ポケットモンスターHEXA NOAH - 惡の娘
第一章 一節「惡の娘」

 小説家が逃げた。

 まず、それが分かった。

 ノアの眼には並んでいた人波から急に飛び出してきた影が、唐突に浮き上がった小石のように感じられた。子供の頃、水切りの時に使ったような小石。

 つやつやとしていて、円盤状の、手元に収まる石。それによく似ている。

 小石が小説家である事は事前に喋ったから知っていたのだ。彼女は饒舌だった。いつか世界を変えてやる、と真剣な眼差しで語っていた。その言葉には熱があり、嘘偽りの類は見られない。本気で口にしているのだと知れた時、ノアは馬鹿だなと素直に言葉にしていた。

「そんな事、叶うわけがないじゃない」

 夢幻よりもなお性質が悪い、眼前に掲げられた目標という異物に、ノアは嫌悪感を催したように顔をしかめたのだ。それを見て小説家は指差して言い返す。

「あなただってここにいるのだから同罪よ」

 取り澄まして放たれた声にはいささかのてらいもなく、ただ事実だけを告げているように思えた。ノアは周囲を見渡す。鉄条網に覆われた天蓋。等間隔に繰り返す振動が移動しているという事を突きつけてくる。

 固いシートに座って彼女達はお喋りを続けていた。彼女達、という限定的な言葉を用いたのはこれから赴くであろう場所には女性しかいない事が分かっていたからだ。自分達のような立場の人間は、であるが。

「同罪、ね。あたしは別に罪になるような真似はした覚えはないんだけど」

 ノアは肩まである黒髪を揺らす。小説家は、「私が書いた小説では」と肩を竦める。

「罪がない人間なんていない」

「なに? 性悪説?」

 それとも原罪の話だろうか。どちらにせよ、あまり自分の趣味に合った話ではない。それらは所詮、物語だ。

「別にそういうわけじゃ。ただ、ここにいる限りは同じ穴のムジナだって事」

 小説家は手を掲げて周辺人物に視線を配った。誰もが陰鬱な顔を伏せている。同じように言える事は全員が女性であるという事だ。年齢にはばらつきがある。まだあどけない少女の容貌の人間も大勢いる。自分もそれに含まれるのだろうか、とノアは今年十五になる自身を顧みる。

 スクールに通っているのならばまだ少女、が通用する年齢だろうが、ここカントーでまかり通っている十歳成人法という法律では、既に自分の進路を決めて社会的地位を築いている年齢だ。

 多くの少年少女達がポケモンを得てトレーナーの道に進む。しかし、トレーナーに関する法整備は未熟な部分があり、トレーナーとして大成しなかった人間や挫折した人間を慰撫するような法律はなかった。だから多くの場合、十歳になってもスクールに通わせる。スクールというのはトレーナーズスクールの略称で、健全なポケモントレーナーを育成するために政府が設けた機関だ。

 カントーはしかし、トキワシティに一つあるだけだ。それ以外は教育機関となっており、多くの場合タマムシ大学に通うための通過点となることが多い。教育機関とスクールは別個の機関である。大多数の人間が勘違いをし、トレーナーズスクールに通わせれば、それはポケモンの専門家を育てている事だ、と思いがちだ。

 大きく違うのは、スクールは「トレーナーを育てる」に過ぎない。ポケモンの専門家を育てる、及び学術的に優れた人間を輩出する、ならば公教育機関に通わせるのが正しい。スクールは政府が推奨しているに過ぎず、政府の保証があるわけではないのだ。トキワシティにあるスクールとて、「トレーナーを学ぶ」場所であり、言うなれば塾と同じだ。

 ポケモントレーナーには六体までのポケモンの所持が認められている。六体以上になれば、政府のお膝元であるポケモンの通信システム、ポケモン預かりシステムへと自動転送される仕組みだ。

 巨大なクラウドである預かりシステムの利用者は年々増え続け、最初はマサキというタマムシ大学出身の人間が掲げたベンチャー企業的存在だったこのシステムに政府は早期に着目し、資金繰りを助ける代わりに預かりシステムの利権をマサキと共有した。マサキは預かりシステムの開発者として名を刻み、今も増え続ける利用者に対して新たなシステムを構築中だと言う。

 カントーにおけるポケモントレーナーの居所というものはつまるところ、旅がらすと同じであるのだが、これを職業にする事も同時に可能なのだ。それが一地方に八つ置かれているポケモンジムのジムトレーナー、またはそれらを束ねるジムリーダーという存在である。

