『リフレインレポート version2.0』
白昼に幽霊現る。
3月2日13時ごろ、シンオウ地方コトブキシティにて、幽霊の目撃例があった。目撃者の話によると髪型は水色のおかっぱ。先日解体された地下組織、ギンガ団と思しき服装であったと言う。残党勢力である可能性を考慮に入れ、シンオウ警察は警戒を強めると共に、目撃情報を多方面から得ている。編集部が独自に入手した情報によると、目撃例は多数に渡っており、集団催眠の類を疑っていた警察側の推理は真っ先に棄却された。男は何かを喋ろうとしたが聞き取れなかったと言う。コトブキシティでトレーナーズスクールの教師を営む教員のAさん(二十五歳女性)からは、「あれは幽霊ではないのではないか」という意見が聞かれた。
「蜃気楼みたいでした」とは同僚のBさんの弁だ。なんでも、ふわりと風景に溶けていって一瞬見間違いかと思ったらしい。しかし、コトブキシティの中心街で巻き起こったこの不可解な幽霊騒動に早速報道陣が動き出したが、原因の究明、及びこの現象の解明は行われていない。テレビ局で勤める報道番組のスタッフによると、「近々、報道があるでしょう」との事。
「集団催眠であれなんであれ、ギンガ団の服装だったって言うんならニュースになりますよ」
関係者は脚色して昼間のワイドショーや夕方のニュースで取り上げる事を検討している。シンオウ警察は第一級警戒態勢を敷き、ギンガ団残党勢力の駆逐宣言を明朝には出す予定だ。
シンオウ新聞3月3日朝刊の三面記事の予定だったが、実際には「シンオウ経済界の危機」(チャンピオン、シロナによるコラム記事)に差し替えられた。本記事を執筆した人間に関しては不明なままである。
神障り、というものがあるらしい。
人が犯してはならない領域、そこに踏み込んだ人間は永遠に時と空間に捉われず、悠久の時間と空間の狭間を死にもせず、かといって生きているわけでもない存在となるという。
シンオウでそれが語られるようになったのは仲間内での会話からだった。カンナギタウンでの活動時にそれはより顕著となった。
シンオウ神話のポケモンに触れてはならない。見てはならない。時を操るポケモンの姿を直視すれば時間の概念から外れ、空間を操るポケモンに睨まれれば空間の概念から外れる。仲間内ではそれがまことしやかに語られたが、もちろんデマであろう。俺はアカギ様に仕えた。アカギ様は新世界の神となり、この現行世界を終わらせようという崇高な信念のお方だ。だが、俺はその信念よりも、この組織に属していればくいぶちには困らないであろうという狡猾な考えで入っていた。シンオウは空を衝くようなテンガン山を境に気候が大きく変わる。俺は幹部ではないが、ギンガ団の中でも隠密に長けた部隊に所属していた。いわば内偵の任を帯びていたのだ。裏切り者が出ないか、思想に反した人間が出ないか。組織に属していながら、俺は誰よりも組織を疑う人間であった。
だから、あるトレーナーとアカギ様がテンガン山で決着の時を迎えようという時も、俺はアカギ様の勝利よりも、そのトレーナーにほだされてアカギ様が信念を失う事を危惧していた。ギンガ団にはスポンサーがいる。他の地下組織と違うのはその点だ。テレビシーエムに出演し、テレビ局を裏から操っている側面もある。それは同時にギンガ団に投資している人間もいるという事だ。俺は何度かその取締役会に呼ばれた事がある。利権に肥太った人間達が金の話をするのだ。彼らの弁によれば、アカギ様は体のいいカモらしい。自分の信念や理想で盲目的になった人間は動かしやすいのだそうだ。彼らからしてみれば現行人類の終焉などとんでもない。俺はもしアカギ様が本当にそのような事を実行しようとした場合、ストッパーとして機能するように取締役会で命じられていた。俺程度の力ではアカギ様に及ぶわけもないのだが、正義を信じて疑わないトレーナーの力を利用すればあるいは、と賢しく考えたのである。俺は途中からギンガ団という集団の意思よりも、どうにかして存続させねばという大きなうねりに操られていた。
テンガン山、鑓の柱にて俺はアカギ様を止めねばならなかった。このままではその思想通りに事が進んでしまう。俺は戦闘に割って入ろうとした。その瞬間である。天地逆巻き、白光が天にそびえる山を貫いた。その光の中に、俺は紺色の龍と銀色の龍を見た。どちらも得意な形状をしており、紺色の龍の胸には五角形の印が、銀色の龍の両肩には真珠のような意匠があった。二体の龍が声らしきものを放った途端、俺の意識は闇に呑まれた。
