第二章 三節「擬態する影」
看守に話を聞く限りでは、地下二階は現在工事中らしい。
もう一度、確認の意を込めて十三番通路について尋ねると、「開通しているのは十二番と十四番だ」と声が返ってきた。
「何で十三番通路なんだ。工事予定表にも存在しないぞ。そんなものはない。余計な興味があるのは感心しないな」
ノアは工事中の地下二階へと行くにはどうすればいいのか尋ねていた。看守は、「そうさなぁ」とわざとらしく顎に手を添えて考え込む。
「何分、工事中のエリアだ。管轄がなぁ。教えるのには手順がいるし……」
看守はもったいぶっている。ノアは袖の下を渡した。看守はわざとらしく手を打って、「そうだ。思い出した」と芝居がかった仕草をする。
「確か中央階段から降りて地下一階を右の突き当りまで行けば何とかなったはずだ。そこから先は管轄外だが、今日は監視カメラがストップしていたっけな。工事の雑音が聞いてられないってんで」
ノアはそこまで聞いて足を中央階段に進めていた。
中央階段はところどころ岩が突き出しているふたご島刑務所で一番ならされた場所である。大理石とは言わないまでもきちんと整備された岩が敷き詰められた階段であり、地下一階には受刑者は階段で降りるしかなかった。ノアは地下一階に辿り着くと、途端に人気がない事に気づく。
「誰も降りてこないのね」
それもそのはず、地下一階は岩が張り出した秘境だった。ノア達が普段過ごしている場所とは決定的に違うのは岩陰から視線を感じる事だ。ポケモンである、とノアは感知した。刑務所に入る前、イシスから聞いた話を思い出す。
この場所の野生ポケモンはレベルが高いものが多い、と。
早足でノアは横切った。先ほどまでノアの頭があった場所を何かが掠めていく。ノアは頭を押さえて突き当りまで一気に走った。〈キキ〉を使おうにも体力の消耗には注意しなければならない。それに〈キキ〉よりもレベルの高い敵が現れた場合、対処しきれる自信がなかった。
突き当たりに荒々しく岩石を削って作られた坑道があった。一応、階段状に下に降りられる仕組みになっている。ノアは潜り込むように階段を駆け降り、地下二階に至った。
地下二階はひっきりなしに工事の騒音が聞こえてくる。どうやら工事の影響で地下二階にいるはずのポケモン達が地下一階まで上がってきているというのもあるようだ。ノアは作業員に話しかけた。
「あの……」とか細い声は工事現場に付き物の騒音に掻き消される。ノアは、「あの!」と声を張り上げた。そこで数人がノアに気づく。
「何だ? そのコート、受刑者か? どうしてここまで降りてきている?」
作業員が怪訝そうな視線をノアに注ぐ。ノアは、「通路を探しているんです」と言った。
「通路?」
「十三番通路」
「おいおい、何言ってんだ。開通しているのは十二番と十四番だぜ?」
得られる情報は上と何ら変わりはない。しかしノアは食い下がった。
「調べてもいいですか。その辺の、岩壁とか」
その言葉に作業員は困惑の視線を交わし合ったが、「まぁ、いいんじゃないか」という声で合意した。
「調べるだけなら。ただ工事の邪魔はしてくれるなよ」
ノアは頷いて岩壁を触って探り出した。精巧に作られた岩のレリーフには「12」と「14」はあるが「13」はない。通路が開いている様子もなかった。しかし、一つだけ違和感がある場所を見つけた。岩壁をさすっていると奇妙に柔らかい。まるでそこだけゲル状に出来ているかのようだ。ノアは何度か押しては離しを繰り返してから、作業員へと話しかけた。
「ねぇ、本当に、十三番通路はないのね?」
「しつこいな。ないったらない」
作業員は少し煙たそうにノアに応じる。では、この壁は何なのだろう。ノアは弾力のある岩壁に思いっきり拳をぶつけた。