 ただし、ジムトレーナーになる事とジムリーダーになる事は同等の価値ではない。ジムトレーナーは基本的にジムリーダーの立会いと面接、手持ちポケモンという方法で選出されるのに対して、ジムリーダーは前ジムリーダーからの推薦、あるいは政府総本山、セキエイ高原の役員数名の立会いによる実力の行使が求められた。ジムリーダーになるのはかなりの難関であり、純粋にポケモントレーナーとしての実力の高さに言及される。ほとんどのトレーナーはジムトレーナーすら倒せずに身を落としていく。しかし、それは何も責められる事ではないのだ。

 むしろ自ら称号を名乗り――それは虫取り少年やミニスカートであったりするのだが――トレーナーとして小金を稼ぐ。スクールや学生の兼ね合いとしてトレーナー業をやっている人間もいる。彼らにとって重要なのは自分がどれほど強いのかではなく、趣味だから、好きだからと言った逃げ道だ。ポケモントレーナーは趣味の一環であり、専業ではない。これを通す事で多くのトレーナーは現実問題としてのトレーナーの増加、及び法整備の不備という現実から逃げている。それに向かい合わせるのが、自分という人間の使命なのだ――とそこまで小説家は語った。

 ノアは面白がって尋ねる。

「それはエッセイじゃない?」

 小説家は首を横に振った。分かっていない、とでも言いたげに渋い顔をして。

「違う。私のしたい事はそれじゃない。いい? 今まで話した事は問題提起、いわばテーマなのよ。これをそのまま、ダイレクトに書くのが小説家の仕事じゃないの。それはエッセイストや専門家に任せればいい。そうしたら、訳知り顔の彼ら彼女らはこぞってこの問題に対して、渋面を作りながら言うでしょうね。『なんて嘆かわしい』って」

 小説家は身振り手振りをつけながら、声真似までして見せた。舞台役者のほうが向いているのではないだろうか。

「あんたはそれを書くわけじゃない」

「そうね。私が書きたいのはもっと包括的に、人間≠言及する作品。でも、私はその人間を描く″品に至るために、テーマの掘り下げの一つとして、その部分に手を出さざるを得なかった」

「だからここにいるってわけだ」

 ノアはようやく小説家がここにいる理由に納得した。車体が揺れて固いシートに尻を打ち付ける。「痛っ」と思わず口にした。

 鉄条網の張られた窓から外の景色を望む。太陽が中天に昇り、燦々と輝く光の中、灰色の道路が広がっている。時折、思い出したように車がすれ違うだけの殺風景な場所。タマムシシティから南方に下るセキチクシティに至るための車道だった。トレーナーにはサイクリングロードとして開放されていた場所だが、近年になって自動車の需要が増し、急遽建造された高速道路を行くのは、物々しい立方体の装甲車であった。それに自分達は乗っているのだ、とノアは自覚する。

「だから、あなただって同じだって言うのが分からないの? 私は小説を書いて、偶然にこの道に居合わせた。そうね、言うなれば歩道をきちんと歩いていたのに、突然に車が飛び掛ってきて事故にあったようなもの。そう、事故なのよ」

 まるで自分に言い聞かせるような言い草だ。ノアは、「事故なら、いいのにね」とどこか他人事のように告げていた。小説家は眉をひそめる。

「事故ならって、事故に違いないわ。だって、私は小説を書いていた。編集者のチェックのバッチリ通った。推敲も校正もしたし、誤字脱字なんて一文字もない、完璧な小説。世間に評価されて然るべきものなのに、どうして処分なんて受けなきゃいけないの?」

 心底不思議なように小説家は口にする。その言葉の一つ一つが徐々に棘を持っていく事に気づいた。ノアはその言葉には答えずに外を眺めていた。鉄条網で切り取られた景色はまるでパズルのようだ。てんでばらばらの景色がかろうじて繋ぎとめられているような不思議な感覚がある。もし、この一辺に触れたとしたら脆く崩れ去ってしまうのではないか。外の景色とこの車内は断絶されているのではないか、という錯覚が過ぎる。

「発禁処分、って知っている?」

 小説家は自分を宥めるように軽く息を吐いて頬杖をついた。どうやら話をやめる気はないらしい。ノアは目を向けて、「言葉だけは」と応じる。

「今どき、そんなのないと思っていたけれど」

「あるのよ。私の本がそれだった」

 ノアは特に驚くでもなく小説家を見据えた。この装甲車に乗っているという事は、大なり小なり政府に楯突いたという事だ。小説家が自称ではないとしたら、考えられる理由は過激な内容を書いた事だろう。今のカントーでは禁忌に触れる内容だ。

