第一章 八節「素材」
ワープロのキーを打ちながら小説家は考える。
ノア・キシベの物語は着々と完成の輪郭を見せ始めている。しかし、圧倒的に足りないのは、彼女自身の存在の核とも言える部分だ。中心核がないせいで、無駄な肉付けばかりが多くなる。それではいけない、と小説家は考えていた。
「今夜、もう一度夢への介入を試してみるわ。いいわね、〈インクブス〉」
〈インクブス〉へと命じる。〈インクブス〉は両手を振り翳しながら発達した長い鼻を持ち上げる。〈インクブス〉の姿は誰にも見えない。彼ら彼女らの視覚情報から〈インクブス〉の姿の情報という夢≠奪い取っている。小説家はコンピュータルームで小説を書き上げようとする。
(ノア・キシベは怒りの感情を母親によって摘み取られた過去を持つ。それは恐らく、父親を憎まないための処世術なのだろう。あるいは世界を憎まないためか。どちらにせよ、ノア・キシベは感情の欠落した存在である事が窺える。本来ならば持っているはずの感情をどこへやら落としてしまったのだ。あるいは落とした事にすら気づいていないか……)
小説家はそこで考え込んだ。夢への介入と同時にノアの感情を呼び起こす事は出来ないか? 怒りの感情を発露させたノアはどのような反応を見せるだろう。
「楽しみだわ。とっても楽しみ」
うっとりと悦楽に身を浸していると、「感心だな」と看守が声をかけてきた。
「昼夜を問わず反省文を書いているとは。優秀な模範囚だ」
そうだ。看守にはこの作品がただの反省文に見えているのだった。圧倒的なリアリティを駆使した自分の創作が、相手にはただの反省文に映っている。そこに上も下もない。自分が評価されていない。
小説家は据わった眼を看守に注いだ。
「どうした? 652番――」
その言葉が放たれようとしたその時、小説家は命じていた。
「〈インクブス〉、金縛り」
〈インクブス〉が両手を掲げ、その手を開くと看守の眼がカッと見開かれ、その場に硬直した。助けを呼ぼうとするが、その指先さえも自由ではない。小説家は、ディスプレイに手を置いて、「その眼で!」と声を荒らげた。
「そのもうろくした眼で、私の作品を見ろ! 評価しろ! そうでなければ面白くない。これは圧倒的リアリティで描かれた私と世界の敵の娘の記録。それだけの価値で留まるはずがないわ。必ず、いい買い手が見つかる。ホラ、その無駄にかっ開いた眼でさぁ!」
小説家はそこまで捲くし立ててから、急に自分の内面が醒めていくのを感じた。
「なーんてね」
パチンと指を鳴らすと〈インクブス〉が「かなしばり」を解除する。看守は今しがたの出来事に小説家へと詰め寄った。
「何をした、貴様!」
「何もしていませんよ? それはあなたが証明出来るのでは?」
看守は声を詰まらせた。看守には〈インクブス〉の姿が映っていない。当然、先ほどの現象についても説明のしようがないのだ。
「……だが、さっきの暴言は――」
「あっ、その記憶は抜かなきゃね。〈インクブス〉、夢食い」
〈インクブス〉が波紋状の念力を両手から発する。怒りを湛えた看守の眼は一瞬にして大人しくなり、とろんとした。その隙に、〈インクブス〉の発達した鼻が空気を吸い上げる。すると、看守の頭部からピンク色の靄のようなものが飛び出した。靄を〈インクブス〉は吸い込んで、むしゃむしゃと食む。次の瞬間には、看守はハッとして周囲を見渡した。
「ここは……」
「看守さん。反省文を書き終えたから、私は房へ戻るわ」
小説家が立ち上がると看守は夢見るような目つきで、「あ、ああ」と頷いた。誰も小説家が連れている〈インクブス〉について言及する人間はいなかった。
監房に戻ると、既にノアはベッドに横になって眠っていた。小説家は〈インクブス〉に命じる。
「ノア・キシベ。あなたは最高の材料よ。あなたの頭の中を、終わりの終わりまで見せてちょうだい」
ゆらり、と〈インクブス〉が手を振り始める。波のような仕草に、小説家が陶酔したように愉悦の笑みを浮かべた。