第一章 六節「夢食む者」
(……事、ここに至るまでノア・キシベは全く気づいた素振りは見せない。彼女のまなこには、真実は映っていないのだ。それは永遠に捕らえられない逃げ水、蜃気楼のような存在である。彼女が捕らえようと躍起になればなるほどに、それは遠くへと消えていくだろう。真実は、最もこの世の残酷な部分を引き継いだ彼女には映らない。それはこの場所にいる看守や囚人達も同じで、彼ら彼女らには決して実態を捉える事は出来ないのである。それは鉄則であり、鋼の掟だ。ここに私が入ってから、否、あれを手に入れてから、私は何人にも犯されざる聖なる領域を手に入れる事が出来た。なおかつ、他人の領分を私は手に入れる事が出来る。それこそ自在に。これを種族の名前で呼ぶ事は無粋であると私は考えている。せっかく手に入れた力を凡俗な種族名に落とし込む事はあってはならない。そうだ。仮にあれを〈インクブス〉と呼ぼう。〈インクブス〉は私の力となって他人の夢を食む。夢、とは通俗的なレム睡眠の事だけを言うのではない。認識そのものの事を指すのだ。夢を食む事で他人の認識の合間を突き、〈インクブス〉の姿だけを捉えられないようにコントロールしている。昨夜も、〈インクブス〉でノア・キシベの夢への介入――この場合は記憶の齟齬を消す作業を指す――を行おうとしたが失敗に終わった。どうやら彼女の深層意識には何かが居座っているらしい。〈インクブス〉と同等の何か。それが何かは分からない。私にとってのそれは難題である。〈インクブス〉をもう一度、彼女の夢へと介入させる必要がある。その時に、それが何なのか、明らかになるだろう)
そこまで書いて小説家は息をついた。
看守が常に監視の目を光らせているが既に夢≠ヨの介入は行っておいた。今の看守には小説家がかつての自分に対して猛省する文章を書き上げているように見えるだろう。この「作品」を仕上げている事が分かるはずがない。
小説家は文章を眺める。自分の嫌いなエッセイストに書き方が似ているがやむをえない。これは今までのようなフィクションではない、ノンフィクションだからだ。
「難しいな」
小説家は首を傾げた。やはりノンフィクションだと描写面での華がない。
「何だ、すごい書き上げじゃないか。模範囚扱いも遠くないかもな」
いかつい看守がコンピュータルームを見渡している。このパソコンはネットには繋がっていない。だから出来るのはワープロのみだ。だが、小説家にはそれで充分だった。約束されたような笑みを浮かべて、「ありがとう」と謝辞を述べる。看守は、「それでいいんだ」と他の囚人を見回りに行った。〈インクブス〉の「ゆめくい」で自分はここから外へと電波を飛ばす事も出来る。しかし、今はその時ではない。急いては事を仕損じる。
「まだ一日目よ、私。ここで文章を書き上げて、私は出すのよ、この本を。様々な人々の記憶を集積した赤裸々な本」
それはきっと甘美な喜びに違いない。小説家はそこまで夢想してから、不意に文章へと付け加えた。
(私は小説家である。名前はとうに捨てた。匿名の小説家だ。私は私ではない匿名者として、顔のない人間である事をあえて望む。それもこれも、私に〈インクブス〉を授けてくれたあの人への忠義のため。あの人の名は……)
そこまで書こうとして、小説家は、はて、と首を傾げた。
自分に〈インクブス〉を授けてくれたのは誰だったか。しかし、それは些事というものだった。今するべき事はただ一つ。
ノア・キシベの夢≠ヨと介入し、彼女の中から奪うのだ。世界の敵、キシベの遺した何かを。