『イーヴィル・エンパイアU』
「リニアに乗るのは初めてじゃないはずだ。少なくとも生きていた時をカウントすれば」
日記にそう綴りながらカルマは窓辺の席で一服つく。
精神体には禁煙も関係なしだ。
ただ気を遣わなければならないのは、回送電車を掃除している中年女性の手に触れないようにする事。それが自分の一片でも触れてしまえば、自分はその部分を抉り取られる。抉られた部分は元に戻らない。
「わたしを次の場所に駆り立てた上役はわたしを殺したいのかもしれない。精神体の殺し屋なんて居ても居なくとも多分、どっちにしろこの世は変わらないだろう。わたしは、悪しき精神体――俗に言う悪霊を退治して回っている。それは世のため人のためではなく、ただ取引に準ずるためだ。わたしが上役と交わした取引の中に、いくつか項目があった。目的意識を持たなければ消滅してしまう精神体を維持するのには仕事がいる。やれやれである。死んでまで仕事をしなければならない。わたしが選べたのは、人間爆弾か殺し屋だった。人間爆弾、と言っても爆弾を抱えて拠点で起爆するなんてものではなく、わたし自身が、精神体に向けて駆けていきその精神体と運命を共にするという事。つまり遠まわしな自殺だ。いや、死んでいるのに自殺は変かもしれないが。わたしはそんな一回きりの、しかもどの精神体を道連れにするのか分からない仕事よりも殺し屋を選んだ。精神体の殺し屋は死にながらにして、相手を殺す。操れるのは現場で調達したゴーストタイプのみ。しかも技は繰り出せない。単純な行動、たとえば追えだとか、走れだとか、相手を逃がすな、だとかそういう事しか出来ない。わたしは生前どのような人物だったのかは分からないが恐らく悪人だったのだろう。善人にこのような仕事は割り振られない。わたしは死してもなお、償わなければならない悪徳がある。それは取引内容に抵触するのだが……」
そこまで書いて、カルマは客室添乗員が部下に接客のいろはを教えている現場に遭遇した。怒声を散らす添乗員に思わず縮み上がる。どうやら自分は思っていたよりも肝が小さいらしい。こういう、不測の事態に全く対応出来ない。
「添乗員なら、コーヒーをもらえるかな?」
無論、この声は聞こえていない。精神体の声は実体の人間には聞こえないのだ。唯一、声を聞けるのは精神体か、あるいはゴーストタイプのポケモンのみ。
カルマはため息をつく。
こんな状態になってもまだ、死に切れていないとは。
いっその事沈黙を守れたほうがまだマシだった。だが出来ないのだ。
それは生まれ持った性なのかもしれないし、あるいは精神体になってからお喋りになったのかもしれない。
寂しいから埋め合わせが欲しいのかもしれない。
どれにせよ、自分は殺し屋という後ろ暗い職業にしてはちょっとばかしセンチメンタルで、もっとストイックになれないものか、と毎回思う。
ただ、何も考えていないでいいのは半日だけなので、カルマはいつも標的の事を思い浮かべなければならない。その上で日記は必須だ。
何も考えていなくとも日記を開けば過去に何を考えていたのか、あるいはこれから何をしなければならないのかが分かる。ページを捲りながらカルマは呟く。
「次の精神体の標的は、シンオウか。シンオウに行った事はあるのかな」
生きている頃は、の話である。あってもなくとも、生前の記憶は曖昧で、思い出そうとしても出来ない。
「シンオウは寒いと聞く。今は冬だ。そろそろ雪も積もり出すだろうし、わたしは寒いのは苦手だな」
精神体が熱い寒いを理解出来るかどうかはともかく、カルマ自身は寒いのが苦手であった。かけておいた帽子を被って回送電車がシンオウに着くのを待つ。
その間中、添乗員は威張り散らしていた。部下が出来ないだの、これくらいの事がまともに出来なくって何がプロの添乗員だの、云々。
カルマは咽び泣く部下が可哀想になって添乗員に六文銭を投げた。
「客から金をぼるのが仕事ならこれでも取っておけ。死んだ時に役立つ」
シンオウの地を踏んだ感想は思っていたほど寒くはないな、という事だった。
どうやら精神体になっても熱い寒いは感じられるようで、時折吹く風は確かに冷たいのだが、心地いいくらいだった。それでもコートに身を包んだ人影を見かける限り、実体の人間には寒い温度なのかもしれない。
「なるほど。幽霊には寒いくらいがちょうどいいのか」
ならばシンオウは幽霊の溜まり場になるな、と考えながらカルマは停車していたタクシーのドアをノックした。
思った通り、客だと感じた運転手が扉を開ける。
座り込んでもう一度ノックすると習い性なのか、運転手は扉を閉めた。
このまま待って回送になってから目的地に辿り着けばいい。そう思っていたがイレギュラーが発生した。
「あー、すいません、乗ります」
ノックしてきたのは若い女性だった。茶色のボブカットが印象的である。カルマは目を見開く。自分が乗っているではないか、と言おうとして、ああ見えないのだ、と諦めた。
