第二章 二節「甘くない現実」
星を望んでいる。
満天の星空が漆黒の天蓋に抱かれて、視界を埋め尽くしている。その中に太陽のように光る星があった。細やかな銀の粉を散らしたような星の海で、それだけが異様に浮いて見える。
「恒星だ」と誰かが呟く。ノアが顔を上げると、そっと誰かがノアの頭を撫でた。今まで感じた事のない安息に包まれてノアは言葉を発する。
「あれは?」
他の星を指差すと、「あれはね」と誰かが口を開いた。ノアの眼には口元より上が陰になって見えない。
「夏の大三角だ。デネブ、アルタイル、ベガ」
「だいさんかく?」
ノアは自分でも幼い口調になっている事に疑問を覚えた。いつの頃の話だろう。自分は誰と話しているのだろう。
「あれと、あれを線で結んでごらん。ちょうど三角形に見えるだろう? 夏にしか見えないんだ。だから、夏の大三角」
誰かの声はノアの心根を静めてくれる。波打ちそうな不安の種を潰してくれる。
「ねぇ、どこかにいったりしないよね?」
だからなのだろうか。ノアには、その誰かが自分には手の届かない場所へと行ってしまうような気がしていた。誰かが屈み込んでノアの頬を撫でる。ノアはくすぐったそうに首を引っ込めた。
「どこにも行かないさ。傍にいるよ、――」
名前が声に出されたのを感じる。ノアはしかし、素直には喜べなかった。
何故なら、それは自分の名前ではない。それだけははっきりと分かったからだ。
頬を熱いものが伝っていた。
目を覚まし、上体を起こすと既に明るくなっている。早朝点呼もないふたご島刑務所ではいつまでも眠っていられそうだ。しかし、ノアは起きる事にした。小説家は早朝の活動に精を出すためにか既に房内にはいなかった。監房から出ると、廊下で囚人番号を呼ばれた。振り返ると、男の看守が警棒を持って立っている。
「何か?」
スリープの能力でノアが昨日やった事はなかった事になっているはずだ。小説家が裏切ったのでなければ。
固唾を呑んで次の言葉を待っていると、「明日の予定に面会が一つ入った」と告げた。
「面会?」
誰なのだろう。ノアには真っ先に母親の姿が浮かんだ。
「ママなの?」
「詳しい事は不明だ。ただ明日、面会がある。それを留意するように。面会時間に監房を訪れる。その時までに髪型くらいは整えておけ」
身を翻した看守の声にノアは髪の毛に触れた。髪の毛はぼさぼさになっている。慌てて監房に戻って鏡を見やると寝癖が酷かった。
ううん、と呻りながらノアは髪型を整える。
「誰なんだろう。ママは、きっと悲しんでいるわ。あたしがこんなところに来てしまって」
ただでさえ、後ろ指を差されるというのに。ノアは髪型をきちんと整えてから朝食を受け取りに向かう。自分の分の箱型の朝食をレンジで温め、箱を開けて食べようとすると、小説家が前の席に座った。
「情報は?」
ノアはスクランブルエッグを食べながら尋ねる。
「そうね」と小説家は飴玉を口に含んだ。ノアがぼんやりとそれを眺める。
「収穫はあったような、なかったような……」
煮え切らない口調に、「なにそれ」と返す。小説家は飴玉を舐めながら、「これはグレープ」と言った。
朝食のサンドイッチを口に運ぶ前にノアは気になった事を口にする。
「ねぇ、その飴玉、誰に貰ったの?」
「えっ?」
完全に呆気に取られた様子の小説家は周囲を見渡した。ノアはフォークの先端で小説家を指す。
「あんた以外に誰がいるっての?」
「私? 私が飴玉を……、ええ? 何で?」
小説家も飴玉を舐めているのは無意識下の出来事であったようである。ノアはがりっと音がしたのを聞いて振り返った。
柱の陰に二人の人影があった。一人は背の高い、緑色の巻き毛をした女性である。もう一人は落ち葉のようなオレンジの髪をしている少女だった。ノアよりも若そうに見える。いや、若いというよりは幼い、に分類されそうだ。オレンジの髪の少女は癖のある髪を掻いて、片手を開いた。その手には飴玉があった。傍らに侍る女性がフッと笑みを浮かべる。包み紙を取って飴玉を口に運んだ少女を連れて女性は柱の影へと入っていく。ノアは覚えず立ち上がっていた。