しかし、その瞬間に岩壁はあるべき硬さへと変身したかのようにノアの小さな拳を硬い壁面が迎えた。ノアは手の甲を傷つける形になった。拳を押さえて目の端に浮かんだ涙を拭う。
「痛い……」
「何やってんだ。岩を殴ったら痛いのは当然だろ」
作業員二人はノアを見張る事にも飽きたのか意識の外にして話し始めた。ノアはもう一度、岩壁を触ろうと手を伸ばす。
その瞬間、岩壁の表面がぐにゃりと変化し、ノアの手が引っ張りこまれた。悲鳴を上げる前にノアは岩壁へと飲み込まれる。
作業員へと助けを求めようとしたが、ノアは全身をゲル状の何かが包んでいるのを感じた。まるで生物の食道に収まるかのように、蠕動しながらノアの身体を進める。ノアが自由を感じたのは何秒かその状態が続いてからだった。突然に開けた場所に出されてノアは戸惑う。庭園程度の大きさがある岩壁に囲まれた一室だった。ほとんど岩に侵食された鉄格子が目に入る。どうやら監房のようだ、と感じてからノアは部屋の中央に目をやった。
「来たか」
そう口にしたのは背の高い緑色の巻き毛の女性だ。その傍にはオレンジ色の髪の少女が瞑想するように目を閉じている。まるで精緻な人形のようだ。
口を開かないところを見ると本当に人形なのではと思わせる白磁の肌にノアが見入っていると、「来たのですね」と唇が動いた。驚愕するがすぐに持ち直す。人間ならば、何も喋る事は不自然ではない。話しかけるかどうか迷ったが、ノアは口を開いた。
「あんた達が、その……」
『モンスターボールを司る者。番人と呼ばれています』
番人。そう発する少女の顔にはいささかのてらいも見られない。嘘は言っていない。ノアは少女の言葉にそう感じた。しかし、周囲は岩壁だ。どこにモンスターボールを隠すというのだろう。ノアの視線に気づいたのか、緑色の巻き毛の女性が告げる。
「ホズミ様はこの空間を保っていらっしゃる。だから俗人にはただの岩壁にしか見えないだろう」
「空間って」
ノアは今しがた岩壁に呑み込まれた事を思い返し、壁から離れようとした。それを察したホズミと呼ばれている少女が口にする。
『何も心配する必要はありません。命じなければ、壁はあなたを襲ったりしませんよ』
ホズミの声は神託のように響き渡った。狭い空間であるのにまるで流動しているかのように声が木霊する。
それに、とノアは意識する。ホズミは声帯を震わせて喋っている様子ではない。口を開くような素振りすらない。少しだけ唇を持ち上げて、そこから呼吸音と共に声が漏れ出ている。ノアは奇妙な感覚に思わず尋ねていた。
「あんた、声……」
『私は幼い頃に声を失いました。その代わり、脳波スキャン型のマイクで伝達しています。もしかしたら、不快な思いをされるかもしれません』
「不快だなんて、そんな」
「お前、ホズミ様に気を遣わせたな」
女の視線が矢のように突き刺さった。ノアは一歩後ずさる。すると、足元から矢じりのような岩の先端が張り出してきた。唾を飲み下し、ノアは口にする。
「壁が、あたしを襲う……?」
「その通り」
巻き毛の女性が片手をすっと掲げた。すると、岩壁の一辺が急にねじれてノアの首筋へと岩の切っ先を突きつけた。ノアは顎を引いてそれを見やる。もう数センチ位置が違えば喉を貫いていただろう。無防備なノアへと突きつけられた凶器に、「……なるほど」と声を出す。
「理解出来たわ。あんた達が、暗にあたしをいつでも殺せるって言っている事が」
「そうだ。ホズミ様さえ命じれば、私はお前ら囚人の命など一瞬で奪ってみせる」
『カフカ、よしなさい』
ホズミの声には優しく奏でる聖母の響きがあった。カフカと呼ばれた背丈の高い女性は恭しく頭を垂れる。
