第一章 二節「神聖な名前」
装甲車から出て並んでいた時だった。小説家が逃げ出したのは。
小説家は何やら叫びながら身をよじらせている。その言葉の一部が聞き取れた。
「書けないのはイヤ! 私に、もう一度だけ書かせて!」
聞いていられないのか、並んでいた思想犯達の中には耳を塞ぐ者もいた。
ノアは周囲を見渡した。セキチクシティはサファリパークがあっただけあって、観光地としての特色が強い。そこいらに柵があり、中には茶色い毛並みを持った全身これ筋肉と言ったような四足のポケモンが長い尻尾を振って鳴き声を上げている。ノアにはほとんどポケモンの知識はない。だから何のポケモンなのか分からなかった。角を有しており、攻撃的な姿に見える。
他の柵には全身がピンク色のポケモンが長い舌を垂らして地面を舐め回している。時折、思い出したように舌を口の中に仕舞い、地面をくんくんと嗅いでまただらりと舌を出す。何かのサインなのだろうか。ノアには分からない。
「ベロリンガだ」
思想犯の誰かが口にした。ピンク色のポケモンを指差している事から、そのポケモンがベロリンガという名前らしい。珍しいのか、笑いが浮かんでいる。その笑顔を国際警察の一喝が消し去った。
「貴様ら! ここは動物園ではないんだぞ!」
そんな事は言われなくとも分かっている。いや、逆に考えて、ここには新たなサファリパークが設けられたと言えよう。展示されるのはポケモンではない。思想犯という人間達だ。柵の内側に囲み、彼らを眺め回すのはポケモントレーナーではなく、国際警察官である。その中の一人が歩み出し、「前へ、前へ」と思想犯達を促した。
ノアは歩み出す。先ほどの小説家は別のルートで留置所に入れられそうだ。鎮静剤を打ち込まれたのか、痙攣して大人しくなっている小説家を物のように担いで国際警察官達が車の中にぶち込んだ。間もなく車が発進してノア達が歩いて目指している施設へと走っていく。ノアは首を伸ばして施設の全貌を視界に入れた。
旧サファリパークはその昔、子供達で賑わったという。今はその見る影もなく、一度パルパークと名前を変えた施設は最終的には名前を剥奪された。
名前のない施設には、思想犯達が次々と投獄されていく。ここで刑が執行されるのを待つのだ。留置所としての役割が与えられていた。それと同時にここは裁判所でもある。行政機能を持つ首都がヤマブキシティ、その隣が大学を有する学園都市であるタマムシシティ。ここは司法を任せられた街だ。セキチクシティはその実、最も残酷な役割を課せられていると言ってもいい。
「ここに入ってもらう」
国際警察官に促され、ノアは個室に入った。鉄柵の牢屋だ。外のポケモン達を思い出す。彼らと何ら変わりはしない。管理され、生きていく。
ノアがキシベの娘だと知っている者達とは意図的に離されている。もちろん、彼らは装甲車内の話を一部始終聞いている。
「ノア。三十分後に弁護士と面会だ」
思想犯とはいえ弁護士をつける事は出来る。母親が便宜を図ってくれたのだろう。そうでない思想犯もいるのだ、と思うとやるせなかった。
「靴を履き替えろ。サンダルだ」
とはいえ、扱いは他の思想犯と変わらない。ノアはサンダルに履き替えて、部屋を見渡した。殺風景な部屋でトイレと椅子、ベッドしかない。椅子は木製の簡素なものだった。
――これが豚箱って奴か。
ノアは客観的にこの事柄を見つめている自分がいる事に驚いた。今まで幾度となく他人をここに蹴落としてきた自分がいざここに入るとなるとどうしてだか心静かだ。場合によっては裁判沙汰になった事は何度もあるし、訴えられた事もあるが会社が庇ってくれた。ノアをキシベの娘だと安直に結びつけるような輩はいなかったのが不幸中の幸いだったか。
そう考えれば今回、ノアを思想犯だとリークした相手は頭が回っていなかったのか。あるいはキシベの娘だという確証があったのか。それはまだ分からない。ノアはベッドに寝転がった。しばらく何かを考えようとしていると、「おい」と呼ばれた。ノアが起き上がり、鉄柵を掴むと、「お前、さっき留置係が話しているのを聞いたんだが」と野太い女の声が聞いてくる。
「冤罪なんだって?」
「誰が言っていたの?」
「何でも猥褻な小説家と装甲車内で随分と盛り上がっていたそうじゃないか」