「どうしたの? 飴玉なら、多分誰かに貰ったんだと思うんだけど……。あれ? 誰に貰ったんだっけ?」
ノアは小説家へと振り返り確信する。記憶と認識を操るはずの小説家が弄ばれている。
「目的の奴らを見つけたわ」
ノアの言葉に小説家はぽかんと口を開けて呆けている。
「奴ら……? えっと、複数なの? そもそも私達は何を目的にしていたんだっけ?」
その口調にノアは戦慄した。小説家のモンスターボールを慌てて確認する。スリープがいなかった。
「ねぇ、〈インクブス〉はどうしたの?」
「〈インクブス〉? 何、それ?」
ノアは目を見開いて周囲を慌てて見渡した。小説家がスリープの事を忘れるはずがない。あれほど重宝していたのだ。それを手離して、なおかつ平然としているなどありえない。
――何者かに先を越されたのだ。
確信にノアは柱の陰へと駆け寄った。先ほどの二人はこの先へと消えた。柱の周りをぐるりと見渡すが人影は既にない。気配も感じられなかった。近くにいないのか、とノアが感じていると不意に背筋に立ち上る気配に肌が粟立った。
「――我々に用があるのは、あの女だけではなかったようだな」
ノアは後頭部に銃口を突きつけられたかのように動けなくなるのを感じた。冷たい声は淡々と告げる。
「我らが認めるのは一握りの人間だけ。それ以外には記憶とポケモンを代価に抜き取らせてもらう」
その言葉にノアは震え出しそうな身体に力を込めて尋ね返す。
「……やっぱり、番人がいたのね。そちらから何の用かしら?」
「モンスターボールが欲しいのだろう?」
相手はこちらの用件を含めて全て承知の上で接近してきたのだ。いつ、どうやって、はこの際関係がない。ここではっきりしているのは相手が力のある存在で、モンスターボールを得る事はそんな簡単ではない、という事実だ。
「くれてやる。ただし、条件付きでな」
「条件……」
ノアは呟く。〈キキ〉が入った腰のモンスターボールに視線を落とす。確か、緊急射出ボタンを押せばポケモンが出せるはずだ。ノアは監視カメラを気にした。スリープがいないとなれば看守の目を誤魔化す事も出来ない。看守に見られれば一発で終わり。いや、そうでなくとも囚人であっても、見られて告げ口をされれば終わりなのだ。小説家ですら勝てなかった。その事がより今の状況を絶望的に見せている。
「地下二階、十三番通路に来い。そこで実力を試そう。我らを認めさせる事が出来たのならば、モンスターボールを渡そうじゃないか」
認めさせる。それがどれほど困難なのか。ノアが推し量ろうとしていると、「逃げる、という手立てを使ってもいい」と相手は口にした。
「ただ、その場合、あの女のスリープは一生戻ってこないし、お前らは刑期満了までずっとふたご島刑務所で大人しく過ごす事になる」
相手はノア達が脱獄を求めている事を知っているのだ。いつの間にそのような情報を、とノアが視線を向けようにも振り返る事すら自由ではない。
「答えは、これから一時間以内に十三番通路に来るか否かで判断する。では」
殺気が掻き消えてノアは振り返る。そこには何もいなかった。ノアの影だけがある。柱に触れて見回すが誰かがいた形跡はない。
「十三番通路……」
ノアは口にして飴玉を舐めている小説家へと詰め寄った。小説家は飴玉を呆けたように舐めている。
「ねぇ、十三番通路ってあるの?」
「え? 何? 十三番通路? どこに?」
「地下二階よ。この刑務所の」
「いんや」と小説家は怪訝そうな目を向けて首を振った。
「この建物には確かに地下二階はあるよ。でも十三番通路なんてあった覚えはない。十二番と十四番通路はあるけれど」
意図的に除外されているのか。はたまた最初から存在しない通路なのか。ノアは決断を迫られていた。
「大丈夫? 顔色悪いよ。飴舐める?」
小説家が飴玉を差し出す。ノアは、「ありがとう、でもいらないわ」と拒否した。
「……甘くないって事ね。モンスターボール一つを手にするのにも」
「これはオレンジだよ。甘いって」
小説家の見当違いの言葉にノアは歩き出した。向かうはあるはずのない通路、十三番通路だった。