第一章 四節「囚人番号666」
闇の中で目を覚ます。白熱電球がゆらり、ゆらりと揺れている。
眠りに誘うようなその動きは実のところ自分を覚醒させるための動きだと確信した時、ぬっと影がノアの顔を覗き込んだ。ぎょっとしていると、人影は看守の形を取った。女性看守が、「起きたか」と口にする。ノアは酷く喉が渇いている事に気づいた。
「水を……」
蚊の鳴くような声は自分のものとは思えなかった。鼻を鳴らした看守は、「それだけ言えれば元気なものだ」とノアから離れていった。
周囲を見渡せば、ノアだけではない。数人の囚人達が顔をつき合わせている。女子監房に向かうためか、女性のみだった。それが留置所に赴いた時を想起させる。あの時は小説家が話し相手だったが彼女はどうしたのだろう。胸の内から急に孤独感が湧いてきて、ノアは狼狽した。闇の中に取り残されたような感覚だ。
「重思想犯である貴様らは別々の監房に行ってもらう」
ここに居並んだ人々は、皆、重思想犯と判断された人々なのだろうか。彼女らの表情にはこの世の終わりのような翳りがあった。ノアは起き上がり、「ここは……」と声を出した。格子の嵌められた窓から見えるのは暗がりである。その中に人工物であると思われる明かりがぽつりぽつりと浮かんでいた。囚人と思しき人々が片手に手錠を嵌めながら生活している。鍾乳洞の洞窟をくりぬいたような生活空間はレンガ造りで統一されており、ところどころが凍りついていた。気づいてみれば、少し肌寒い。どうやら気温が随分と低いようだ。
「このコートを羽織れ」
ノアは手渡されたコートを見やった。「TWINS ISLAND」の文字が刻まれている。
「ここは、ふたご島……」
そうだ、とノアは思い返す。あの裁判の後、鎮静剤を打たれて自分は運び出されたのだ。海を渡った記憶はないが、状況から察するにここは既にふたご島刑務所なのだろう。
「その通り」
看守がてくてくと歩き、ノア達の前に立つ。まるで芝居じみたその仕草にこれは性質の悪い冗談なのではないかと思わされるが、片手に嵌められた手錠が冗談ではないと物語っていた。
「ここはふたご島刑務所。カントー政府直属の刑務所である。重思想犯、及び犯罪者はここで刑に服する事になる。ノア・キシベ。貴様には番号を振っていなかったな」
ノアが顔を向けると看守は蔑むような口ぶりで発した。
「貴様の番号は囚人番号666番。この番号が今日から貴様に与えられた名前の代わりだ。これを呼ばれればいついかなる時でも応答する事」
ノアが黙りこくっていると看守は顔を覗き込んできて、「返事は?」と促した。
「返事を要求する。666番」
ノアは、「はい」と頷いた。看守が周囲を見渡し、「この刑務所は」と続ける。
「カントー地方の法制度に則り、貴様らのIDを逐次管理する。左手首の手錠と貴様らが持ち込んだモンスターボールを見るといい」
ノアは腰のホルスターに無理やりつけられたモンスターボールへと視線を落とす。赤と白の球体ではない。黒いモンスターボールがそこにはあった。緊急射出ボタンの部位が黄色く縁取られている。何だ、と思っていると声が響いた。
「モンスターボールと所有者は常に同期され、刑務所のデーターベースに記録される。無闇にモンスターボールから出されて脱獄でも企てられたら堪ったものではないからな。モンスターボールから出せるのは一日に一回。一度戻せば再び繰り出す事は二十四時間を置かねば出来ない仕組みになっている。加えて、ポケモンの回復は一週間に一度だ。その時にメディカルチェック、及び所持品の審査を行う。特性が物拾いの場合、勝手に道具を拾ってくる場合があるからな。それを利用した囚人同士の物品の貸し借りは固く禁ずる」