猥褻書籍だったのか。小説家は社会的な事を言っていたが、所詮その程度の人間だったという事か。いや、それとも無理やり書かされたのだろうか。考えかけて、どうでもいい、と捨て去った。
「盛り上がってなんていないわ。向こうが勝手に盛り上がっていただけよ」
「何だ、随分と白けているな」
女の声は笑い声に変わった。他の声が連鎖する。どうやらここは女だけらしい。留置所とはいえ、男と女は混合しないのだろう。ノアは服装を見やった。華美な服飾や、ひも類は入る前に没収されるが、ノアの衣服には何も没収されたあとはなかった。赤色のダッフルコートを着込んでおり、下には簡素な衣服を着ている。まだ季節は秋口だが少し肌寒い。
「面白い話なら他所で聞くといいわ。あたしには何のネタもないから」
「ネタがないとは。言うねぇ」
何やら感心したように女は笑い声を上げた。「わたし達に」と女は続ける。
「ネタがないなんてありえないじゃないか。ネタが上がったからここに収監されているんだろ」
確かに言う通りなのかもいしれない。探られて困るネタがなければ、この場所に拘束される事などありえない。
「冤罪になったってんなら、その虚偽さえもネタの一つ。どういう罪でしょっ引かれたわけ?」
「ここにいることが罪だってさ」
ノアは醒めた仕草で髪をかき上げた。女はノアの言葉をはかりかねたのか、「どういう意味だ?」と問い返す。
「知らないわ。それはこれから明らかになるのかもね」
思わせぶりな言葉に、「そんなご大層なものかね」と女は口にする。
「わたしらの罪なんて決まっているだろ。思想犯だ、思想犯。今のカントーじゃ、それがまかり通るんってんだから不思議だよ」
「聞かれるよ。留置係に」
忠告に対して、「聞きゃあ、いいさ」と女は答えた。
「さっきの小説家みたいに取り乱すのが一番いけない。落ち着いて状況を俯瞰する。それが大切だと思わないか?」
「一理あるわね」
ノアの言葉に満足したのか、女は笑った。
「物分りがいいな。名前は?」
「ノア」
名乗る事はない、と思ったのだ。
「ノア、ね。もし、ふたご島の刑務所に入る時になったら話そう」
ふたご島刑務所。それはセキチクシティから一時間ほどの沿岸にぽつりとある自然の島だ。
そこからさらに何キロも離れた活火山の噴火によって崩壊した海上都市、グレンタウンの住民やジムリーダーが一時期避難していたが、ジムリーダーに挑戦するトレーナーの増加によって生態系が崩れる恐れがあるというので、グレンタウン復興と共にふたご島の処遇についてはカントーのお歴々の間でも意見が分かれていたが、一番の解決策として生態系を取り戻す事が上げられた。
しかし、一度崩れた生態系は戻るのに十年も二十年も要する。だからこそ、人間の手でコントロールすべきだ、という派閥の主張により、ふたご島は人間の手が介在する事になった。
ただ、生態系を元に戻すためだけに市民の血税を注ぎ込むわけにはいかない。そこで絶海の孤島であるふたご島を刑務所化する事が決定された。ウィル隆盛時の事である。ふたご島は五年かけて逃れる事敵わない牢獄へと変貌した。ふたご島刑務所の内部は防犯上決して明かされる事はない。今まではテレビなどのメディアの潜入も頑なに断ってきた国営機関だ。
「ふたご島刑務所に行くんなら、手持ちはあったほうがいい」
女が忠告する。ノアは言い返した。
「ポケモントレーナーじゃない人間がほとんどよ」
「それでも、この留置所から刑務所に送られる際に、ポケモン一体の所持のみは許される。自分の身は自分で守れって事だ」
「ふたご島はそんなに劣悪な環境ってわけ?」
ノアの質問に女は憚るように小声になった。
「野生がうろうろしている。それに、だ。受刑者同士の小競り合いにも、ポケモンが使われる」
「刑務所の中でポケモンバトル? 賭ける物もないのに?」
ポケモンバトルはアマチュアトレーナーでもプロトレーナーでも金銭を賭ける。しかし、当然の事ながら刑務所の中で金銭を集めたところで何になるというのだろう。
「それがあるんだよ。賭ける物が」
「へぇ、何?」
「金と命だよ」
放たれた言葉にノアは少し面食らったが平静を保って聞き返す。
「そんな物騒な事が」
「まかり通るのが、今のカントーなのさ。金を集めて看守に積めば、刑期が短くなる。そうじゃなくっても金はいるんだ。絶海の孤島、アルカトラズのふたご島といえども、そこで生活するにはルールがある。金はそれを円滑に回すためのルールさ」
