プロローグ
「――目醒めた」
少女は小さく声を発した。誰にも聞き届けられないような声。潜めたような、しかし確かに声帯を震わせた言葉に、薄く眼を開く。
少女は白いワンピースを纏っていた。白百合のように透き通った白磁の肌が眩しい。闇の中でそれは一層際立っているようである。
少女の眼の色はそれと対比するような鮮血の赤を宿していた。赤い瞳が微かに光を灯す。何かを察知したかのように、少女は首を巡らせた。
少女の傍に男がいた。少年と呼ぶには年長に見える。だが青年と呼ぶにしても少し語弊があるような童顔だった。
男は赤いジャケットを身に纏っている。赤と白のコントラストが利いた鍔つきの帽子を被っており、それを左手で目深に被り直した。彼には右腕がなかった。肩口からばっさりと、最初からその場に腕など存在していなかったかのように鮮やかに、ないのだ。
赤い服の男は手元でモンスターボールをいじっていた。左手だけの隻腕だが、衰えた様子も、不自由している様子も見受けられない。赤い服の男はモンスターボールをホルスターに留めて頷いた。
「感じたか。ルイ」
男の声に少女――ルイは首肯する。取り合わせは奇異にも映った。なにせ、男は愛おしいものを見るようにルイを見つめるのだ。その声にも温かみがある。しかし、研ぎ澄まされた刃のような眼差しはそれらの態度とは対照的に思える。
「うん。リョウ。彼女はきっと……」
そこから先の言葉を、リョウと呼ばれた男は片手を上げて遮った。
「分かっている。俺達が止めなきゃいけない。ナンバーアヘッドの暴走を。キシベは、十年以上前から、自分の命すら消える事を勘定に入れて計画していたんだ」
リョウは立ち上がる。ルイは付き従うようにリョウにすがりつく。恐れか不安からか、その手は少し震えている。
「怖いのか、ルイ」
「ううん。……だってボクは彼女と――」
「いい。言うな。その必要はない」
リョウはルイの唇に人差し指を当てて制した。ルイは陰鬱な顔を伏せる。
「ゴメン。やっぱり、ボク、怖いよ」
「怖いのはすぐにどこかへ行くさ。ただ、俺達しか出来ないんだ。やるっきゃねぇだろ」
リョウの言葉には使命感と同時に情熱が宿っていた。自分達しか出来ない。それを強く自覚している声音だ。
「うん。それも分かってる。……でも、ボクに出来るのかな」
「出来るさ。俺達がこのクソッタレなプログラムを止める。今ならば分かるよ。俺の力は、そのためにあるんだって」
「リョウ。無理は」
「してねぇよ。心配すんな、ルイ」
気安さを含んだ声音でリョウはルイの頭を撫でる。ルイはくすぐったそうに目を細めた。
「子供じゃないよ」
「だったな。行こうぜ。消さなきゃいけないんだ。絶望の方舟は」
リョウが闇の中へと踏み出していく。ルイはその後姿を眺めて、ぽつりと口にした。
「……思い詰めないで。リョウのせいじゃ、ないんだよ。ボクの」
「どうした? ルイ」
肩越しに振り返った顔に、ルイは首を横に振った。切り揃えられた薄紫色の髪がなびく。
「ううん。何でもない」
リョウとルイの二人は、闇に塗れた道を歩き始めた。