第一章 三節「堕とされた場所」
ノアは留置係に連れられて弁護士の待つ面会室へと向かった。
面会室にはガラスで隔てられた壁がある。その向こう側に弁護士が座っていた。何故分かったかといえば、襟元に輝く弁護士のバッジのせいだ。それ以外にも仕立てのいいスーツや、清潔感漂う顔立ちに整えられた頭髪は将来の約束された職務を連想させるには充分だ。
ノアは留置係に引き連れられて椅子に座った。手錠はかけられたままだ。
「ノア・キシベ。君の起訴を新聞社は認めたよ。書類送検され、保釈は却下された」
つまり勤め先はノアを見捨てたという事だ。今さらの事実に、ノアは飽き飽きしたように、「それで?」と尋ねていた。
「ショックはないのかい?」
「ショックがあるとすれば」
ノアは弁護士を指差した。
「あんたがフルネームであたしの名前を呼んだ事だ。二度とその名前で呼ぶな」
「失礼。ノア」
弁護士は少しも悪びれる様子もなく、手を振って応じた。
「私は君を一個人として評価している」
「だったら、その名前で呼んだ事をまず謝罪してもらおうか」
「悪かったよ。気分を害さないでくれ」
心の底では一欠けらもそんな事は考えていないのだろう。嘘の臭いを嗅ぐまでもなく、薄っぺらい言葉だという事は窺えた。
「私としてはノア。裁判までの時間、君の無実を証明する手立てが欲しい」
撫で上げた髪に手をやって弁護士が言葉を発する。どれもとんだ詭弁に思える。
「あたしの無実を信じているとは思えない」
「君のためなんだ。思想犯が裁判において有罪になる確率は八割を超えている。出来るだけ大人しくしている事をお勧めする」
「あんたに勧められるまでもなく、あたしは大人しくしている」
ノアは手錠がかけられた手を掲げる。弁護士はため息をついて、「頼まれていた着替えや、その他諸々を持ってきた」と留置係に目配せした。留置係が荷物を持ってくる。ノアの私物だった。
「君はまだ思想犯で捕まっているだけだ。当然、着替えたりする自由はあるし、権利は保障されている。今のところはね」
今のところは、という事はこれから脅かされる心配があるという事だ。何一つ好転していない事をノアは理解した。私物の中にノアは異質な物を見つけた。ポケモントレーナーならば誰もが持っている赤と白のカラーリングが施された球体だ。中央には緊急射出ボタンがある。
「これは?」
ノアが顎をしゃくって示すと、「君の母親から預かってきたんだ」と弁護士は告げた。
「もし、こんな事は私のプライドにかけてあってはならないが、最悪の場合、ふたご島刑務所に投獄されるとしたら、君は手持ちを持っていなければ不利に働く。それを君の母親に話したところ、ずっと君に隠して育てていたポケモンが一体だけいると言っていた」
ノアはモンスターボールを手に取った。天井の明かりに翳すと中にポケモンが入っているのが分かる。濡れた黒い羽を持つポケモンだった。頭部は魔女の帽子のようになっており、黄色い嘴を持っている。眼は落ち窪んでおり、眼窩の奥で赤い光がちらちらと映る。亡霊が鳥の姿を取ったようなポケモンだった。
「ママが、あたしに隠れて、このポケモンを? どうして?」
「君の父親から預かったものらしい」
その言葉にノアは瞠目した。
「何だって? 父親? つまり」
「そうだ。キシベ。彼が育てていたポケモンの一体だ」
「そんなもん――」
ノアが投げ飛ばそうとすると、「よすんだ」と弁護士が制した。
「必要になってくる」
「いらないよ。しかも、世界の敵が育てたポケモンなんて、持ち込んでいいのか?」
自分で言い放って自嘲する。世界の敵、キシベ。それが育てたポケモンなど重要な証拠物件なのではないのか。
「既に国際警察は調べたよ。その上で君に渡す事が了承された」
「つまり、どういう事?」
「それは脅威ではない、と判断されたんだ」
弁護士は両肘をついて落ち着き払った様子で答える。ノアには意味するところが汲み取れずに聞き返した。
「脅威、ではない?」
「キシベの手持ちはまだ不明な点が多いが、キシベ自身にはポケモントレーナーとしての才覚はほとんどなかったと推測される。これはヘキサの団員やロケット団員達の証言を擦り合わせた結果だ。そして、君の母親の言葉でもある。主人はほとんどポケモンを育てる事はなかったと」