「随分と詳しいのね」
ノアが女の言葉にそう返すと、「まぁな」と女は何かしら腹に一物抱えた様子で答える。
「わたしは二度目だからな。あの地獄を、一度体験している」
その口調に嘘の香りはない。この女は本当の事を言っている。体験談を話している。ノアは気になったので尋ねる事にした。
「地獄、って」
「まず野生ポケモンとの戦いを常に強いられるのが地獄だ」
女の声には憔悴が混じっていた。既に戦いを経験しているのだろう。「あそこのポケモンはレベルが高いんだ」と続けられた。
「だから、必然的に弱いポケモンは育たない。いや、育てられない。言っておくと、ポケモンの回復は一週間に一度。だから出来るだけ交戦は避けなくてはならない。そうじゃなきゃ、いざという時にポケモンが使えないんじゃ、金も巻き上げられるし、命にかかわる」
「つまり、必然的にどの受刑者もレベルの高いポケモンばかり、というわけね」
「物分りがいいな」
話の辻褄を合わせればそういう事になってくるだろう。この先に、半端なレベルのポケモンは持っていけない。それは死に直結する。
「あなたの手持ちは?」
「この留置所に来る前に取り上げられちまった。でも、かなり育て上げられている。問題を起こさなければ、そのポケモンがわたしに支給されるはず」
「誰が支給するの?」
「弁護士だよ。あいつらとの面会時にポケモンが手渡される。天涯孤独の身でもなければ、家族がポケモンを渡してくれるはずだよ」
「あたしはポケモンを育てた事がないんだけれど」
「マジなのか、それ」
女が鉄格子を掴んでガシャリと身を乗り出す。それでもノアの方角からは女の姿は見えなかった。覚えず、と言った様子の女の態度にノアは気後れしながら、「ええ」と頷く。
「本当よ。大マジ」
「それは少しばかりまずいな」
女はうんうんと考え込んだ。何がまずいというのだろう。
「そんなに大層な事なの?」
「当たり前だろ。元々、新人トレーナーが生き残れる場所じゃないんだ。ふたご島は。それがさらに監獄になって、野生ポケモンだけじゃない、受刑者まで相手取らなきゃいけないんだ。少なくともわたしなら絶望的状況と見るね。ポケモンを一度も育てた事がない、って言ったよな。それってさ、かなりまずいんだと思うんだよね」
それほどなのだろうか。ノアにはまだ実感がない。それに、まだふたご島刑務所に入れられるとは決まっていないのだ。
「まだ刑務所に入るとは決まっていない」
「そうだけどさ。最悪を想定するのは常にしておくべきなんだって。もし、ふたご島刑務所に入ったとして、生き残れるか、またはすぐに死ぬか否か。その見極めも出来ないようじゃ、この先、生きていけるかどうか分からない」
「でも、あたしは冤罪だ」
「だったら、弁護士と裁判官にせいぜい媚を売っておくんだな。そうじゃなきゃ、破滅だ。いや、このセキチクの留置所に来た時点で、ノア、って言ったか、あんたには破滅が待っているんだよ。思想犯としてマークされたら、今のカントーじゃまともな裁判もない。ふたご島、アルカトラズにぶち込めってな。一度ぶち込まれたら、刑期終了まで絶対に抜け出す事はできない。地獄ってのはああいう事を言うんだよ」
見てきたような言い草だが、見てきたのだろう。だが、自分とて地獄に相当するような境遇を辿ってきた。今さら、地獄にびくついてはいられない。
「あたしは無実なんだ」
「それはもう聞いたよ」
「だから、ふたご島刑務所なんてあたしには関係がない」
「それを決めるのはあんたじゃない。弁護士や裁判官だ。もっとも、奴らが平等に裁判を行うかどうかは、分からないがね」
その言葉に抗弁を返そうとした時、留置係の声が響き渡った。
「留置番号35番、ノア! 37番、イシス! 格子窓から両手を出せ! 弁護士との面会だ」
ノアは立ち上がって格子窓から両手を出した。同じように牢獄から先ほどまで話していた女が手を出す。どうやらイシスという名前らしい。鉄格子に歩み寄ると、その姿が見えた。ベリーショートの金髪で片方の目元に下弦の月のような刺青がある。碧眼が湖畔に浮かんだ月のように映った。背格好からノアよりも年上なのは明らかである。
「カントーの生まれか? お前、眼も髪も黒いな」
イシスが尋ねる。ノアは留置係に手錠をかけられながら頷いた。
「みたいなものね」