「どんなの書いたの?」

「あなただけに教えてあげるわ」

 小説家は声を潜めてノアの耳元で囁いた。

「ヘキサ事件に関するカントーの不手際よ」

 ああ、それで、とノアは納得した。ヘキサ事件に関する事はタブーの一つだ。それをフィクションである小説でとはいえ、語ったのはまずいだろう。

「どんな内容だったの?」

「買って読んで、と言いたいところだけれど、もう買う事も出来ないのよね。いいわ、言うとすれば、後手にカントーはわざと回ったのではないか、という事。退役した四天王をその場凌ぎとはいえ利用してカントーは空中要塞ヘキサを足止めしようとした。その前にイージス艦を二隻、カントーは失っているわ。私はカントーがその後のウィル設立、及びカイヘン地方の支配のためにそれらの行動を演出したのではないか、って疑っている。それは人道に悖る行為だ、って具合にね。書いたら、それは発禁になっちゃった。私も、思想犯って事で、今はこの車の中、ってわけ」

 小説家は首を引っ込めた。ノアはそれを聞きながら一面では真実なのだろうと感じていた。ただし、一部の人間に都合のいい真実だ。この場合ならばカイヘンの人々の人権にとって。これがウィル賛美の小説でもまずかっただろう。ウィルの蛮行は最早、世間の知るところになっている。

 過激論者の中には、「カントーの歴史始まって以来の汚点」とする声もある。ウィルは――カントー独立治安維持部隊はブレイブヘキサと名前を変えた。カイヘンは少しずつ立ち直ろうとしている。カントーの支配から脱却し、一地方として権利を取り戻しかけている。

 ――その皺寄せがこれか。

 ノアは親指の爪を噛んだ。小説家は、「酷い顔よ」と覗き込んでくる。

「まるで親の敵みたいに」

 親。その言葉がノアの心に突き立った。ナイフのように鋭く。研ぎ澄まされた刃は今の一番柔らかい部分を切りつける。

「そういえばあなたの名前を聞いていなかったわ。何だったっけ?」

 ノアは名乗るべきか逡巡を浮かべたが、名前だけを口にした。

「ノア」

「苗字は?」

 ほとんどの場合、名前だけで事足りる。しかし、小説家は自分の名前にまつわる物語を所望しているようだった。まるで飢えた獣のように。ハイエナだ、とノアは胸中に吐き捨てる。他人の人生を食い物にする腐ったけだもの。

 ノアは呪われた名前を紡いだ。

「……ノア。ノア・キシベ」

 その声に車内が色めき立った。ノアに今まで興味も示さなかった人々が一斉に好機の視線を伴って見つめてくる。その中にはゴキブリのような好奇心だけではない。羽虫のような憐れみもある。

 ――憐れむな。

 ノアは爪を噛みながら舌打ちを漏らす。小説家が何を言ったらいいのか分からないのか、手を硬直させつつ、しかしその実は最も聞きたそうな眼差しを隠せずに言葉を発した。

「……キシベ、って。まさかね。同じ苗字はごまんとあるわ。それに公式発表では稀代のテロリスト、キシベに血縁者はいなかったって」

「誰もそのテロリストの血縁だとは言ってないでしょう」

 押し殺したノアの声に小説家は息を詰まらせた。問答無用に従わせる声音を伴っていたのかもしれない。小説家は、「ああ、でも」と何度かの迷いの後に口にする。

「不運な符号ね。キシベ、だなんて。まさか、そのせいであなたも思想犯だと?」

 ノアは顔を背けて沈黙した。それが何よりの答えになっていた。小説家は言葉を彷徨わせる。こういう時に気の利いた冗談の一つも出ないのか。それでも小説家か、と言いたくなった。誰かを糾弾する気には、しかしなれない。事実なのだから仕方がない。

 小説家は自分の中で納得したのか、「そう」とさも残念そうに呟いた。

「キシベ、ね。その名前で検挙された人は後を絶たないわ。でも、あなたみたいな、失礼だけれど、何歳?」

 ノアがあまりにも若いからだろう。小説家よりかは若いと思えた。

「十五歳」

「十五? そんな子まで、思想犯呼ばわりするなんて」

 嘆かわしい、と小説家は付け加える。そこでノアは気づく。小説家の口ぶりが先ほどまで嫌悪していたエッセイストや専門家そっくりになっている事に。

「思想犯だと判断された材料は何?」

 質問してくる小説家は最早創作者というよりかは他人の人生を食い物にするマスコミと同じに思えた。

「答える義務って、あるの? お喋りは嫌いよ」

 ノアの冷たい声音にぞっとしたのか、小説家は、「とんでもない」と両手を振った。

「私はただ単にあなたの苦しみを取り除きたくって」

「あたしは苦しいなんて一言も言っていないし、あんたに取り除けるような苦しみだとも思えない」

 ノアの強い語調に小説家は気圧されたのか、「そう、よね」と顔を伏せた。それでも諦めきれないのか、「でも」と声を出す。

「キシベ、って苗字だけで、セキチクの留置所まで引っ張り出されるものかしら。だって、さっきも私が言ったけれど、キシベって苗字だけならごまんといるわ。それをいちいち炙り出していたら、それこそ監視社会よ。二年前のカイヘンの二の舞ね」

