第一章 九節「インクブス」
ノアは真っ暗な闇の中にいる。独りで取り残されている。
いつからかは分からない。原初に闇があり、光は当然浮かび上がるかに思えたが、端から端まで隙間なく闇の皮膜が覆っている。
自分を囲うものは、すべからく闇なのではないか。この世界に光などないのではないか。ノアはそう思い始めていた。生れ落ちたその時より、原罪を背負った身となればなおさらだ。生きている事、それ自体が罪である。
その時、闇の端を摘まれたような痛みが走った。どうやら闇はノアの一部のようだ。
侵食されれば、痛覚が反応する。ノアが目を向けると、昨夜と同じ巨大な不定形の何かがノアの闇を食んでいる。むしゃむしゃと、闇が犯される。ノアは制止の声をかけようとしたが、やはり声が出ない。闇の水圧に負けたように、眼球が内部へと押し潰されていくのが感じられる。視覚さえも奪い取られ、ノアには何かに食われているという異物感だけが残された。ノアにとっては闇すらも自分の一部なのだ。それを今、何かが食らっている。
ノアは闇の中で両脚を抱えて蹲る。このまま自分は食われるのだろうか。大切なものさえも分からなくなって。
――嫌だ。
ノアはぎゅっと拳を握り締める。
失うのならばまだいい。一番怖いのは、大切なものが何なのか分からなくなる事だ。自分にとって何が大事なのか。何が必要なのかさえも分からなくなる事。それがノアの恐れる全てだった。
ノアは失いかけた視覚を研ぎ澄ました。無理やり目を開くイメージを作ると、血が迸るように自分の眼が開いたのを感じた。客観的に観察する自分がそれを眺める。
眼は血色に染まっていた。
ノアは飛び起きて標的を睨み据える。
その眼差しにたじろいだのは小説家だった。ノアを見て、信じられないものを眺めるように瞠目している。
「あなた、眼が、赤く……」
何を言っているのか分からなかったが、ノアの視界に映ったのは小説家だけではなかった。その事実に歴然とする。小説家の傍らに上半身が黄色で下半身が茶色のポケモンが立っており、手を波のようにくねらせていた。発達した鼻を有しており、目は下卑たような形に吊り上がっている。ノアはそのポケモンを指差した。
「その、ポケモンは……」
「なに? 〈インクブス〉が見えるの?」
〈インクブス〉、と言うのだろうか。どちらにせよ、ノアにとっては不利な状況である。相手はポケモンを出してきている。恐らく先ほどまでの悪夢もこのポケモンのせいなのだろう。ノアがホルスターに手を伸ばしかけると小説家が声を張り上げた。
「〈インクブス〉、金縛り!」
ノアの指先が電流の走ったように硬直する。指がぷるぷると震えて動かなくなっていた。その指先の神経に意識を凝らそうとすると、「ああ、一本」と小説家が口にする。小説家の言葉通り、人差し指を残して手が握られた。しかし、ノア自身が考えて行動したわけではない。指は勝手に曲がって、動いたのだ。
「慌てたわ。まさか〈インクブス〉が見えるなんてね。でもどうって事ない。あなたが秘密を守ってくれるのならば、そう、どうって事ない」
小説家は自分に言い聞かせているようだった。ノアは睨む目を寄越す。
「あんた、は……」
「ああ、怒らないでね、ノア・キシベさん。あなたはね、次の小説のモチーフなの」
「モチーフ、って」
「ヘイ!」
小説家が指を下ろすと、ノアの唇が閉ざされた。もごもごと喋ろうとするが一言も発する事が出来ない。そのうち呼吸が苦しくなってきた。
「モチーフは余計な事を語らない。オーケー?」
どうやら小説家の言葉に従うしかなさそうだった。ノアが力なく頷くと小説家が指を鳴らす。唇への拘束が解けたのか、ノアはぜぇぜぇと荒い息をついた。
「その、ポケモンは」
ノアは慎重に、なおかつ今聞かねばならぬ事を考えながら言葉を発した。はっきりさせねばならない。目の前にいるポケモンは現実か。
「今朝は見えていなかったみたいだけれど」
小説家はポケモンへと目配せする。ポケモンはふるふると首を横に振った。
「何かの介入を〈インクブス〉に行ったのかしら? そうじゃなきゃ破られる理由が分からない」
「〈インクブス〉……」
「そうよ。この子の名前」
小説家はポケモンの頭に手を置いて撫でた。
「〈インクブス〉はニックネーム。種族名はスリープ。催眠ポケモンよ」
「催眠、って」
〈インクブス〉と名づけられたスリープは手を一定の周期で波打たせている。その行動に意味があるのだろうかと怪訝そうな視線を向けていると、「意味はね、あるのよ」と小説家は心得たように答える。
「〈インクブス〉、スリープは催眠ポケモン。他人の夢を食べて生きるのよ。夢にはその名前どおりの意味だけじゃない。認識、記憶も含まれる」