「しかし、ホズミ様。ここにいるのは大罪人ばかり。我ら、番人が本来、交わるべきではない者達です」
カフカはノアへと鋭い一瞥を向けた。睨む目に覚えずたじろぐ。
『決め付けはよくないわ』
ホズミは壁を撫でて、『どう思うかしら?』と歌うように尋ねる。
「どう、とは……」
戸惑うノアへと、ホズミはエメラルドグリーンの目を向ける。身体そのもので、彼女は季節を体現しているようだ。侍るカフカが新緑の季節なら、その主人と思しきホズミは落葉の季節だろう。
『ノア・キシベ』
その名を呼ばれた途端、ノアは身体が萎縮するのを感じた。今まで幾度となく呼ばれてきた蔑視の名前。しかし、ホズミが口にすると、それは特別な響きを伴ってくる。
「あたしの名前を……」
「素性は調べてある。ボールの番人に近づこうという輩は、まずマークしてあるのだ」
カフカの声に、「それで、彼女を襲った」とノアは言葉を継ぐ。小説家が番人の情報を掴んだ事を察知して、彼女達は動いたのだ。自分達の秘密を守るために。
「同情はしよう」
「必要ないわ」
条件反射的に放った声にカフカが目を見開く。しまった、と思った次の瞬間にはカフカが掲げた手を振り下ろそうとしていた。その行動に終わりを意識する前に、『待って』とホズミが口にする。
「ホズミ様。こやつは大罪人。情けをかけるなど――」
『必要ない。そう感じているでしょうね。それは彼女のメンタリティに起因しているわ』
ホズミはまるで天使が歌うように声をさえずらせて言葉を発する。
『ノア・キシベ。いいえ、ノアと呼んでいいかしら?』
ホズミが首を傾げる。折れてしまいそうなほど細い首だった。ノアは無条件に頷く。
『嬉しい。友達が増えた気分だわ』
ホズミが笑顔を咲かせる。ノアにはホズミの歳が分からなくなっていた。歳相応の少女の面影を見せたかと思えば、老婆のように全てを悟りきったような言葉を発する。傍らには凶暴な獣を侍らせている。カフカと言う名の獣はノアを睨みつけ歯軋りした。
「ホズミ様。こやつは恐らく、先の女と同じ目的でしょう」
『そうね、カフカ。でなければ十三番通路なんて見つけ出そうとは思わないでしょう』
ノアは周囲を見渡した。監房のようだが、ここは監房ではないのだろうか。
「この場所は、一般監房じゃない?」
「痴れ者が。ホズミ様を囚人と同列と見るか」
カフカが一歩踏み出そうとするのを、ホズミが声で制した。カフカは、「失礼」と口にする。
「過ぎた真似を」
『いいのよ。全ては私を守るため。そのためにカフカは動いている』
この二人の関係はどうなっているのだろう、と勘繰りたくなる。しかし、その行動が命取りになる事は先ほどから明らかだ。無駄な詮索は命を縮める。
「あたしの目的は、一つよ」
ノアは意を決し口にした。ホズミがエメラルドグリーンの目を細める。カフカは水色の眼に殺意を込めた。よくよく見やれば、二人の瞳は青空と森の対比だった。
「〈インクブス〉を返してもらう。それにモンスターボールもいただくわ」
スリープがいなければこれからの行動に支障が出る可能性がある。小説家の戦力は失うには惜しい。ノアは冷静にそう分析した。それを見透かしたようにカフカが鼻を鳴らす。
「他人を利用する事に憚りも覚えぬとは」
痴れ者が、と続けられた。ノアは、「罵声はいくらでもいただく」と返す。
「でも、勝つのはあたしよ」
腰のホルスターからモンスターボールを引き抜き、ノアは眼前に掲げる。カフカがホズミへと視線を配った。相手をしてもいいか、という確認だろう。ホズミは太陽のような笑顔を向けた。
『もちろん』