 二年前。カイヘンはウィルの監視下にあった。ポケモントレーナーはポケッチの装着を義務付けられ、ポケモンの所持数は二体と制限を受けていた。

 今、その制限はウィルがブレイブヘキサと名前を変えた事で少しばかり緩和されたらしい。聞くところによれば、カイヘンで最も被害を受けた北の人工島コウエツシティにおける最低地区、F地区の治安も向上し、また港町の活気が戻ってきたという。だが、カイヘンは未だ傷痕は拭えず、カントーに絶えず交渉を持ちかける若きブレイブヘキサの頭目も受難の日々を過ごしているという。

「だから」と小説家が口元を歪めた。彼女は期待しているのだ。自分に、何か物語があるのだと。悲劇のヒロインを演じる資格のある人間だと。キシベ、という苗字だけでは捕まらない。だとしたら、特別な思想を持っているのだと踏んだのだ。または特別な出自か。小説家は、眼前に吊るされた餌に全身を震わせて喜んでいるように見えた。

「それだけじゃないと思うの。ねぇ、私が教えたんだから、あなたの事も知りたいわ」

 そんな事でプライバシーを侵害されてなるものか、とノアは無視を決め込もうとしたが、車内の誰もが無関心を装いつつも耳だけはそばだてていた。ここで話さずとも、留置所ですぐに噂話になる。ノアはため息をついた。

「知りたい、ね。それがどれほどの悪意に塗れているかも分からずに」

「悪意なんて、そんな」

 小説家は相変わらず謙遜しながらも、ノアの出自への興味を捨て切れていない。ノアは、「あたしの父親が」と唇を動かした。

「そのキシベだと言ったら?」

 車内の空気ががらりと変わった。明らかにノアを見る目つきが変化する。空気の濃度までも変わったかもしれない。濃密なそれは「敵意」であるとノアは経験から分かっていた。

 小説家はしかし、「冗談でしょう?」と白々しい笑みを張り付かせながら問い返した。だとしたら、相当な上物である。そういった本音がありありと見えてくる。小説家はそういう情報源を手離すつもりはないらしい。ノアの耳元で囁く。

「本当なら、私だけが知りたいわ」

 誰にも渡すまい、とするかのように。ノアは自分の物語を話し始めた。

「妾腹の子なのよ、あたし」

 ノアの独白に小説家は片手を握り締めた。ペンがあれば、今すぐにでもメモしたいと言うのだろう。残念ながら筆記具の持ち込みは禁じられている。

「キシベには血縁者はいなかったって正式発表にはあったけれど」

「だから、血縁者じゃない。キシベが戯れに遊んだ、女の一人。それがあたしの母親」

 小説家はしかし、素直には信じようとはしなかった。だが、このような不利益な事実をどうして創作でも口にしようとするだろうか。

「そんなの、考えられない。だって、キシベに関係した人々は徹底的に調べられて、当時のカントー政府が躍起になって探したのよ。それが見つからなかったなんて」

「当時のカントー政府はカイヘンに的を絞っていた。キシベの血縁者がいるとすればカイヘンだと。だから、カイヘンは鎖国政策に襲われウィルの支配下に置かれた。いつ、反逆の子供が暴れ出すか分からないから」

「ええ、それは聞いた事が。……でもあなたみたいな」

 小説家はノアの全身を眺めてから改めて口にする。

「信じられないわ。華奢な女の子じゃない」

「どうして反逆者の娘が筋骨粒々だと思い込むのかしら」

 ノアはため息を漏らす。肩まである黒い髪をかき上げた。

「でも、そうだとしても」と小説家はなおも言いたげだ。

「何か?」

「あなたがキシベの娘だと信じ込む材料はない。だってあなたは普通の女の子に見える。思想犯にも見えない。それにキシベの子供だとしたらなおの事、今までどうして話題にも上がらなかったのかが不思議だわ。どんな風に隠れて生きてきたのか……」