「認識……」
だから今の今までスリープの存在が分からなかった。ノアは知らぬ間に認識を食われていたのだ。総毛立つと共にスリープに対抗しなければとホルスターを見やるが、小説家が見咎めて、「ヘイヘイ!」と煽る。その声に抗う事も出来ずにノアは小説家へと顔を向けた。
「〈インクブス〉の射程圏内で小細工はやめたほうがいい。やろうと思えば、あなたの首を捩じ切る事だって出来るんだから」
ノアはざわっと肌が粟立ったのを感じたが、「でも」と声を発する。
「ポケモンによる殺しを、刑務所側が黙って見ているはずがない」
いくらポケモンからの自衛措置がポケモンでしかなかろうとも、思想犯が殺人など公然と行えるわけがない。ノアの言葉に小説家は卑屈に笑んだ。
「考えなさいよ、ノア・キシベ。私は認識を操っている。スリープの射程圏内なら看守だって私の行動を制限する事なんて出来ないわ」
「記憶は残らなくっても記録は残る」
ノアの言葉に小説家は、「うん?」と聞き返した。ノアは強い語調で言い放つ。
「あたしが死ねば、監視カメラや各種記録が改めて調べ上げられるわ。あんたなんてすぐに極刑よ」
決死の声に小説家は、「なに、そんな事」と返した。ノアは目を見開く。
「そんな事って……」
「馬鹿ね。私がその辺に気がついていないと思うの? 当然、各種記録に映らない殺し方を考えているわ。看守達からカメラの位置なんて〈インクブス〉に食わせればすぐに分かる。彼らだってカメラの死角は熟知している。なら、その死角で全てを行えばいい。看守達の目視に頼るような場所は、認識を操れば簡単に突破出来るわ」
だからなのか、とノアは納得した。看守達の認識を操って、小説家は「自分が何年もここにいる模範囚」のように見せている。だからこそ、自分と同室にいるのだ。
「……でも、ならばどうして脱獄に使わないの」
それだけが疑問として浮かび上がる。小説家は鼻を鳴らした。
「やろうと思えば簡単よ。でもね、私はここにいる間に書き上げたいの」
「書き上げる? 何を」
「至高の一冊よ」
小説家は大切なものをすくい上げるかのように両手を合わせた。
「何を、言っているの……」
「このまま出たって、私には何も残っていない。そりゃ、生活には困らないでしょうよ。この〈インクブス〉がいればね。でも、それじゃ駄目なのよ。もし、そんな事を行った場合、あの人が私を殺しにくる」
「あの人?」
「あなたの監視を命じたあの人よ。天涯孤独で、面会人なんていない私に、〈インクブス〉を授けてくれたあの人」
「あの人って誰なの」
ノアの言葉にスリープが中空を叩いた。それに同期して頬に鈍い痛みが走る。念力で飛ばされた痛みが頬を打ち据えたのだ。
「馬鹿ね。教えるわけがないでしょう。私の命がかかっているのよ」
ノアは鋭く睨みつける眼を据えて尋ねる。
「誰かの命令で動いているって事?」
その言葉にまたも頬をぶたれた。ノアは痛みで視界が滲むのを感じる。
「あなたの夢を〈インクブス〉に食わせて、空気の抜けた風船みたいに戦意をしなしなにさせるのが私に与えられた使命。でも、あなたには〈インクブス〉が見えてしまった。計画は失敗。このままでは私は処分されるかもしれない。でも、同時にあなただって危険な因子が目覚めたと思われてこれまで以上にあの人からの監視の眼が注がれるでしょう。……そうよ、さっきの眼は忘れないわ」
恐れを帯びた口調はしぼむように小さなくなった。
さっきの眼、とは何の事だろう。身に覚えがない。そういえば、小説家はノアが飛び起きた時に驚いていたがあれは――。
思考を遮って小説家が口にする。恐れを微塵にも感じさせない、命令の声音を響かせて。
「取引といきましょう。ノア・キシベ」
放たれた言葉にノアは目をぱちくりさせた。
「取、引……」
「そうよ。私とあなた、両方が生き残るための取引。あなたは私に服従する。これまで通り、〈インクブス〉が見えない事を装って。でもその裏であなたはあの人の情報を集めるのよ。私の命令に従ってね」
「そんな事――」
発しかけた抗弁は喉笛を押さえつけてきた手の感触に遮られた。スリープが腕を掲げて小動物でも押し潰すように握り締めている。念力で拡張された手がノアの喉を絞めつける。
「返事は」
小説家が声を出す。微塵の躊躇いもない冷たい語調だった。
「イエスか、はいだけ。私に従う? それとも、ここで殺される?」
ノアは口をぱくぱくとさせて酸素を求めた。小説家が顔を覗き込んでくる。
「従うなら一度頷いて。死んでもいいんなら、二度頷きなさい」