「あのクソッタレをママはまだ……」
歯噛みしてノアは口走る。弁護士は一つ頷いた。
「ああ、愛しているそうだよ。それは君が一番よく知っているはずだろう?」
ノアは思い返す。いつでも母親はキシベの影を追っていた。キシベにはカイヘンでのヘキサ計画を推進する前に捨てられたというのに、いない人間にいつまでもすがっていた。
「ママは、あいつに騙されたんだ。言葉巧みにあいつに惑わされて、あたしなんて産んで……。だから捨てられた」
「世界の敵に君達親子を憐れむ気持ちがあったかどうかは判断しようがないが」
「あったってこっちから願い下げよ」
弁護士の言葉をノアはその一言で切り捨てた。弁護士は息をついて再びモンスターボールを見やる。
「入っているポケモンの詳細データはこちらにある」
弁護士は一枚の紙を取り出した。詳細な種族値のデータと覚える技、特性、性格などのデータが羅列されている。
「このデータは?」
「言っただろう。国際警察が調査済みだと。そのポケモンのデータを君は知らねばならない」
「必要があるとは思えない」
「私からしてみれば、君は危なっかしい。手持ちの一匹くらいは持っていたほうがいいと思う」
「警告のつもり?」
ノアがモンスターボールを置いて目を向けると、弁護士は首を引っ込めた。
「忠告のつもりだよ」
この弁護士の双肩にふたご島刑務所行きになるか否かがかかっているのだ。何年投獄されるか分かったものではない。ノアは慎重に言葉を選ぶ事にした。
「……このポケモンは?」
「ヤミカラス。悪・飛行タイプのポケモンだ。能力値は正直言って低い。だからこそ、脅威ではないと判断されたんだろうがね。もし、最悪の想定になるが、ふたご島刑務所行きが確定した場合、手持ちが必要になる事は」
「聞いている」
遮ってノアが答えると、弁護士は、「結構」と首肯する。
「甘ったれた考えではたとえ刑期が一、二年でも命を落としかねない。手持ちは持っておくに越した事はないんだ」
「あたしは無罪でやれと言っている」
ノアは弁護士を睨みつけた。弁護士は肩を竦めて、「その方向でやっているさ」と応じる。
「だがね、ノア。事はそう簡単ではないんだ。君が暴いた中堅議員、セキエイ高原の高官だ。政府中枢に組み込まれている人間の暗部を暴こうとしたんだ。それなりのしっぺ返しがくるのは当然だろう。それに、相手は君のスキャンダルのほうで自分のスキャンダルを揉み消せると感じた。事実、そうなんだ。世界の敵の娘。それだけでメディアを半年間は潤し続ける事が出来る」
「あんたの懐もか」
ノアが皮肉を口にすると、「落ち着くんだ」と弁護士は諭すように口にした。
「いいかい、ノア。君は君が思っている以上に注目を集めている。恐らくは最悪の方向に。メディアはこぞって君の顔写真や生い立ちを調べている。もちろん、思想犯というのはでまかせだと言えば済む話だが一度出た噂話は簡単には引っ込められない。新聞記者であった君ならば充分に分かっていると思うが」
分かっている。問題なのは事件の火を大きく見せる事だ。大胆に、なおかつバックボーンは繊細に。最初は炎を見せて大衆を圧倒させ、鎮火した焼け跡から様々な遺物を掘り出す。火事場泥棒にやり口は近い。下衆とも言えるやり方が依然として行われている事をノアは理解している。それが最善である事も。
「あたしは、冤罪なんだ」
ノアは拳を叩きつけたかったが留置係の手前、それは果たせなかった。弁護士は取り成すように口にする。
「分かっているとも。君は無罪だ。だけどね、ノア。罪は認めたほうが軽くなる場合があるんだよ」
その言葉にノアは顔を上げた。弁護士は柔らかな微笑みを浮かべながら同じ調子で話す。まるで音程の狂った蓄音機から漏れ出す雑音のようだった。
「あたしは、無罪だって――」
「それを理解した上での話さ。君はきちんと法の下で平等である事を世間に分からせる。だけど、そのためには一度法廷に出なければならない。今の君の態度では陪審員の反感を買うだけだ。ここは一度、謙虚に自分を見つめ返すべきなんじゃないかって思っている」