「隠れちゃいないわ。堂々と生きてきたわよ」

 ノアの言葉を信じられないとでも言うように小説家は目を見開く。

「そりゃ、そうだろうけれど」

「ここ最近のカントーはおかしい」

 出し抜けに放たれたノアの声に小説家は面食らいながら、「確かにね」と同調した。

「私みたいな小説家が出した本なんて、いちいち検閲にかけるのも馬鹿らしいのよ、本当は。でも、あなたの言う通りカントーのチェックは厳しくなっている」

「カントーはここに来て焦っている。ウィルが潰れ、ブレイブヘキサになった事で、利権を貪っていた上役はほとんど葬り去られた。ブレイブヘキサはウィルの流れを汲むけれど、ほとんどカイヘンの独立組織。自分達のために作った独立治安維持部隊が牙を剥いたってわけ。まさしく飼い犬に手を噛まれた状態ね。カイヘンを支配したつもりが、逆に今度はカイヘンから睨みを利かされた。発言力を増した地方を応援する他地方の声も相まって、カントーは今、建国始まって以来の危機に晒されているといっても過言ではない」

「いやに饒舌ね」

 小説家が訝しげな視線を向けてくる。十五歳の少女の、それにしてはでき過ぎな意見に思うところがあったのだろう。どうやら伊達に小説家を名乗っているわけではなさそうだ。

「何でそこまで知っているのかしら? 普通ならばスクールに通っていてもおかしくない女の子の、一意見にしてはすっ飛ばせないわ」

 ノアはため息をついた。前髪をかき上げて、「職業柄よ」と答える。

「職業?」

「あたしは、新聞社に勤めていた。だからカイヘンとカントーのあれこれは分かっている」

「嘘」

「本当」

 疑ってかかった小説家に言葉を返す。小説家は、「どこの?」と聞いてきた。ノアは頭を振る。

「それこそ、答える義務、あるのかしら?」

「ああ、そうよね。こうなってしまった以上、今さらどこに勤めていたかなんて聞いたところで野暮だわ」

 それを言い出すのならば苗字を訊いてきた事自体が野暮だ、とノアは返したかったが堪えた。

「でも、それで頷けた」

 小説家は何度か首肯する。指鉄砲を作り、ノアを指差す。

「あなたは新聞記者で、カイヘンとカントーのあれこれを探っていた。そのうち、探られては堪ったものではない人間の腹を探った。そのしっぺ返し、という事なのね」

「察しがよくて助かるわ」

 ノアは息をついた。説明の手間が省けた事にまず安堵する。

「相手は単なる報復のつもりだった」

「そう。でも、あたしの出自を知った相手は国際警察にそれを売りつけた。多分、高値で」

 それなりの儲けになったのだろう。しかし、ノアがキシベの娘かどうかを判断するのはこれからなのだ。

「とりあえずは名誉毀損で訴えて、その後にあなたがキシベの娘である事を公開する」

 小説家は鼻を鳴らした。「汚い手だわ」

「汚かろうが、正義は相手にあるのよ。あたしはこの世に生れ落ちた時点で最悪だったってわけ」

 ノアが自嘲気味に口にすると、「そんな事を十五歳の女の子から聞きたくないわ」と小説家は首を振った。

「まだ人生どうなるか分かったものじゃないじゃない。それに正義なんて。それこそ分からないわ」

「でも、あたしは世界の敵の娘よ」

「一端の道を進む事だって出来るはずよ。誰だってその権利があるし、それが許されている。それが人生ってものでしょう?」

 小説家だけあって嘘がお上手だ。ノアにはそれが嘘だと分かった。嘘には独特の臭いがあるのだ。口臭のようなもので、鼻に感じられるのはどぶ川のような澱んだ臭いだった。それを嗅ぐ度に、ノアはこの世は地獄だと痛感させられる。

「嘘は嫌いよ」

 放たれた声の鋭さに小説家は辟易した。

「し、心外だわ」

「あたしに嘘やおべっかの類は通用しないと思って。あたしが信じられるのは――」

 ノアは言葉を切って中空に視線を留める。小さく、それでいて心強く口にした。

「ママだけよ」

 ノアの言葉に小説家はそれ以上の追及は無意味だと判断したのか、声をかけようとはしなかった。

 装甲車が揺れる。もうすぐセキチクシティだ。罅割れた声のアナウンスが響き渡る。

『留置所に着く。貴様らはそこでまず、裁判までの期日、過ごしてもらう』

 冷たい国際警察官の声音が、訪れるであろう悪夢を予感させた。



オンドゥル大使 ( 2014/07/15(火) 21:45 )