命令の声にノアは暗転しかけた視界でスリープと小説家を睨み据える。だが事態は好転しない。この小説家は本気で自分を殺すだけの事をしようとしている。
あの人≠ニやらに命じられたのがそれほどまでに恐ろしいのか、眼には狂喜さえ浮かんでいた。殺人を嗜好する人間の眼だ。ノアは幾度かその眼に出会った事がある。
裁判の、安全が保障された場所だったが、ノアがスクープを取って追い詰めた犯罪者の中にそういう眼をしている人間がいた。
こういう手合いは自分の中に罪を殺す悪魔を飼っている。浮かびかけた罪の意識などという人間的な考えを殺せるだけの理論が備わっているのだ。その理論は常人には決して解読出来ない、解読するとしたらそれは死の瀬戸際だろう。ノアはその眼が明滅するのを感じて、一度頷いた。
圧迫感はすぐに消えた。ノアは激しく咳き込む。小説家がノアを冷たく見つめて、「それでいいのよ」と言った。
「私に従って、モチーフになっていればいいの。それに、あなたがあの人の正体に至れば、私としても大助かりよ。危険に怯えなくって済むんだから」
それほどまでにあの人≠ニは強大なのだろうか。ノアは正体不明の何かが自分を見張っているという恐怖に駆られた。ノアへと小説家が言い放つ。
「まずはベッドを降りなさい」
ノアは命じられるままにベッドを降りて床に立った。
「這い蹲って。私に言葉で誓うの」
ノアはその言葉に反論した。
「それを実行する意味が分からない」
「さっさとしろよ!」
ノアの声を小説家の怒声が引き裂いた。喉笛が押さえつけられる感覚に襲われる。スリープがまたしてもノアの首筋を締めつけていた。
――野郎。
ノアは内側に燻るような熱を感じたが、それが形状を伴う前に消失した。自分の中で灯りかけた光が霧散する。習い性で誰かを憎む事も、怒る事も出来ない。
小説家の言葉に従ってその場に這い蹲る。小説家が愉悦の笑みを張り付かせた。
「そうよ。そのまま言うの。『あなたの言葉は主の言葉。主に決して逆らいはしない』と」
「そんな事をわざわざ言う必要性が――」
背筋へと重圧がかけられる。スリープが手を繰って念力をコントロールしていた。使い手である小説家の心に同期したように、スリープ自身もこの状況を愉しんでいるようだ。
「あるのよ。意味のない言葉なんてないの。いい? 私は職業柄、言葉の力については熟知している。あなたの喉を震わせて、あなたの意思で言ってもらう事。これがどれほどまでに重要かは私が理解している」
この状態では意思などないのではないかと感じたが口には出さなかった。ノアが黙していると、「復誦」と声が飛んだ。背中にかかる重圧が増す。
「……あなたの言葉は主の言葉。主には決して逆らわない」
「おい!」
小説家がノアの身体を蹴りつける。ノアはよろめいた。
「『逆らいはしない』でしょう。駄目よ。言葉は正確に用いなければ。約束の効力が薄れてしまう」
小説家は、今や看守よりも恐ろしくノアの行動を制限する人間であった。その眼に爛々と宿る狂気に、ノアは唾を飲み下す。
――従うしかないのか。
苦渋に奥歯を噛み締めながらノアは言葉を発した。
「あなたの言葉は主の言葉。主には決して逆らいはしない……」
「オーケー。よく出来ました」
小説家が笑顔を作る。ノアが起き上がろうとすると、「まだだ!」と小説家が押さえつけた。背骨が一瞬、曲がるかと思われるほどの重圧がかかる。ノアは覚えず呻き声を上げた。
「おっと、殺してしまう。〈インクブス〉。緩めて緩めて」
スリープが手を波打たせる。ノアは荒い息を整えていた。小説家が人差し指を立てて、「今ので契約は成立したわ」と節をつける。
「これであなたは私には逆らえない。あなたの得た情報を基にして、私はあの人を追い詰めて、小説も書いて無事にここから脱出するの。それが出来たら素敵でしょう?」
小説家はうっとりと語る。ノアは声一つ出せなかった。スリープの姿は誰にも映ってないのだ。スリープの射程圏内、つまり小説家の目の届く範囲ではポケモンすら繰り出せない。そもそもノアはポケモンの扱い方を知らない。技はどうやって出すのか。どうやって戦わせればいいのか。
何一つ判然としないままに、ノアは苦渋を噛み締めるしかなかった。小説家が、「夢を食むのは諦めるわ」と告げる。
「あなたには何故だか〈インクブス〉が介入出来ないようだし。面倒や手間は嫌いなのよ」
小説家はふふんと笑い、「安らかに眠りなさい。ノア・キシベ」と口にする。スリープが手を波立たせて同心円状の青い光を発した。それが視界を埋め尽くした途端、意識が闇の淵へと落ちていった。
抵抗する事も出来ず、ノアは床に倒れ伏した。