「わたしはイッシュの生まれ。カントーには随分と前に越してきたから、まぁ、育ちはカントーみたいなもん」
「私語は慎め」
留置係の言葉に二人は黙りこくった。しかしイシスは一言だけ呟いた。
「ノアって珍しい名前だな」
「ママがつけてくれたのよ」
牢獄から留置係に連れられて二人は歩み出した。ひそひそ声で言葉を交わし合う。
「神聖な名前だな」
「分かるの?」
「わたしはアルセウスがこの世を創ったってのが信用出来ないから、色んな宗教を知っている」
アルセウス教というものがある。創造神アルセウスのタマゴが常闇に存在し、そこから生まれ出でたアルセウスという一体のポケモンより宇宙は創造されたというシンオウの神話だ。それに基づいた宗教団体で、教祖は少女なのだという。
「その中に洪水伝説の神話がある。でもこれは、あまり一般には流布していない。アルセウス教が強いし、そうじゃなければ、神様っていう曖昧なものを信仰する人々があとをたたないから、様々な原始宗教に肉付けされて宗教は作られる」
「驚いた。神様信じているの?」
イシスの言葉遣いからそういうものとは縁遠いのだと勝手に想像していた。イシスは眉を上げて、「心外だな」と呟く。
「わたしだって神様は信じるさ。でも、ふたご島監獄に入れられた時、本当に祈ったのはアルセウスなんかじゃなかった。それだけは言える。だって、モンスターボールに入る神様なんて、神様じゃないだろ」
――モンスターボールに入る神様なんていないのよ。あの人はいつもそう言っていた。
唐突に頭の中を過ぎった声にノアは片手を上げて額を押さえた。イシスが顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫。そうね。あたしだってアルセウスが絶対神だとは考えた事がないわ」
「そうだな。その中の、洪水伝説に善良なる人間としてノアの名前が出てくる。神様に選ばれた唯一の人間。その血縁者と動物のつがいを方舟に乗せて地球を襲った大災害である洪水から守ったとか」
「夢物語よ」
ノアがばっさりと切り捨てると、「だな」とイシスは首肯した。
「少なくとも、これから向かう場所に信仰なんて持ち込むなって話。信じる者は救われるだとか、信仰を捨てなければ希望はあるとか、そういう嘘っぱちを信じ込むようなおめでたい奴は、きっと真っ先に自滅する」
「この世界に、神なんていないわ」
ノアは手錠がかけられた自分の手を眺めた。確認するように呟く。
「神様なんていない」
「それはわたしも同感。神様がいるとしたら、そいつは意地が悪いよ。人間の言葉を乱して混乱させて、気紛れで大洪水を起こして、ポケモンなんて生み出した。相反する二つの種族が生きるこの世界は、決して正解だとは思えないね」
「なに、ポケモン否定主義者?」
たまにこういう手合いが存在する。
この世界にはポケモンなど最初はいなかった。誰かが認識した瞬間から、それは誕生した。それは認識によって存在を確立させ、認識によってそこに「在る」事を許された。
つまり人間の認識がポケモンを形作ったとされる学説だ。そうだとするのならば、人間がいなければポケモンはいなかった事になる。この学説を裏付ける内容としては、ポケモンが一種類発見される度に、それまでの生態系を構築していた生物が一種類絶滅するという仮説がある。
しかし、誰もその仮説を実証する事が出来ない。何故ならば、その仮説が発表された時には、絶滅したとされる動物を誰一人として覚えていないからである。公文書からも消え失せたその生物の存在を保証するものなど何一つない。
この世界とは何なのか。もしかすると、この世界はポケモンという存在のために歪められた世界なのではないか。そのような考え方を持つ人間をポケモン否定主義者という。ノアも何度か取材を行った事があるが、彼らの話を聞いていると頭のねじが何本か飛んでいるのではないかと思う。地に足が着いているとは到底思えない考え方だからだ。
「そういうわけじゃないけれど、でも、ポケモンってどこから来て、どこへ行くんだろうね」
「哲学は牢獄でやるものだとは思えないわ」
「かもしれない。投獄された哲学者なんて歴史上たくさんいるけれど、どれもまともな末路を辿っていないよ」
イシスが微笑んだ。二手に分かれる道があり、ノアは右に行く事になった。
「じゃあな。幸運を祈るよ」
「あんたもね」