女性はキャリーケースを持っており、カルマは仕方なく前の席に移動するはめになった。
「えっと、ハクタイシティまでお願いします」
その行く先に関しては好都合であった。何故ならば自分もハクタイシティに用があったからだ。
タクシーが走り出す。若い女性は、「ハクタイシティに帰るのは久しぶりで」と上機嫌に話し始めた。
「元々、ハクタイの人間なんですけれど、ちょっと野暮用があって離れていたんですよ」
「へぇ。じゃあハクタイで何かやっておられたんで?」
「あっ、ジムリーダーなんです。ハクタイシティの」
そう口にするとタクシー運転手が笑顔になった。
「ハクタイの? いやぁ、若い人がジムリーダーなんて」
「ジムの査定が入って一時だけカントーに。まぁ、査定以外はほとんどやる事なんてなかったですけれど」
話に華が咲く中、カルマは日記帳に視線を落としていた。
これから向かう場所はハクタイにほど近い森の中にある。通称、ハクタイの森。
「ハクタイの森って、幽霊が出るの、知っていますか?」
だからその話題になった時、カルマは一瞬だけ肌が粟立ったのを感じた。まさか、聞こえているのではあるまいな。
「幽霊ですか? そんな噂もありましたかねぇ」
まさか隣にその幽霊が座っているなど露ほども思わない運転手が返す。
「ハクタイの森にある、森の洋館、今度本格的な審査が入るらしくって。……マイナスイメージなんですって。そういういわくつきの場所があるのは」
つまり取り壊し、という事なのだろう。カルマはさして興味の沸く話でもないか、と考えていた。
「ほう。じゃあ取り壊されるんで?」
「いえ。あたしはその、怖いのは苦手ですし、幽霊も苦手ですけれど、生まれ育った街の一部が壊されてしまうのはもっと嫌なんで。あたし自身の太鼓判を押すために、その森の洋館に入ろうと思っているんです」
カルマは目を見開いて後ろにいる女性を眺めた。
何を考えているのだ。
そんな事をすれば標的が逃げてしまう。
「それはそれは。勇ましい限りですなぁ」
実体のある人間にとってはちょっとした冒険心でも、自分のような職業からしてみれば大迷惑だ。せっかくの仕事場を荒らされる事になる。
「冗談じゃない。お嬢さん、今からでも間に合う。よしておくといい。標的が逃げるとわたしが困るんだ」
もちろん、女性には聞こえない。にまにまと締まりのない笑みを浮かべている。
「怖いっちゃ怖いですけれどね。でも、森の洋館がそんな身勝手に取り壊されるのはもっと嫌なので」
「……勘弁してくれよ。標的に逃げられたらわたしの取引が長引いてしまう」
カルマは額に手をやって嘆くがどうやっても女性の決心を崩せそうになかった。
「失礼ですが、お名前は? それほどの方だから、知っておかないと」
「あっ、ナタネです。ハクタイシティジムリーダーの、ナタネ」
結局、ナタネという女性と共に現場を訪れる事になってしまった。
行く先まで同じで困ったのだ。てっきりハクタイジムに寄るものだと思っていたら直接森の洋館に向かうという。これでは誤魔化しようがない。
「緊張するなぁ……」
しかし好都合な事もあった。ナタネが開いていく扉を潜れば余計な手順を踏まなくって済むのだ。それだけは感謝せねばならない。
部屋が数多く並んでおり、家電製品はまだ生きていた。カルマは手帳を読み上げる。
「確か、食堂に現れるんだったか。老人の精神体と、少女の精神体だ。どちらにも前歴、つまり罪状はないが、あまりに長く棲み続けているために厄介の種になっている。このナタネとかいう彼女のように、好奇心に負けた人間が入り込む余地を作ってしまった」
カルマは家電製品を触る。家電製品は「生きている」実体ではない。なので実体としての価値は低い。
だが、このテレビは妙だ、とカルマは感じた。
コンセントも刺さっていないのに、ずっと砂嵐を映し続けている。カルマはもしかして、と家電の中を探った。
その時である。
叫び声が館内に木霊する。
判断をする前にカルマはテレビを抱えて飛び出していた。
やはり、というべきか、ナタネは食堂の前で硬直していた。
視線の先には老人の精神体と、少女の精神体がいる。どちらも何かをしたわけではないが、霊感のない人間でも見えるのは厄介だった。
「あ、足が……」
竦み上がって動かないのだろう。カルマはテレビを置いて前に出た。
老人のほうがひゅーひゅーと呼吸音と大差ない声を出す。
「ご主人様はどこかの……。ここは寒い。とても寒い」
主人に捨てられた執事、と日記帳には来歴が書かれている。殺されたのではなく病死だったそうだ。突然の事で、本人も死んだ事に気がついていないらしい。
だが少女のほうは違った。
少女は、この場に吸い寄せられたのだ。死んでいるわけではない。ただ精神体と長くいたせいで、その存在そのものが希薄になっている。このままではいつ死んでもおかしくはない。