「謙虚って……」
やってもいない事をやったというのが謙虚だというのか。それは自分を裏切る行為に他ならないのではないか。
「法廷に出て、今の君に世間はどう感じるか、どう思うか、想像を巡らせる事は難しくないはずだ。新聞社に務めていた、聡明な君ならば」
「聡明、だと」
そんな言葉で取り繕えると思っているのか。しかし、弁護士は真に迫った様子で言葉を吐き出した。
「いいかい? 今のままでは君は世界の敵の娘だ。思想犯というレッテルを貼られている今の君では無実を勝ち取る事は難しい。だが、少しだけ謙虚に考え方を変えてみよう。ほんのちょっぴり、ベクトルを変えればいい。こう言うんだ。『私はふたご島刑務所に送られても仕方がないような事をした』と」
「罪を認めろって? そんな。話が違う!」
暴れ出そうとしたノアを留置係が肩を引っ掴んで座らせた。その手を振り解き、「あたしは」と主張した。
「何もやっていない。ママとただ、静かに暮らしていただけ」
「その言い分は許されないんだ。ノア、君が暴いた闇は予想以上に深い。新聞社は君の起訴を認めた。もう君には帰る場所はない」
「ママのところなら」
「その母親を苦しめるのは他ならぬ君自身だ。君がただ一言でもいい。自分の罪を悔い改める姿勢を見せるのならば、結果は随分と違ってくるだろう」
やってもいない事の自白まで迫られている。ノアは逃げ場所がない事を悟った。この弁護士とて味方ではない。世間の、世界の味方ではあってもノアの味方ではないのだ。母親の下に帰っても何の幸福も得られないとこの弁護士は説く。ならば、どこに向かえばいい? 政治家の暗部なんかに首を突っ込んだ自分が悪いのか。全ての責任は自分にあると、そう言えばいいのか。
「あたしは、でも……」
それでも全ての罪を被るとは言えない。その迷いの胸中を察したように、弁護士が言葉を降りかける。
「ただ一言でいいんだ。それだけで印象がガラリと変わる。罪を認める謙虚な姿勢、それで議員の腹も収まるだろう。ふたご島刑務所への移送は変えられないだろうが、刑期を短くする事ならばいくらでも出来るんだ。ノア。一年で出たいか、それとも十年過ごしたいか、決めるのは君の言葉次第なんだよ」
自分はそれほどの罪を犯したというのか。そんな自覚などない。ただ新聞記者として、真実を求めただけだ。その結果がこれだというのならばなんと残酷な事だろう。
「あたしは、何もしていないのに」
「何もしていない事はないだろう。責任能力も充分にある。君の勤めるタマムシ新聞社はスキャンダルの種になった議員への謝罪文をきちんと掲載したし、あとは君次第なんだ。君が認めるか否かで、この事件の行方は百八十度違ってくるだろう。一言で変わると思えば、そんなに難しい選択ではないはずだよ」
弁護士の言葉にノアは額に汗が浮かぶのを感じた。視界がぐらつき、声を出そうとしても言葉が呑み込まれて消え失せる。この場では自分の意思ほど、無駄なものはない。ノアはヤミカラスの入ったモンスターボールを握り締めた。これがたった一つの希望ならばこれにすがるしかない。キシベにすがり続けた母親のように、自分もまた憎い父親の幻影にすがるしかないのだろうか。ノアはきつく目を瞑った。
陪審員の視線が矢のように突き刺さる。
それは自分の情報をかねてより知っているからだろう。容疑者の情報はメディアがこぞってやりたがる。たとえ罪を認めていようといまいと、刑に服していようがいなかろうが関係ないのだ。
メディアとはそういうものだし、ノアは自分もメディアの一端に属するものとしてそういうものが現実だと割り切ってきた。自分も何度か他人の人生をどん底まで落とした事がある。その時に自分に罪の意識があったかと問われれば、全くと言っていいほど存在しておらず、澱んだスキャンダルの渦中にある人物達をさらに奈落の底に突き落とす事しか考えていないハイエナのようなものだった。
陪審員達が目配せして声を潜める。何を言っているのかは大体分かる。あれが世界の敵の娘、悪の娘、と噂しているのだろう。
ノアは凛とした顔立ちで裁判長を見据えた。老練した裁判長は咳払いの後に、「開廷します」と宣言した。