カフカは壁へと手をついた。その瞬間、岩壁が波打ち、カフカの足元に凝縮する。岩壁を残したまま、何かがぽつりと現れた。それは紫色でゲル状の物体だった。物体、と呼ぶことすら憚られる。ゴマのような目と申し訳程度の口が浮かんでいるだけである。水溜りに、子供が戯れで描いた似顔絵のようだ。
「〈ザムザ〉」
カフカが名前を呼ぶと〈ザムザ〉と呼ばれたそれは身じろぎした。ホズミが補足説明する。
『〈ザムザ〉、とはニックネーム。このポケモンの名前はメタモン。知っているかしら?』
メタモンというらしい紫色のポケモンはふるふると震えている。怯えなのか、と思っていると、「〈ザムザ〉は屈しているわけではない」とカフカが返した。
「お前の手持ちを待っているのだ」
「手持ち……」
ノアは手に掴んだモンスターボールへと視線を落とす。初めてのポケモン。自分のポケモンの事を手持ち、と呼ぶのか。
『出し方は分かるかしら?』
ホズミの声に、「馬鹿にしないで」とノアは言い返す。
「行け! 〈キキ〉!」
ノアはテレビでポケモントレーナーがそうするようにモンスターボールを投擲した。空中でボールが二つに割れて中から〈キキ〉が飛び出した。濡れたような黒い羽に、赤い眼差しが弱々しい灯火のように輝いている。
『ヤミカラス。〈キキ〉、という名前なのね』
どうやらホズミはポケモンの知識に長けているようだ。それとも自分が常識知らずなだけだろうか。カントーに生まれ育ってポケモンの名前もまともに知らないのだから当然かもしれない。
『別に知らないのも無理はないわ。だってヤミカラスはカントーにはいないのだもの』
そんなノアの胸中を見透かしたようにホズミが言った。ノアはぴくりと反応する。
「何ですって?」
「知らないのか。ポケモンには分布がある。ヤミカラスの分布図はカントーではない。稀に飛んでいる個体が見える事があるが、草むらや洞窟でも出会う事はないだろう」
ノアには初耳だった。てっきり〈キキ〉はどこでも手に入るポケモンなのだと思っていた。
「自分のポケモンの事も満足に知らないのか?」
カフカが嘲る声を出す。ホズミがいさめた。
『カフカ、無知を嗤うのはよくない事よ』
「申し訳ありません。ですが、こやつはそれすら知らず、私の〈ザムザ〉と戦おうとしている」
おかしくないわけがない、とカフカは口元を押さえた。ノアは苛立ちを募らせる。鼻を鳴らし、「あんたのポケモンなんて」と罵声を飛ばした。
「液体みたいで、すごい弱そうじゃない。そんなので勝てると思っているなんて」
「何だ? メタモンの事も全く知らないのか」
ますますおかしい、とでも言うようにカフカは含み笑いを漏らした。ノアは〈キキ〉へと指示を飛ばす。
「〈キキ〉、追い討ち!」
〈キキ〉に「おいうち」の指示を出す。小説家から〈キキ〉の技構成については事前に説明を受けていた。どうやらポケモンは覚えられる技には制限があり、それぞれの技にも固有の属性があるという。「おいうち」は悪タイプの技だ、と教えてもらっている。引っ込んだり、逃げようとしたりする相手にも容赦なく攻撃を仕掛ける技だと。〈キキ〉は翼に漆黒の瘴気を纏いつかせてメタモンへと攻撃を放つ。メタモンはしかし、ばねのように跳ねたかと思うと〈キキ〉の攻撃をするりとかわした。
「避けた?」
ノアの声にカフカは、「よく見ているがいい」と口にする。メタモンの身体から次の瞬間、漆黒の羽が飛び出した。濡れた黒色に紫色の身体が塗り固められ、見る見るうちにメタモンの形状が変化した。液体のように判然としなかった姿ではない。目鼻がきちんと整理され、口元には鋭利な嘴がついた。赤い灯火のような眼が〈キキ〉とノアを睥睨する。ノアは覚えず声を詰まらせた。
そこにいたのは、〈キキ〉と寸分変わらぬ姿のヤミカラスであったからだ。