ポケットモンスターHEXA NOAH











小説トップ
惡の娘
第一章 十節「キキ」

〈インクブス〉とは夢魔、つまりは悪魔の名前だ。

 小説家はそう語った。男型の夢魔を〈インクブス〉と呼ぶとされている。

「スリープなんていう種族名で呼ぶのは他人行儀でしょう? 私はこの世でたった一つの名前をつけてあげたわ。〈インクブス〉。まさにこの子に相応しい」

 夢を食い散らかし、他人の認識を操る夢魔の名前を冠したスリープは最早ノアの眼には明確に映っていた。

 スリープは見つからないのが不思議なほどに頻繁に出歩き、気づけば誰かの傍に近づいて発達した鼻で吸引した。頭部からピンク色の靄が引き出され、スリープの口がそれを食む。ピンク色の靄が夢≠ネのだろう。

 ノアはスリープの存在を表沙汰にしようとは思わなかった。小説家との契約もあるが、何よりも認識を操っているスリープに対して決定打を得られる気がしなかったのだ。

 どうすればスリープを倒せるのか。ノアは自分のホルスターにあるモンスターボールを見やる。ヤミカラスならば勝てるだろうか。否、扱い方が分からない。どうやってポケモンとは戦うのか。どうやって争うのか。根本を理解していないノアにはスリープを倒す事が至難の業に思えた。

 それよりも、ノアは考える。あの人とは何者なのか。小説家はその人物よりスリープを手渡されたと言っていた。下克上を狙うためにその情報をノアに集めろと。

 しかし、小説家ですら正体がおぼろげな人物をノアがどうやって暴くというのだろう。頭を抱えていると天窓から光が差し込んできた。また中天に陽が昇る。小説家が歩み寄ってきて、ノアへと囁きかける。

「今、あの人から連絡があったわ」

 ノアが身を硬くさせると、小説家は口角を吊り上げる。

「〈インクブス〉の正体があなたに露見した以上、時間の猶予はない。今すぐにでもあなたを消せって」

 全身の肌を粟立たせてノアがゆっくりと振り返る。小説家は余裕めいた笑みを浮かべて、「でも、断るわ」と口にした。

 ノアは疑問符を浮かべる。

「何故?」

「私の計画はあの人さえも出し抜いて作品を完成させここから出る事。あなたを殺したんじゃ、計画が潰えてしまう。だからあなたにはチャンスをあげる」

「チャンス?」

「あの人も相当焦っている」

 小説家はノアの耳元に唇を近づけ、ノアの髪を触れた。今すぐにでも振り解きたかったが視界の隅にスリープが入っている。

「尻尾を出すとしたら、近日中よ。だから、今日はその訓練をしてもらうわ」

「訓練って」

 何をすれば、と続けかけたノアへと、「下見よ」と声が返ってくる。

「この刑務所の構造は〈インクブス〉から私へと伝えられている。ただ一日や二日で全てを把握するのは難しい。せいぜいカメラの死角程度。あなたにはカメラの死角以外のところで、派手に動いてもらう」

 ノアは目を見開いた。

「囮になれって言うの?」

「口が悪いわ」

 小説家は肩を竦める。

「共闘関係でしょう? あなたは表から、私は裏から。ぎりぎりまで看守の目を引きつけてもらう。その間に私は作品を完成させて持ち出す機会を窺う。独房に移されても大丈夫よ。〈インクブス〉が見守っているから」

 見張っている、の間違いではないのか。しかし、口にはせずにノアは尋ねた。

「……何をすればいいの?」

「簡単な事よ。あなたもポケモンを持っているでしょう? ポケモンで鉄柵を破る素振りでも見せれば、看守達はやってくるわ」

「脱獄の真似事なんて――」

 言いかけた言葉を背後から襲ってきた重圧が遮る。スリープが見ている。小説家は射程圏内ならばいつでもノアを殺せる。

「真似事じゃないのよ。本気。これは予行演習。私がこの場所から脱出するためのね」

 小説家は「私達が」とは言わない。ノアを切り捨てるつもりなのは明白だった。普通ならばそんな不当な契約に同意する事などない。しかし、命がかかっている。ここで小説家に殺されるのは真っ平御免だった。

