモンとの関係を意識するのには時間がかかった。
『無理もないわ。あなたは一からポケモンとの信頼を築こうとしているのだもの』
〈キキ〉が腕から飛び上がってノアの頭上で滞空する。ノアは〈キキ〉を仰ぎながら考える。これはモンスターボールの支配ではないのか。まだ自分と〈キキ〉は対等な関係とは程遠い場所にいるのではないか。
ノアの疑問を解したように、『心配には及ばないわ』とホズミが声を発する。
『さっきまでよりもずっと強い繋がりがあなたと〈キキ〉の間には介在している。だって、あなたが捕まえて、あなたが名前をつけたのよ。ヤミカラス、〈キキ〉のおやはノア。あなたなの』
「おや……」
「トレーナーとポケモンとの関係を指しておやと呼ぶ。捕まえたトレーナーの事をポケモンはおやと認識する。親子のおやではない。主人としての意味合いが強い」
カフカが補足説明した。ノアが戸惑っていると、ホズミが、『大丈夫』と声を出した。
『自分で捕まえたポケモンには誇りを持っていい。名実共に、あなたはポケモントレーナーとしても道を歩み出した』
それはノアが今まで意識してこなかった道だ。多くの人間がそれを選択し、挫折と勝利の美酒の二つに酔いしれるのだ。そして自分には何が出来て、何が出来ないのかを知る。
大人になる事に似ている、とノアは感じた。
『さぁ、ノア。あなたには一両日中に、ポケモンの扱いをそれなりに上達してもらわなければなりません』
ホズミの突然の宣告にノアは、「えっ……」と聞き返した。「当然だろう」とカフカが憮然と口にする。
「今のお前とヤミカラスではあまりにも弱い。それではふたご島を生き残る事は出来ない。レベルが低過ぎる」
「レベル……」
『ポケモンにはレベルがある。このふたご島のポケモンも、トレーナー達も総じてレベルが高い。新参者のあなたとスリープの主くらい。同じくらいのレベルなのは』
その事実に慄いた。今までそのような場所で知らず生きていたというのか。カフカはその後を引き継ぐ。
「お前には、ここでレベル40には最低でも上がってもらう。そうでなければ勝つ事など到底叶わない」
「勝つ……」
誰に、という事を口にするまでもなくノアにはそれが浮かんだ。スリープと小説家を操り、影からノア抹殺を企てた人物。
このふたご島にはノアと敵対する人間が明らかに存在するのだ。
「本当ならば未進化であるヤミカラスを手持ちにする事そのものが危ういのだが」
ノアがカフカの言葉に首を傾げていると、『ポケモンは進化するの』とホズミが説明する。
『遠く、シンオウ地方のナナカマド博士の研究により、ポケモンの九割は進化を遂げると言われているのです。そしてそれは、あなたの〈キキ〉だって例外じゃない』
ノアは目を見開いて頭上を浮遊する〈キキ〉を見やった。
「〈キキ〉が、進化……」
にわかには信じられない。どのような形になるのだろう。竹箒を思わせる未発達の尻尾が長くなったりするのだろうか。あるいは、嘴がもっと鋭くなったりするのだろうか。目鼻がはっきりするのだろうか。
「想像出来ない」
正直な気持ちをノアは発した。ホズミは、『分かるわ』と首肯する。
『多くのトレーナーにとって進化とは未知の領域。そこへ踏み出すという事はトレーナーとして前進したという事。あえて進化させない、という選択肢すらトレーナーには存在します』
「あたしの、〈キキ〉は……」
決めあぐねていると、「今は明確な像を結ぶ必要はない」とカフカが口にした。
「それよりもレベルを上げる事だ。そうしなければ簡単にやられてしまう」
『レベルの差は、ポケモンの性能だけではどうやっても埋められない差でもある』
ホズミが少し寂しげに言った。
『悔しい事だけども』
「一般に、レベルの高いポケモンに挑む事は自殺行為だ。私は、お前のヤミカラスと同じレベルの〈ザムザ〉で挑んだだけの事」
「同じレベルの?」
ノアが首を傾げていると、「この空間」とカフカは顎でしゃくった。
「奇妙だと思わないのか? 岩壁が変化してボールが出てくる。それ以前に、どうやってあるはずのない十三番通路に入れた? 何を介して行き来していると思っている」
その言葉の行き着く先を、ノアは理解する事が出来た。
「ポケモン……」
『そう。この空間はメタモンが形作ってくれている。メタモンが岩壁に擬態してこの通路を隠しているのです。このメタモンは全ての能力値の上限を超過した、レベル100のメタモン』
「レベル100?」
気の遠い話に思えた。そのような場所がポケモンの到達地点だと言うのか。ノアが驚いているのをいい気にしたカフカは鼻を鳴らした。
「レベル100が最強と言うわけではない。タイプ相性、トレーナーの力量、戦況を構成する要素は千差万別だ」
『だからこそ、ポケモン同士の戦闘はイレギュラーな要因も多い』
ちらり、とエメラルドグリーンの瞳がノアへと向けられた。自分もそのイレギュラーの一つだと暗に言われているような気がしたが、すぐに視線は逸らされた。
『〈キキ〉の今のレベルは17。ポケモンとしては未熟です』
「たったの17?」
ノアは驚愕と共に途方もなさを感じていた。額を押さえてため息を漏らす。母親がノアのために送ってくれたものなのだからそれは特別なレベルなのだと思い込んでいた。それがたったの17とは。
「それって、やっぱり……」
「強いわけがない。断言しよう。今のヤミカラスと今のお前では、この先に控える誰にも勝つ事は出来ない。……先ほどの要素が絡もうともな」
含むような物言いにノアが疑問を挟むより早く、『カフカ』とホズミが戒める声を出した。カフカは言葉を引っ込める。しかし、先ほどの敗北に納得していないのはありありと伝わってきた。何が、カフカにそこまで感じさせるのだろう。
〈キキ〉へと視線を配る。
――自分は何をしたのか?
問いかけても答えは返ってこなかった。〈キキ〉はか細く鳴くばかりである。『どちらにせよ』とホズミが結論を促した。
『ここで強くなってもらわなければ、あなたは生存すら難しいという事です。厳しい事を言うようだけどもね』
生存が脅かされる、という事実にノアは目を戦慄かせる事しか出来ない。必死の体で、「どうすれば……」ときょろきょろと視線を泳がせた。
「簡単な事だ」
カフカは憮然とした口調で言ってから腰に手を置いて声を放つ。
「強くなればいい」
「強く、って……。でもレベルがたった17なんでしょう? 100の相手となんて勝てるわけが――」
『最初から100と戦おうなんて思わなくっていい。あなたは手順を踏んで強くなる』
ホズミの超越者めいた言葉にノアは思わず喉の奥で弱音が引っ込むのを感じた。ここで許されているのは前に進む言葉だけだ。直感したノアは次の言葉を選んだ。
「……方法があるのね?」
ホズミが微笑んで頷き、カフカは、「致し方ないな」と頭を掻いた。
「ノア・キシベ。お前はこれから、ポケモンとの戦いにおける基礎中の基礎を学び、一両日中にレベル40以上の使い手となってもらう」
無理だ、だとか、どうやって、という言葉は意味をなさない。やるか、やらないか、だ。
「異論はないな?」というカフカの声にノアは頷いた。
『結構。では、始めましょうか』
ホズミが始まりの言葉を紡ぐ。ノアは深く呼吸して自らを研ぎ澄ました。