第一章 七節「魔法」
朝食は終わっていたし、さらに言えばもう昼食後の休憩の時間だった。
随分と眠ってしまったらしい事と、同室の小説家が起こしてくれなかった事に不信感は抱いた。しかし、まだ一日目だ。懲罰がないだけありがたいと思う事にした。ノアは休憩時間に天窓を仰いでいた。中天に昇った太陽が光を投げかけている。夜には月や星が見えるのだろうか、と漫然と考えていると、隣に座ってきた影に気づかなかった。
「お隣、いいかしら?」
小説家である。ノアはぼんやりとした頭で頷いた。
「何をしているの?」
「ひなたぼっこ」
見れば分かるでしょ、とでも言いたげに、ぶっきらぼうな口調で言った。小説家は、「いいわね、ひなたぼっこ」と頷く。
ノアはぼうっとしながら、「考えていたの」と呟く。
「何を?」
「これから先、どうするか」
考えても仕方がない事ではあった。それを決めるのはノアではないからだ。
「答えは出た?」
「関節を温めるのが気持ちいいから、今はそれに専念する」
小説家はぷっと吹き出した。ノアは、「笑わないでよ」とむくれる。
「ゴメン。でも、おかしいわ。あなた、昨日刑を受けたばかりでしょう?」
「ああ、そっか」とノアは夢見心地で口にした。
「あたし、受刑者なんだ」
「そうよ。囚人よ」
「性質が悪い――」
「冗談なんかじゃなくって」
ノアは爪を噛んだ。下唇を人差し指で擦る。すると少しだけ落ち着ける気がした。
「唇、荒れるわよ」
「いいって。どうせ刑務所内で綺麗でも仕方がないもの」
外でだって身なりなんて気にしなかった。新聞記者は昼夜を徹する仕事ばかりだったからだ。
「戻りたいとは」と小説家が声を発した時、最初は何を言っているか分からなかったが、躊躇いがちに発せられた次の言葉に意味を把握した。
「思って、いるのよね?」
「戻れるのならね」
しかし、今さらどこに居場所があるというのだろう。ノアはため息をついた。小説家が指摘する。
「ため息をつくと、幸福が逃げていくわよ」
「逃げるだけの幸福も残っていないって」
「ここに来た時点で、最悪だと思っているでしょう」
それは当然だろう。ノアが首肯すると、「違うのよ」と小説家は言った。
「何が違う?」
「最悪ってのは、何も考えられなくなる事。最悪だという事にさえ、気づけない事」
「今の状況と差異があるって?」
「あるわ。あなたは何だかんだで考えている。そのはずよ」
考えているのだろうか。食事を取っていないせいで頭が回っていないのかもしれない。ノアは深呼吸をした。
「かもね」
「そうでしょう。唐突だけど」
そこで小説家は言葉を切り、少しだけ社交的な声音になった。
「あなたに夢はある?」
「夢?」
随分と青臭い事を口にするものだ。しかし嘘の臭いは感じない。小説家は本気でそれを問うているのだ。知れたとき、少し馬鹿馬鹿しかった。
「夢なんて。世界の敵の娘に生まれついたその時から、持っていないでしょ」
「でも、生きる目標なり、何なりはあったはずよ。あなたの行動原理を知りたいわ」
ノアは怪訝そうに眉をひそめた。
「取材のつもり?」
小説家は大仰な仕草で額に手を乗せる。
「いいえ、そんなつもりは。決して。ただあなたの人となりが知りたいのよ」
小説家は気さくに話しかけてくる。しかし、ノアは自分の胸中に探れば探るほど、そのような答えがない事を思い知った。
「……ないわね」
「そんなはずがないわ。あなたの心の奥底には確かに光がある。鋭い、ナイフのような光が」
まるで見てきたように言う。小説家にでもなると心が透けて見えるとでも言うのか。ノアは少し言い返したい気分になった。それは目の前の小説家が分かったような口ぶりだったのもあるが、ノアの脳裏に焼きついている光の道筋は自分だけのものだと主張したかったのもある。