「被告人、ノア・キシベはナカゾネ議員への中傷文書に対する賠償責任、及び謝罪責任の能力があると聞いていますが」
いかがですかな、と裁判長が尋ねる。弁護士が、「その通りです」と応じた。陪審員の視線がノアへと向けられる。ノアは頷いた。
「はい。とても悪い事をしたと、思っています……」
自分の身体から漂う嘘の臭いがどぶ川のようだ。鼻につんと突き刺してくる。ノアは醜悪な香りに顔をしかめる。
「検察側は」
裁判長が目を向ける。検察官は背筋を伸ばして答えた。
「被告には罪を認める能力があり、責任能力も充分にあると考えます。であるからして、全くの無罪放免というわけにはいきません。カントーの中核を担う人間を中傷したのです。当然、裁きは受けるべきだと考えています」
それは弁護士と事前に示し合わせた事だった。検察はノアに求刑を突きつけるだろう。ノアは何も言ってはならない。この裁判は全て自分に任せて欲しい、と弁護士は提案した。ただし、全てを任せたとは一言も言ってはならない。何らかの圧力に屈したのではなく、ノアは自分の意思で罪を受け容れたのだと答えなければならなかった。
「ノア・キシベ」
裁判長が呪われたその名を呼ぶたびに吐き気を催すがノアは黙って聞いていた。
「被告人は、全ての罪を認め、タマムシ新聞社への謝罪と、ナカゾネ議員への謝罪と賠償責任を認めますか?」
神父に告白しているような気分に襲われる。自らの罪を暴いて欲しいとでも言うような。ただこの場で裁かれるのはあくまで新聞記者としてのノアだ。世界の敵の娘である「ノア・キシベ」ではない。その事は弁護士と話し合っている。この場ではノアの出自に関する裁きは一切行われない。それは無関係な出来事だ、と。
「……認めます」
逡巡の後にノアは頷いた。裁判長は腕時計を見やる仕草をしてから、わざとらしく咳払いする。
「ではノア・キシベは原告の求刑通り、タマムシ新聞社を更迭し、一年から二年の実刑判決を行う事にしますが、多分に責任を感じている事から情状酌量の余地があると判断し――」
こればかりは仕方がない。一、二年で済めば幸運なのだ。ノアは俯いてその言葉を聞いていた。
「しかしながら裁判長、進言がございます」
その言葉にノアは目を見開いて顔を向けた。その言葉を発したのが検察官ならばまだ分かる。陪審員でもいい。だが、その言葉の主はあろう事か自分を弁護する弁護士のものだった。
「彼女は、政府中枢を混沌の渦に落とし込んだ巨悪、キシベの娘です。情状酌量の余地は必要がないかと存じます」
何を言っているのだ。ノアは喉から声を漏らそうとしたが、心得たように検察側が手を上げる。
「我々もそう考えております。むしろ一、二年程度では軽い。我々検察官は、被告を二十年の実刑判決に処すべきだと考えております」
「何を……」
ノアが言葉を発しようとすると、弁護士は深く頷いた。
「既に被告との確認は出来ています。異議はない、と」
「待て。待ってよ。あたしは、そんな事、一言も――」
「では、判決を言い渡します」
裁判長の宣告が音と共に重く響き渡る。ノアは心臓を鷲掴みにされた感触を味わった。
「被告人、ノア・キシベを、社会に影響を与えうる重思想犯としてふたご島刑務所にて二十年の実刑判決に処する」
閉廷、と声が響き渡り、ノアは現れた警護班の人間に後ろ手に手錠を組まされた。身をよじりながら、「これじゃ……!」と声を出す。
「弁護士! これじゃ、話が……」
「私の仕事はここまでだ。君の刑務所生活が快適である事を祈るよ」
そう言い置いて弁護士は去っていった。その背中へと声を荒らげる。陪審員の一人が、「おお怖い」と口にした。
「やっぱり世界の敵の子供なのね」
「やはり刑務所に閉じ込めておかなければ」
ノアはこの裁判自体が茶番である事を察した。これは張りぼての裁判だ。全てはノアを刑務所に繋ぐための手続きだった。世界の敵、キシベの娘を捕らえるための。
「そんな、そんな……!」
ノアの声は聞き届けられる事はなかった。陪審員や裁判員達がひそひそ声を交わし合う。ノアは自分が堕ちていくのを自覚した。信じていた現実が脆く崩れ去り、全てが真っ暗な闇の彼方へと消えていった。