奇妙な感覚がついて回った。
俺はその時、アカギ様を止めるべく動いたのだが、アカギ様は俺に気づく様子もなかった。それだけ相手のトレーナーとの戦いに集中しているのだろう。俺はポケモンも使わず、刃物で息の根を止めようとした。背後から迫った俺を見切れない道理はないのだが、その時はどうしてだかアカギ様は俺の足音に気づいた様子もなかった。俺も隠密部隊としてそこそこの経験は積んでいる。だが、アカギ様の集中力は異常だ。恐らく百メートル向こうからの狙撃でもこの人は気づくだろう。俺程度の気配を気取れぬはずがないのだが、俺はアカギ様の背後へと肉迫し、刃を突き立てた。
しかし、どうしてだか刃は空を穿った。俺は何度も凶器をアカギ様の背中へと突き刺そうとするが、何度やっても意味を成さない。それどころかアカギ様はトレーナーに敗北し、俺なんて見えてもいないかのように自分の理念が砕けた事を語り始めた。
何が起こっているのだ。俺には何も分からなかった。トレーナーは現れた二体の龍をモンスターボールで捕まえ、そのままポケモンで空を飛んで去っていった。アカギ様はギンガ団の解体を宣言し、幹部連と共に降りていく。俺だけがその場に取り残された。俺は手元の凶器を眺めながら、「何が」と呟いた。しかし、誰にも聞き取られる事はなかった。予め、俺の回収任務を帯びていた部下の団員がやってきたが、どうしてだか俺には気づかず、首を傾げながらポケモンを出して飛んでいった。俺だけが鑓の柱でじっと留まっていた。俺はポケモンを出した。ムクホークには俺が見えているらしい。俺はムクホークを伴ってテンガン山から降りた。カンナギタウンにて、俺は現状を把握しようとポケモンセンターに入った。犯罪組織の人間がポケモンセンターに入れば真っ先に捕まるであろう事は明白だったが、先ほどまでの奇妙な感覚に俺は捕まってもいいから誰かと話したい気分だった。
しかしポケモンセンターでは誰にも声をかけられなかった。それどころかポケモンの回復も行えず、俺が待合のソファに座っているとテレビに速報が映し出された。
ギンガ団の壊滅だった。
俺は行く当てを失った事になる。
アカギ様暗殺を企てていたのがいけないのか。それとも、あの瞬間に何かが変わってしまったのか、どちらにせよ俺の世界は今までと別のものになった。まず一つに物体に触れる事が出来なくなったのだ。自分があの瞬間までに所持していた凶器や服装、ポケモンなどは触れられたが、他の物体、たとえば人間などには無効となった。椅子や壁を抜ける事は出来ないのだが、どうしてだか人間に触れられない。そして、向こうから俺に触れる事、喋りかける事も出来なくなった。最初は無視されているのだと感じたが、それにしては不可解な事が多く、俺は自力で判断し、取締役会へと向かった。ギンガ団のハクタイシティの分家ビルにて行われていた取締役会はなくなっていた。それどころか、ギンガ団のあれだけいた団員が一斉に検挙されもぬけの殻になっていた。当然、裏から操っていたスポンサー連は根こそぎ挿げ替えられ、シンオウはクリーンな地方への道を歩き始めた。
ただ一人、俺以外は。
俺はこの特異体質を利用して盗みでも働こうかと思ったが、物体に触れられないので意味がなかった。それに壁抜けや、重力を無視したような動きは出来ない。ただ、不思議な事に、俺は空腹も感じなかったし、疲れもなかった。何日もシンオウを放浪したが髭も伸びなければやつれもしない。まるであの時点で俺の時間が止まったかのようだった。
――時間、と俺はそこで思い立つ。そういえばカンナギタウンでそのような文献がなかったか。俺はムクホークでカンナギへと降り立った。誰かが入る一瞬の隙をついて俺は民家に入り、その文献を見た。そこには時間を操るポケモンと空間を司るポケモンについての記述があった。その記述と俺が遭遇したあの二体の龍との外見的特徴が一致した。俺はいつの間にか伝説のポケモンに行き遭ってしまったのだ。しかし、だからと言って、では元に戻る方法はと、見つからなかった。俺はその家を後にしようとしたのだが、その時、「あら」と声が聞こえた。そちらへと振り返ると、金髪の女性が俺を見やっていた。その立ち振る舞いに俺は硬直する。
そこにいたのはシンオウ地方チャンピオン、シロナの姿だったからだ。
「珍しいお客さんね」
シロナは別段驚くわけでもなく、妹らしき女性に声をかける。しかし、その女性は小首を傾げた。