「光なんて。あたしは感じた事がない」
「じゃあ、幼少期の事を知りたいわ」
「幼少期?」
「ええ」と小説家は頷く。
「子供の頃にどのような環境で育ったか、何が好きかによって大体の嗜好が分かるものよ。たとえば、あなたは女児向けアニメが好きだったとする。しかし、その関連のおもちゃは買ってもらえず、テレビの中のものに強い憧れを抱いていたとする。そうすると、その人間は想像力を豊かにして自分だけのおもちゃを手に入れる傾向があるとか」
「どこのソースよ」
「私よ、私」
小説家は自慢げに自分を指した。ノアはぷっと吹き出す。
「ケースが一件じゃ、それはデータとは言わないわ」
「そうね。参考、とでも言っておけばいいかしら。その人間が生きてきた道筋の一端を知る事が出来る。あなたはどうだった? 社交的だった? 内向的だった? 好きなマンガは? アニメは? ドラマは? 映画は?」
そんな事を聞いてどうするというのだろう。塀の中では小説すら自由に書けないだろうに。ノアは訝しげな眼差しを向けた。
「データはどう反映されるのかしら?」
「そうね。これからの私の創作源になる。もしかしたらあなたそっくりのキャラクターが出てくるかもね」
ノアは鼻であしらいたくなった。まるで子供の理論だ。だからと言って、自分の幼少期を明かしてどうなるというのか。
「塀の中で小説を書くの?」
ノアはふふんと笑った。
「時代錯誤ね」
「そう、確かにそうかもしれない。でも、原点、ルーツを知るのは大事よ。何故ならその人の人となり、人格形成は十二歳までに触れたものによって決定されると物の本で読んだ事があるわ。ルーツを知れば、あなたを深く知る事が出来る」
ノアは小説家の言葉に、「ふぅん」と無関心を返した。同時に、ルーツか、と自分の胸中を探る。そういえば、と思い出した事があった。
「あたし、ポケモンバトルをしてはいけないと固く禁じられていたわ」
「何それ、面白そう」と小説家が食いついてくる。ノアは自分では異常だとは思った事がないが、母親から口を酸っぱくして言われていた事がそれだった。ほとんど放任で、キシベの幻影を追い求める母親が唯一、ノアに向かい合って語ったのはその一事だ。
――ポケモンバトル、ひいては争い事はしてはならない。勝負事には一歩引いた目線で向かいなさい。決して怒りの感情を抱いたり、憎しみを感じたりしてはいけない。
今にして思えばあれは何の教訓だったのだろう。母親は何を教えたかったのか、さっぱりだった。
「ポケモンバトルに限らずだけれど、人を恨んじゃいけませんだとか、怒っちゃ駄目とか言われたわ」
「それがあなたのルーツなのね?」
ルーツか、と問われれば疑問符を浮かべざるを得ないが、人格形成に一役買ったのは事実だろう。今まで怒りの感情に身を沈めた事もなければ、憎しみに囚われた事もない。キシベの事だって、客観的に喋る事が出来る。その要因を作ったのはこの言葉だろう。もしかしたら母親はキシベの事を恨まないようにこの言葉を授けたのかもしれない。
「でも、ポケモンバトルもしちゃ駄目って、ちょっと異常ね」
小説家に言われて、確かにそうだ、とも思う。スポーツやゲームに関してはほとんど言われなかったが、殊にポケモンバトルに関しては厳しかった覚えがある。
「ポケモンも持った事がないし」
「今まで一度も?」
「ええ、一度も。これが初めてよ」
ノアは腰のホルスターにつけられた黒いモンスターボールを撫でる。その中に入っているポケモン、ヤミカラス。面会室で透かして見たその姿を思い描く。濡れたような黒い羽。魔法使いの帽子のような鶏冠に、落ち窪んだ眼窩。赤く揺れる眼差しがノアの脳裏に過ぎる。そういえば昨夜の夢の中に出てきた流星は、それに似通っていなかったか?