 ノアは静かに頷く。小説家は、「私は身の潔白のために離れている。でも〈インクブス〉には、あなたが余計な事をすればいつでも殺すように命じてある」と言い置いて離れていった。

 モンスターボールへと手を伸ばす。どうやってポケモンを操ればいいのか分からない。しかし、これは好機でもある。スリープを倒すための。だが、どうやって倒す? 今までポケモンなど手にした事がないのに。

 ノアは立ち上がって鉄柵へと歩み寄った。鉄柵の向こう側には看守達がひっきりなしに監視の目を光らせている。ノアはモンスターボールへと手を伸ばした。

 ここは小説家に従うしかない。どうしてだか、スリープはノアの夢≠セけは食えないようだ。離れていく小説家を肩越しに見やり、ノアがモンスターボールに触れていると突然に鳴き声が響いた。

 振り返るとスリープが鼻を持ち上げて大口を開けている。どういう意味なのか、はかりかねていると突然に頭部が引っ張り込まれる感触に襲われた。ノアの身体から夢を吸い出そうとしている。

「どうして……、無駄だって分かっているはずなのに」

 スリープの愉悦に浸ったような目を見やる。その眼に輝いているのはモンスターボールの使役から解き放たれた本能の光だった。ノアは小説家が視界から完全に消えたのを知って確信する。

「距離が! このポケモンは、決して小説家の命令に従っているから夢を食み続けていたわけじゃない!」

 全ては本能に基づいて行動していただけなのだ。小説家が見ている範囲では従っている風を装っていただけ。このスリープは無秩序に、それこそ本能の赴くままに自身の栄養源である夢を食い続けている。

 ノアは急速に意識が薄らいでいくのを感じた。夢の中に認識や記憶も含まれるという。スリープが全てを奪おうとする。このままでは自分は何もかもを失った木偶人形に成り果ててしまう。

 スリープが大きく息を吸い込んでノアの夢を食おうとする。ノアはその瞬間、諦めようとした。全てが無駄だったのだ。自分の人生も。行いも。世界の敵として蔑まれ続けるのならば、ここで人間としての死を迎えてもいいかもしれない。そうすれば小説家も無意味な行動を起こさない。自分の死が全てを円満にする。

 意識を閉ざそうとする。何も考えまい。このまま現実を受け容れろ。

 ――現実?

 ノアは自分の内側に小さな火が宿ったのを感じた。それがめらめらと燃え盛り、ノアの自意識を押し上げていく。

 ――こんな不条理が現実だというのか。

 思いの声とは裏腹に諦めるしかないと考える自分もいる。何が出来るというのだ。こんな力のない自分なんかに。

 その時、スリープが吸い込もうとする夢の靄へと何かが反射した。ノアは視界の中にそれを捉える。

 薄紫色の髪の少女だった。太陽の光を浴びた事がないかのように透き通った白磁の肌をしている。その少女が不意に顔を上げた。血のように透き通った赤だった。赤い眼がノアを見据え、その唇が言葉を紡ぐ。

 ――戦って。

 その言葉にノアは弾かれたように意識を持ち直した。

 まだ生きている。まだ考える自分がある。ならば無気力なまま終わってなるものか。

 モンスターボールへと手を伸ばす。スリープがすかさず「かなしばり」をノアの手にかける。指が硬直するが、ノアは力と意識を指先に注ぎ込んだ。

「かなしばり」の呪縛を解き、モンスターボールを掴んだ手に力を込めて緊急射出ボタンを押し込む。

「いけ――!」

 ノアが叫ぶと同時にモンスターボールが割れて光を振り払った姿が顕現した。魔女の帽子のような鶏冠、濡れた黒色の羽、落ち窪んだ眼窩に浮かぶ赤色の炎のような瞳。ヤミカラスがノアの前に浮かび上がり、スリープを鋭く翻した羽の一撃で押し出した。仰け反ったスリープが声を出す。

