第二章 一節「番人」
「ポケモンには相性がある」
小説家は監房でそう口火を切った。
傍にはスリープが控えているが攻撃的な姿勢を見せればすぐにでも〈キキ〉の攻撃が飛ぶと分かっているのか大人しい。ノアは自分の傍らで羽ばたく鳥ポケモンの存在を自覚する。ヤミカラスの〈キキ〉。名前をつけたポケモンはノアの周囲を飛び回っている。急かした様子もなく、落ち着いた性格のようだが何よりも攻撃には敏感だ。少し血の気があるのかもしれない。
ノアが〈キキ〉を出していても看守たちは気にも留めない。それは小説家のスリープが発生させている認識を食う能力のお陰だ。それを利用出来たから、自分は無事に監房に帰ってこられた。そうでなければ〈キキ〉を出した時点で殺されていてもおかしくはない。
「相性?」
「ジャンケンと同じよ」
小説家は手を開いたり閉じたりした。よく見ると指が長いのが分かる。だからキーボードを叩く小説家という職業を選んだのかもしれない。
「グーはパーには勝てない。それと同じようにポケモンにも勝てない相性がある。覆せない事象が。でも、特例も存在する」
「特例?」
「これは半分おとぎ話みたいなものなんだけれど」と小説家は前置きしてから話し始めた。
「かつてカントーを制覇したポケモントレーナーは、ピカチュウで地面タイプを下したといわれているわ。相性上、電気タイプであるピカチュウは地面タイプに効果が打てないというのに」
ピカチュウなら、ノアでも知っている。メジャーなポケモンであり、ポケモン関連の企業ならば使いたがる看板ポケモンだ。黄色い電気ねずみが愛らしい鳴き声でモンスターボールに乗っかっているCMを思い出した。
「でも、それはトレーナーの実力によるところが大きい。あとはレベルの差ね。圧倒的なレベルの差があるのなら、効果相性の壁を突き崩すことが出来るっていう。可能性の話よ。真に受けないでね。だって〈インクブス〉は、あなたのヤミカラスの前では全く歯が立たなかったんだから」
小説家がベッドの鉄骨に止まった〈キキ〉を指差す。ノアは注意を促した。
「〈キキ〉よ。言ったはずでしょう」
「ああ、そうだったわね。あなたも名前をつけたんだった。素敵な名前」
小説家が明らかに媚を売る口調で言った。ノアは〈キキ〉を呼びつける。ちょんと飛び立ってノアの腕に止まった。〈キキ〉は意外に重い。ノアはよろめく形となった。
「〈インクブス〉が認識を操っているからと言って、あまり不用意に行動すると看守にもばれる。一応、監視カメラは回っているんだから。監房以外ではモンスターボールから出さない事をお勧めするわ」
小説家の言葉にノアは頷き、モンスターボールを〈キキ〉へと向けた。小首を傾げる〈キキ〉へと赤い線が走り、粒子となって吸い込まれていく。ノアは手に掴んだモンスターボールを見やった。上が黒、下半分が白のモンスターボール。一度出せば、一両日中はロックされてポケモンを出す事も戻す事も出来ない。ノアは小説家を指差す。
「あんたもポケモンを戻すべきよ」
その忠告に、「駄目よ」と小説家は頭を振った。ノアは訝しげにモンスターボールの緊急射出ボタンへと指をかける。
「まさか、まだ……」
抵抗するつもりなのか。ノアの声に、「誤解しないで」と小説家は手を振った。
「私はあなたに従うわ。あんな痛みは二度とゴメンだし、〈インクブス〉が傷つけられるのも見たくはない。私がモンスターボールへと戻さないのは〈インクブス〉の能力がボールに戻す事で切れてしまうからよ。そうなった場合、私の今までの行動が明るみに出る」
「あたしの知った事じゃない」
「いいえ、ノア・キシベ。いえ、もう他人行儀じゃなくってノア、って呼んでいいかしら?」
小説家の言葉にノアは少しだけ迷ってから頷いた。
「いいわ。ただし、上下関係は」
「分かってる。あなたが上で私は家来。私としては作品が完成出来ればそれでいいの。あの人の命令であなたの認識を奪おうとした事は謝るわ」
ノアは、「そこよ」と指摘した。小説家が首を傾げる。
「あの人って誰なの? あんたの話では天涯孤独のあんたにポケモンを渡した人間なんでしょう? 当然、顔も見ているはず」
「分からないわ」
