第一章 五節「世界の亀裂」
微かに響くのは雨音だった。額をしぱたたと叩き、鼓動のリズムと重なる。
ノアは突然闇の中に放り出されている自己を感覚の中に捉えた。闇の中で映写機のように映像が繰り返されている。
極彩色を放つそれにノアは触れた。その瞬間、映像が雨のように降り注いだ。そこでノアは気づく。先ほどから聞こえてくる雨音は近づいてくる記憶の足音なのだ。
振り返ると長い影が伸びていた。その影へと映像が染み渡っていく。ハッとしてノアは映像の中に埋没しようとしている自分の足元を見やった。ずぶずぶと落ち窪んでいく足元が崩れ、おぼつかない。手で空を掻いて必死に自己を留めようとする。しかし、その行動は虚しく、ノアの身体は影の中へと入っていった。誘われるように堕ちていく。影の懐へと。映像が激しく切り替わり、ノアの視界を染め上げる。
雨の音。影の染み入る冷たい感触。どこまでも墜落していく。ゆらりゆらりと風に煽られる凧のように。あるいは、遂に操縦という概念を失った航空機のように。
どこまでも、どこまでも。
その記憶の群れにいつもいるのは、自分と母親の姿だけだった。母親はまだ若々しい。だが、その眼はいくつもの悲しみを超えてきたような深い藍色が浮かんでいた。母親だけが自分の世界の中で攻撃してこない唯一の対象だった。他は全て自分を傷つける。
幼少期に母親からこういい聞かされた事がある。
――あなたのお父さんは立派なのよ、と。
だが、その時にはノアは嘘の香りというものが分かっていた。人と接すると嘘がどのように臭ってくるのか分かる。ただ母親の嘘は、他の凡百のような醜悪さを伴っていなかった。
母親の嘘は決死だった。自分を削り取ってもいい。ただこの言葉だけは真実にしたい、といった嘘だ。それは人生を切り捨てる時に人間が発する嘘の香りである。自分の人生はここまででもいい。この人に、あるいはある物事に賭けたい。そういった時にその嘘の臭いは帯びてくる。
ノアは新聞記者としていくつもの人生を踏み台にしてきた。
十歳成人法が施行されているカントーでは既に十歳から母親の勧めで新聞社に勤める事が出来た。他人の人生は踏み台。新聞記者はいちいち他人の感情に頓着していたら話にならない。大事なのは事実を歪曲し、どれだけ凡俗に面白そうに伝えられるか。それに尽きた。最初の三年は難関だった。
ノアはスクールを出たわけでも、公教育をきちんと受けたわけでもない。必ず「キシベ」の名が枷になる事を母親は知っていた。だが、その名を捨てなかったのは極彩色の嘘を自分で裏切りたくはなかったからだろうか。
ノアは自分の名が憚るべき名である事は分かっていた。母親の放つ言葉。「キシベ」という呪われた名前。そこに漂う切り詰めた感覚。ノアは生まれながらに自分が断崖に立っているのだという事は自覚していた。ぎりぎりの綱渡りをしている。
一歩間違えば真っ逆さまだ。どこまでも堕ちていくだろう。
「キシベ」の名に過剰反応する人間がいる事も分かっていたノアは名前という意識が希薄な新聞社に自分を売り込んだ。無論、それは間違えば自分がスキャンダルの渦中になるという事を知っての賭けだった。だがそれ以上に、実績を出せば「名前」は必要とされなくなる。実力で上り詰めれば強い。その事をノアは誰に教わるでもなく自分で知ったのだ。幸いにして世界の敵と自分を安易に結びつける人間は少なかった。
しかし、今となっては、とノアは感じる。
そんな日々の努力は無駄だったのではないか。自分は所詮、新聞社という盾の裏側に隠れていただけで、白日の下に晒されればなんと脆い。世界の敵の娘、という言葉に踊らされた大衆がこぞってノアを陥れようとする。ノアの人生を滅茶苦茶にしようとする。せめて、何とかできる力があれば、とノアは感じる。何よりも力を切望する。
この状況を打開する力。世界を一変させる力を。
その時、ノアを包む暗闇の中の一部が形状を伴った。濡れたような黒い羽を羽ばたかせ、どこまでも飛んでいく一筋の光。ノアはその行く先へと手を伸ばした。その先に光がある。どこまでも飛んでいける光が。
しかし、翼の主はノアを一顧だにしない。ノアは慌てて駆け出そうとすると、天地が転がり、暗闇を食らう何かが視界に現れた。長い鼻を持ち、小太りの身体がノアの領域である暗闇をむしゃむしゃと食い散らかしている。
――あれは何だ?
ノアが手を伸ばして喉から声を発した。
やめろ、と言ったつもりだったが、声にならずにしぼんでいく。巨大な何かはノアの暗闇を食んでにたりと笑みを浮かべる。ノアは怖気が走ったのを感じた。自分だけは繋ぎ止めようとする。
しかし、無遠慮なそれはノアの暗闇のみならずノアが内包する記憶まで食い始めた。ノアはカッと目を開いて制止の声を出す。しかし、ノアの声はあぶくのように消え去って声にならない。小太りな何かはノアの暗闇を飲み込んで大きくなっていく。ノアにはどうする事も出来ない。
戸惑ったその時、一筋の黒い流星がノアの視界を切り裂いた。流星が不定形でぶよぶよとしているそれを引き裂く。その攻撃に気圧されたように肉塊のようなそれが後ずさった。ノアは黒い流星を見やる。
いつまでも、網膜の裏側に焼きついたように離れない光。それは世界の亀裂のようだった。
ハッとして目を覚ますとノアは酷く寝汗を掻いていた。周囲を見渡し、次いで鼓動を確かめる。
「さっきのは夢……」
しかし、いやに生々しい感触を伴っていた。特に何者かに暗闇を、自分の領分を食まれる瞬間。まるで自分自身が陵辱されるような忌避があった。ノアは既に刑務所内が朝を迎えている事に気づく。それが分かったのは、鍾乳洞の合間にある高い天窓から光が差し込んでいたからだ。昨夜は天窓がある事など気づかなかった。あるいは、夜には閉まる仕掛けになっているのかもしれない。
「朝礼とかなかったの?」
ノアは慌てて飛び起きた。その途中、何かが視界の端に入ったような気がしたが、気にしている時間はなかった。モンスターボールを引っ掴み、ノアは朝食へと向かった。