つまりこの空間で自分は一日に一度しかポケモンを出せず、戻せば二十四時間の縛りを受ける。その事実以上に戦慄すべきは二十四時間あればどのようなポケモンでも暗に制圧出来ると言っているような刑務所側の物言いだ。畢竟、ポケモンを利用して逃げ出す事は不可能である。そう判断すべきだろう。
「ポケモンの特性、及び技を利用して脱獄を企てた場合、問答無用でボールをロック。所有者には罰則が待っている」
ポケモンを見せ合う事すら容易ではない、というわけだ。このモンスターボールは監視されている。その網を抜けるのは至難の業に思えた。
「言うまでもない事だが、テレポートの類の技でこの刑務所から出る事は不可能だ。一種のジャマーを張っており、ポケモンが発する念動力に呼応する性質を持っている。穴を掘って地道に抜け出そうとしても無理な事だ。何のためのレンガ造りだと思っている」
看守は囚人達の希望を言葉で一つ一つ潰しているように感じられた。そうやって踏みしだく事で絶望の色に塗り固められていく囚人達の様子を楽しむかのように。
「貴様らは思想犯だが、最初の一週間はこの刑務所でのルールに慣れてもらうため、同室の受刑者と共に生活してもらう」
そこから先は独房というわけか。ノアは独りごちて看守の後に続いた。看守はちらちらとノアを気にしている。キシベの娘である事は知れ渡っているだろう。監房の前に連れて来られ、室内へと顎をしゃくった。
「入れ」
言われなくとも廊下でうろつく趣味はない。看守がカードキーで牢獄の入り口を開いた。すると、中にいた人影がベッドの脇で身じろぎした。ノアへと顔を向ける。左手首には同じように手錠があり、バーコードが刻まれている。
その時、「あっ」と思わず声を出した。目の前の人物の事をノアは知っていたからだ。房の中にいたのは装甲車で運ばれる際に居合わせた小説家だった。しかし、相手のほうはそれと分かる仕草はしない。
「よろしく。ええと」
「ノア・キシベだ」
看守が補足してから、ノアを室内に押し込んだ。ノアはもつれ込むように房内に入った。
「仲良くするように」
看守はそう言い置いて離れていく。ノアが次の言葉を探しあぐねていると、小説家は周囲を見渡した。声を出そうとしたノアの唇へと、「しっ」と人差し指を立てる。小説家の眼は好奇の色で満ちていた。装甲車内で見たのと同じだ。
「幸運ね」
小説家の言葉に、「幸運?」と尋ね返した。
「どうして」
「一日違いで私とあなたは同じ房に入れたんですもの。それって幸運じゃない?」
一日違い。その言葉が妙なしこりとなった。確か、刑務所での生活に慣れるために同室の人間と寝食を共にするのではないのか。だというのに一日違いはおかしい。ノアがその可能性に思い至った事を察知したのか小説家は、「魔法を使ったのよ」と口にした。
「魔法?」
時代錯誤な言葉にノアは目を丸くする。小説家は、「そう」と歌うように言葉を発する。
「まだ言えないけれど、私を観察する人間には私がずっとこの場所にいたように錯覚している」
まさか、とノアは言っていた。そのような事は不可能ではないか。しかし、小説家は肩を竦めて、「不可能を可能にするのが」と誇り高く声にした。
「フィクションの仕事よ。あなたにもいずれ分かるわ」
小説家は意味深な笑みを浮かべる。ノアは怖気が走ったのを感じて二段ベッドに歩み寄ろうとすると、「下は私」と小説家は椅子に座りながら声にした。
「あなたは上。私の言う事には従ってもらうわ」
「そんな権利――」
「あるのよ。私には」
遮って放たれた声の持つ説得力にノアは気圧された。何かがぐるぐると自分の中に入り込んで脳髄をかき回す。視界が一瞬だけ暗転すると、ノアは素直に頷いていた。
――そうだ。小説家の言う事は絶対だった。
「忘れていたわ。ごめんなさい」
ノアの言葉に、「分かればいいわ」と小説家はふふんと鼻を鳴らした。