その疑問に応ずる答えを探す前に、「お母様は厳しかったのね」と小説家が憐れむように口にした。ノアは少しむっとする。
「別段、厳しいとは感じなかった。だってママの言う事は間違っていないもの」
ノアは母親だけを信じている。様々な人間と出会ってきたが、母親だけが生まれてから今までずっと信頼に足る存在だ。
「お母様が絶対のように感じるわ」
「絶対って言うほどじゃないけれど、でも、間違いではない」
ノアの中で大事なのはそれだ。間違いではない。間違いは犯してはならない。そういう点ではここにいる時点で母親の言いつけを破っているようなものだった。しかし、これとて自分の出自が招いた結果なのだ。畢竟、キシベのせいであり、自分と母親には何の非もない。
「本当なら、こんな場所にだって来るもんじゃなかった」
「お母様はきっと心配しておられるわ」
小説家の言葉にノアは少しだけ沈黙した後に、「そうね」と首肯した。
「あの人は寂しがり屋だから」
きっと涙で枕を濡らしているに違いない。いや、もしかしたら一睡もしていないかもしれない。そう考えるといてもたってもいられなくなる。胸が締め付けられるのを感じる。
「他にはないの? あなたの思い入れとか」
ぱっと思いつくものはなかったが、少し思案して、「そういえば」と声に出した。
「あたし、身体が弱くてよく熱を出したわ」
「うんうん」
小説家は食い入るようにノアの話を聞いている。それほどの価値のある話とは思えないが、と客観的な自分が分析する。
「その時に、よく見たのよ。ビデオに録って、何度も何度も。リバイバル放送も観たわ。ハイビジョンリマスター版もある。黒服の女の子が、魔女で、宅急便をする話。猫の相棒と一緒にね」
「あれには原作があるのよ。あなたが観たのはアニメのほうね」
「そうね。多分そう」
主人公の女の子の名前は今でも覚えている。逆にそれ以外の情報が虫食いだった。細かい内容はほとんど覚えていないが、主人公の女の子の好物と名前だけが浮き上がっている。
「あたし、影響を受けて。だからホットケーキが大好き」
「参考になるわ」
小説家は頷きながら話の一語一句を忘れないように頭に刻みつけているようだった。メモも自由には取れない。当然の事ながら小説家はメモ帳もペンも持っていない。
今にして思えば娯楽が極端に少なかったのだろう。テレビも観たし、映画も観た。記者になってからは相当数の作品を観たはずであるが、それらよりもその話のほうがリアリティを持っている。自分の中でディテールがはっきりしている。
「ありがと。小説を書いたら、あなたに見せるわ。この監房での最初の読者として」
立ち上がった小説家にノアは、「いいけど」と声を漏らした。
「この刑務所の中じゃ、そんな事も出来ないでしょ?」
小説家は人差し指を立ててくるくると回した。まるで魔法のステッキを繰るように。
「私だけの魔法があるのよ」
悪戯めいた笑みを浮かべる小説家へとノアは尋ねた。
「ぜひとも聞きたいわね。その魔法」
「ああ、駄目よ、駄目。だって魔法は誰にも分からないから魔法なんだもの」
歌うように口にして小説家はその場を去って行った。
「じゃあね。きっと見せるわ」
ノアは軽く手を振って天窓に視線を向け直した。陽の光が円形に抉り取られた天窓から零れている。まるで天に導くような光だ、とノアは感じてふるふると首を振った。
「縁起でもない」
ノアは頬を叩いて自分を持ち直した。どうにもひなたぼっこがいけない。老人のような趣味だ。立ち上がってノアは身体を伸ばした。視界の隅に小説家が何かを話しているのが見える。しかし、相手はいない。独り言だろうか、と思っていると、小説家は迷わず自分の房へと戻って行った。ノアは先ほどまで小説家が話していた空間に目をやる。
何もいなかった。