小説家が発した言葉にノアが声を詰まらせる。
「分からないって……」
そんなはずはないだろう。スリープを渡されたと、そう言っていたではないか。
「嘘や隠し立ては、あんたのためには」
「いや、分かってる。ちょっと待って、ノア。本当に分からないの」
小説家自身も困惑しているようだ。ノアは握り締めた拳から力を抜いた。
「……説明してもらおうかしら」
ノアが腕を組んで聞く姿勢に入ると、「そうね」と小説家はぽつりぽつりと話し始めた。
「元々、〈インクブス〉はあの人のポケモンだった。だから、私に譲渡される前にあの人は私にもかけたのよ」
「かけたって、何を」
「認識を操る能力よ。私自身、〈インクブス〉に夢≠食われている。〈インクブス〉のトレーナーになってからも、その記憶だけがどうしても抽出する事が出来ない。私は確かにあの人と接触したわ。でも、その時の記憶が綺麗に抜け落ちているのよ。命じられたのはノア、あなたを見張って、抵抗力を完全に奪えっていう事。命じられるままに動くでく人形にしろ、とのお達しだったわ」
その言葉にノアは背筋を凍らせる。もし、〈キキ〉の力を使えなければ自分はそのような末路を辿っていたというのか。ノアは平静を装って言葉を返す。
「つまり、あんたにもあの人の正体は謎だって言う事ね」
「その通り」
小説家は頷いて肩を竦める。
「私も知りたいくらいよ」
「じゃあ、何であの人とやらの命令通りに動こうと思ったの? 別に恩義なんて感じる必要性はないじゃない」
「そうよ。だから出し抜こうって思っていたの。認識を食える〈インクブス〉の能力ならば、ともすれば、ってね。でも、ちょっと難しいって今なら思える」
「何で?」
「あなたに負けたからよ。ノア」
ノアには自分が小説家を負かした覚えはなかった。ただ襲い掛かってきたスリープと小説家を迎撃しただけだ。
「不可抗力よ」とノアは口にする。
「分かってる。だってタイプ相性も知らないんだもの。トレーナー人口が八割を超えているカントー地方にあって異常だわ」
その言葉にノアは少しむくれた。
「興味がなければ知らない事もあるわ」
「でも、タイプ相性はスクールで習わなかった?」
「言ったでしょう。あたしは出版社に入ったって。スクールで習う基本すら、頭になんて入っていない。ポケモンを持つのも〈キキ〉が初めて」
ノアはモンスターボールを撫でる。透かすと〈キキ〉が喜んでいるのが見えた。
「私達がすべきことは」と小説家が声に出す。
「この牢獄から抜け出して、何とかしてあの人へと辿り着く事よ。そのためにどうしても必要な事が一つある」
小説家は指を一本立てた。ノアは訝しげに眺める。
「必要な事、ってのは?」
「この手錠と、モンスターボールのリンクを切る事」
左手首に巻かれた手錠を突き出し、小説家は腰につけたモンスターボールを叩いた。
「この二つが私達の行動を縛り付ける」
「じゃあ、どうするってのよ」
「まずはモンスターボール。一日に一度しか出せず、戻せば二十四時間の制限を受ける。ここから脱出しなければならないわ。そのためには普通のモンスターボールを所持する必要がある」
普通のモンスターボールとは赤と白のカラーリングのモンスターボールの事だろう。この場所では監視下にはないモンスターボールだという事になる。
「難しいんじゃない? だって当然の事ながら、そんなの売ってないんでしょう?」
「売ってはいないわ。そりゃ、囚人達が勝手にポケモンを出したり引っ込めたり出来るようになると管理が難しくなるし、管理出来ないという事は制御出来ない事と同じ。ここふたご島刑務所にあってはならない」
「じゃあ、無理なんじゃ」
「ところが、ここにも抜け道がある」
小説家は声を潜めた。廊下を歩く看守を気にしているらしい。これから話される事が、秘密である事は容易に想像がついた。ノアは耳をそばだてる。
「モンスターボールをたくさん持っている囚人がいる。その囚人から普通のモンスターボールを受け取ればいい」
ノアは目を見開いた。
「この刑務所に、そんな人間が?」
にわかには信じられない。ノアの言葉に、「驚くのも無理はないわ」と小説家は首肯した。