「ご老体、あなたにはほとんど罪はないも同然だが、無垢な少女をこの場に招いたのは立派な罪悪だ。森の洋館に巣食う悪しき精神体、ここで滅殺する」
カルマの声を受けてか、老人は笑みを浮かべる。
「何も持たずに何を。ワシはご主人様に仕える身。ここを離れるわけにはいかん」
「そうかな、居てくれたんだよ、一体だけ。この森の洋館にはな」
テレビを思い切り蹴りつける。すると、オレンジ色の独楽のようなポケモンが飛び出した。電気を帯びたそのポケモンの存在に老人は驚愕している。
「ロトム、とかいうポケモンだ。都合のいい事にこいつはゴーストタイプ。わたしのいう事を聞く」
「たわけ! この洋館には何人たりとも立ち入らせん!」
老人が杖を振るう。怨嗟の声が響き渡り、天井を軋ませる。
カルマはロトムへと命じていた。
ロトムはそのまま老人の背後にある電飾へと追突し、あろう事か電飾と一体化した。
直後、食堂の電気が一斉に点滅し始める。
「心霊現象だわ!」
ナタネの驚愕を他所にカルマは歩み出ていた。その影を見て、老人がハッとする。
「影が、ない……」
「精神体には影はつかない。それはそちらとて同じだろう」
老人が足元を見やる。老人にも影はなかった。
「ワシは……、ワシは……」
「死んでいるんだ。精神体のまま、ただ漂っているだけなら何の罪にもならなかった。だが、実体のある人間を取り込もうとした。罪は償ってもらおう」
老人は項垂れる。
もう戦闘の必要はなさそうだった。戦意を喪失した相手に攻撃するのは無意味だ。
「わたしについてきて欲しい。あなたが正しく、真っ当に死んだのだから真っ当な場所に行く責務がある」
老人はカルマへと歩み寄り、「寂しかったんじゃよ」と呟いた。
「誰も、近くにいないのは」
寂しい。
そうだろうか。
自分にも、寂しいという感情はあるのだろうか。だからたまに生きている人間にちょっかいをかけたりするのか。
分からない。答えは出なかった。
「少女は、今に解放されるだろう」
「一つ、教えてくれまいか。あんたは……」
「精神体の殺し屋をやっている。名前はカルマ」
帽子を目深に被って目礼する。老人はそっと呟いた。
「あんたみたいなのが、居るんじゃな」
「ああ。どうしてだか、わたしみたいなのが必要になってきてね。これも、精神体がしっかりあの世へ……有り体に言えば成仏してくれればこんな仕事はないんだろうが」
カルマのぼやきに、「それだけじゃないと見えるぞ」と老人は言った。
「あんた、何かを目的にしておるじゃろ。ご主人様と同じ目をしとる」
この館の主人がどういう人間だったのかは知らないが目的があるのは同意だった。
「わたしは取引をしている。上役の、簡単に言えば悪魔だとか天使だとか、神だとか、そういう次元の連中と」
「どういう?」
答えられない。それは取引上、教えられなかった。
「とりあえず、ここを出よう。随分と居心地のよかった洋館のようだが、もう取り壊しが決まっているらしい。あんたが居続けても、いつかは出て行かなければならなかった」
「この女性は?」
老人の視線の先には泡を吹いて倒れているナタネがいた。カルマは苦々しく呟く。
「しばらくすれば起きるだろうが、パニックを起こされても面倒だ。ロトム」
電飾からロトムが飛び出す。カルマは指差して命じた。
「彼女を外へ。それくらいは出来るだろう」
ロトムはナタネを浮かせてそのまま外へと飛び出していった。ロトムもこの場所に囚われていたのかもしれない。
「教えてはもらえないのか。幽霊の殺し屋さんよ」
「幽霊、という呼び名は厳密には違うのだが……。まぁいいさ。教えられない。それだけは守らなくてはいけないんだ」
老人と共に洋館の外に出る。すると、老人は歩み出た。
「ああ。随分と長い間、洋館の中にいたような気がする……」
老人の姿が光に包まれて消える。成仏したのだ。
カルマは懐を探って煙草を取り出す。精神体の煙草から紫煙がたゆたう。
日記帳を取り出し、最初のページに書かれている事を読み上げた。
「わたしがこの仕事にこだわる理由は、いずれ自分の身体を取り戻すためだ。この場所にはない、瀕死の状態にある自分の肉体を取り戻す条件として、わたしは精神体の殺し屋をやる事になった。どれだけ殺せば元に戻れるのかは分からない。そもそも戻ったところで瀕死なのだ。ならばこの仕事にずっとついていたほうがいいのではないだろうか、とも考えたが答えは否である。何故なら、永遠が存在しない事を、わたしは知っている。直感で分かる。いずれ終わるのならば、わたしは、自分の肉体に還りたい」
ロトムがナタネの上で跳ねている。カルマは手を払った。
どこへでも行くといい。
その指示に、ロトムが跳ね上がり、森の洋館に戻っていった。あのテレビが落ち着くのだろうか。
「まぁ、いいさ。永遠なんてどこにもないのだから」
いずれあのロトムにも分かるだろう。
永遠の忠義もなければ、永遠の隷属も存在しない。
どこかで永遠が途切れる。
それだけは確かだった。