 その行動に多くの人物が注目した。突然にポケモンを出したのだ。当然、それが何かを企てているように見えただろう。看守達が目を向けて叫んだ。

「おい! お前、何をしている!」

 鉄柵に近い場所でポケモンを出したせいだろう。看守が悲鳴のような声を上げた。壁に埋め込まれたボタンを拳で押し込む。警報が刑務所の中を朗々と鳴り響いた。

「脱獄警報発令! 各員、対ポケモン装備!」

 ノアがうろたえ気味に周囲を見渡す。突然の事に誰も思考が追いついていない。ただ一つの事実として言えるのは、ノアがポケモンを繰り出しているという事だけ。

 小説家が警報に気づいて舞い戻ってきた。しかし、スリープの存在に気づかれていないと悟るや、攻撃されたスリープへと歩み寄り、「まさかポケモンを出すとはね」と鼻を鳴らした。

「でも、見えているのはあなたのポケモンだけ。そのポケモンでどうする? 非力そうな鳥ポケモン。それでどうやってこの状況を打開するって言うの? 既に看守が脱獄警報を出した!」

 ノアはモンスターボールがカチリと音を立てたのを聞いた。小説家がにんまりと笑う。

「モンスターボールはロックされた! 言い逃れは出来ない! あなたはこの場で問答無用に殺される! 残念ね。さようなら、ノア・キシベ。最期まできちんと飾り立てて作品にしてあげるわ! これで――」

 その言葉尻を、一陣の黒色の風が遮った。ヤミカラスが起こした風が刃の鋭さを伴ってスリープと小説家へと突き刺さる。

「――お喋りは嫌いよ」

 ノアは冷たく言い放った。

 ――解る。

 何故だか、今までポケモンなど使った事がないのに、ヤミカラスの技や能力値、全てがまるで自分の血肉となったかのように一体化して感じられる。ノアは胸中でそれが不思議だったが、今は解明する時ではない。

 認識が追いついた小説家がスリープへと命じようとする。

「イ、 〈インクブス〉! 念力でノア・キシベの首を捩じ切……」

「追い討ち」

 ノアが命じるとヤミカラスは動こうとしたスリープに先んじて闇の瘴気を纏わせた翼を払った。スリープが仰け反り「おいうち」の衝撃波が小説家に届く。小説家が引っ張り込まれてノアとヤミカラスの前に突き出された。

「いい? 名もなき小説家。あんた、種族名で呼ぶのは他人行儀だって言ったわよね。あたしもこのヤミカラスに名前をつけるわ。〈キキ〉。あたしはどこまでも自由に飛び立ってみせる」

 魔女の黒く濡れた羽と共に。ノアの言葉に小説家が、「た、助け」と命乞いをする。ノアは言い放った。

「聞こえた? 〈キキ〉よ。これが名前」

 瘴気を纏いつかせた翼が小説家の頭部に叩き込まれる。小説家が転がったのをスリープが援護しようとするが、ヤミカラス――〈キキ〉は既にもう片方の翼から放った漆黒の刃でスリープの肩口を切り裂いていた。腫れ上がった顔を晒して小説家がノアを見上げる。その眼には恐れの色が浮かんでいた。

「……また。あなた、眼が赤く……」

「そんな事はどうでもいいの。小説家。あなたがやるべき事は一つ。分かっているわよね?」

〈キキ〉が翼に闇色の刃の輝きを灯す。ノアの言葉に小説家は何度も頷いた。

「〈インクブス〉! この刑務所にいる全員の認識と記憶を吸い込め!」

 スリープが口を開いて大きく息を吸い込む。その直後、ふたご島全域を揺らすピンク色の靄が迸った。
















 暫しの間、呆然としていた。

 看守達はようやく音と異常事態を報せる警告に気づき、ハッとしてお互いの顔を見合わせる。

「何が起こった?」

「これは、脱獄警報だ。どうして……」

「誰が脱獄するんだ?」

 慌てて監視カメラへと視線を注ぐが、誰一人としてそれらしき人物は見当たらない。

「誰だよ。寝ぼけて脱獄警報を押したのか?」

 看守の一人が冗談めかして口にする。「いや、そんなはずは……」と目頭を揉みながら看守は前後の記憶を探った。しかし、何故だが曖昧模糊としている。

「寝ぼけるのはよくないな。仕事仕事、っと」

 看守は頭を切り替えて仕事に戻った。







第一章 了


オンドゥル大使 ( 2014/07/25(金) 21:12 )