「でもポケモンの持ち込みは難しくっても、ただの道具であるモンスターボールそのものの持ち込みはさほど難しくはない。センサーの類にも引っかからないし。なにせブランクのモンスターボールじゃ、取り締まっても意味がないからね」
「その人間はモンスターボールを多数所持していると?」
ノアが問いかけると、「その通りよ」と小説家は憚っていた声を元に戻した。
「そいつ自身はポケモンを」
「持っていない。だからこそ、許されるんでしょうけどね」
「だったら、あんたのスリープで押しかけて認識を食ってモンスターボールを奪えばいい。簡単な話じゃない」
ノアがその結論に帰結すると小説家は眉根を寄せた。
「それが、そんな簡単じゃないのよ」
小説家は壁に背中を預けふぅと息をつく。怪訝そうに、「どういう事?」と訊く。
「このふたご島刑務所に何人の受刑者がいると思っているの? 私達みたいな思想犯から、本当に犯罪者の人間まであらゆる奴がいるのよ。その中から、そんな眉唾物の存在を探し出せると思う?」
「当の本人は、その事を明かしていないのね」
「当たり前よ。そんな事が明るみになれば、さらに刑を科せられるでしょうし、その人間を頼ってモンスターボールをたかりに来る人間もいるでしょう」
「でも、そうなっていないのは……」
ノアはそこから導き出される答えを探して顎に手を添えた。恐らくは相当な秘密の上に守られている。モンスターボールを持っている人間が。そもそも受刑者であるのかすら怪しい。
小説家は頷いて、「誰も知らない、影の番人よ」と続けた。
「その所有者を守っているのは、何も暗黙の秘密だけではないと思うわ。実力者が控えているか、またはその所有者が認めた人間だけが、恩恵に預かれるか……」
認められた人間のみ。そう考えると、まずは所有者を探すところから考えなければならない。
「あんたのスリープの認識を食う能力で知っている人間から搾取しなさいよ」
ノアの提案に小説家は、「それも難しいわ」と首を振る。
「どうして?」
「私はあなたに絞っていたから効果を最大限まで発揮出来た。もう知っているでしょう? 〈インクブス〉の弱点を」
弱点。それはトレーナーとの距離が一定ではないと制御下を離れるという事だろう。スリープは小説家との一定の距離が必要となる。なおかつ、監視カメラに映らないとなれば、スリープを伴っての行動は大幅に制限されるだろう。
「何で〈インクブス〉はあんたの言う事を聞かないの?」
「多分、他人から貰ったポケモンだからでしょうね。私のレベルと〈インクブス〉のレベルが吊り合っていない。その点、不思議なのよ」
ノアは怪訝そうに眉をひそめる。
「不思議って?」
小説家は頤を突き出して、「ヤミカラス、いいえ、〈キキ〉が」とノアの手にあるモンスターボールを見た。
「〈キキ〉は、あなたを守ろうとしていたわ。最初からそうであるべきかのように。〈インクブス〉の夢食いからも、〈インクブス〉そのものからも。どうしてだかあなたの夢に介入出来なかったのは〈キキ〉の力も大きいのよ」
「〈キキ〉が……」
モンスターボールに視線を落とす。〈キキ〉はうっつらうっつらと眠りにつこうとしている。
「あなたに懐いているとは思えないのに」
その様子を見やって小説家が呟く。確かにその通りだ。〈キキ〉が自分に懐いているはずがない。ふたご島刑務所に入って初めて手に入れたポケモンである。だというのに、自分を守っていたというのか?
ノアは確信が得られずに目を伏せる事しか出来ない。
「どちらにせよ、所有者を見つけ出す段から始めないと。私達はあの人に続く糸口を得られずに終わってしまう」
嘆息をつく小説家にノアは、「もう寝るわ」と口にした。
「今は、多分、何か新しい情報が得られる気がしないから」
もうスリープが自分の夢を侵そうとする心配もないだろう。小説家も、「そうね」と頷いて下段のベッドに入った。
「タイプ相性についてはまた、明日聞かせて」
ノアの言葉に、「オーケー」と小説家が応じて指で円を作る。相変わらずスリープが手を波打たせて佇んでいるのが気になったが口には出さないでおいた。
待ち望んでいたかのように穏やかな眠りが訪れる。ノアはその波に任せた。