「お姉ちゃん、何の事?」
シロナは数秒間、逡巡の間を浮かべた後に、「なるほど」と得心した様子だった。
「おじいちゃん、おばあちゃん、ちょっとだけ、扉を開けておいてくれる?」
その言葉に祖父母と思しき老人達はシロナの言う通りにした。玄関を開けると、シロナが目配せする。俺は黙ってついていった。
カンナギの中心地、祠の前でシロナは俺へと言葉を投げた。
「ギンガ団も大胆な手を使うようになったのね。チャンピオンの家に白昼堂々盗みに入るなんて」
言い捨てた声に俺は、「違う」と返す。
「違うって何が? どんな機械を使ったのか知らないけれど、見えない細工なんて」
「違う……。違うんです……。俺は」
言葉尻に嗚咽が混じり始めた。数日振りに誰かと話す感触に俺は子供のように泣きじゃくった。シロナは狼狽していたが、俺の話を聞いてくれた。全て聞き届けた後、ぽつりとこぼす。
「神障り、じゃないかしら」
聞きなれない言葉に俺は疑問符を浮かべる。
「シンオウの文献の、随分と古い資料にあるのよ。時間のポケモン、ディアルガ、空間のポケモン、パルキアの怒りに触れた人間は時間と空間の概念から外される、と。その人間は飢えて死にもしないし、老いもしない。ただ、この世の理から外れた時間と空間を生き続ける、って」
「それって……」
「現在のあなたみたいね」
シロナは俺に触れようとしたが、その手は空を切るばかりだった。
「あなた、時間と空間の概念から外れているわ」
シロナの言葉に俺は瞠目したが、同時に納得もした。だとすれば、今まで誰にも気にも留められなかったのも理解出来る。しかし、どうしてシロナには俺が見えたのだろう。尋ねてみると、「昔からね」とシロナはこめかみを指差した。
「見えないものが見える。この体質をどうにかしたいのもあったのかな、考古学にのめり込んだのは」
シロナは、だからと言って俺の世話をするつもりはないと冷たく告げた。
「だってあなたはギンガ団。このシンオウの地を侮辱した人間。かわいそうだとは思うけれど、あたしにはどうしようもない。……あの子なら、もしかしたら助けてあげられたかもしれないけれど」
シロナは遠くを眺める眼差しを向けた。誰の事を言っているのだろう。
「とにかく、あたしに言えるのは、あなたはもうこの時間と空間の概念に縛られた存在ではないという事。でも何かに介入する事も出来ない。老いる事も、死ぬ事もない」
「どうすれば……」
「対処法がないわ。……あなた、ペンは持てる?」
俺は懐に仕舞っていた万年筆を取り出した。シロナが紙を一枚取り出して、「書いて」と命令する。
俺は万年筆で何かを書こうとしたがやはり、俺の触れているものはこの時間と空間の概念から外れているらしい。万年筆は紙を圧迫する事もなく、もちろんインクも漏れなかった。
シロナは額に手をやって首を振る。
「文字も書けないのでは、誰かに助けを求める事も出来ないわね。あなた、自分で紙は持っている?」
俺は取締役会で必要不可欠だった手帳を取り出した。その手帳には問題なく文字が書けた。
「でも、あなたが干渉しているのならば、その文字は誰にも読み取られる事はない」
俺は途方に暮れた。どうすればいいのだ。すがる眼差しを振り切るようにシロナは視線を逸らした。
「どうしようもないわ。ただ、一つだけアドバイスするのなら」
シロナは俺の眼を真っ直ぐに見据えて言葉を紡いだ。
「言葉を。その手帳に書き付けなさい。それがあなたのこの世にいた証明になるかもしれない」
俺はシロナに世話になるわけにもいかないので街を放浪しながら時折思い出したように手帳に文字を書いた。俺はそれを勝手にトレーナーが状況を書き付けるのになぞらえてレポートと呼んだ。この世にいない人間の書くレポート。誰に見られる事もないレポートを俺は何度も書き付けながらシンオウの地を歩いて跨いだ。俺の姿がコトブキシティで目撃されたようだ。何人かが気づいたので、俺は声を出そうとしたが、その前にそのリンクは途切れたようだ。どうやら何日かに一度、俺を時間と空間の牢獄に繋ぎ止めている力が弱くなる時間帯があるらしい。自分で判断するのは困難だったが、レポートに書くと思い出す事が出来た。俺はわざと人通りの多いコトブキシティで試してみたが、完全にランダムなそのタイミングをはかるのは難しく、子供が俺の姿を見る事もあれば、老人が俺を見る事もあった。
俺は日に日に疲れていった。精神でも肉体でもない、この世に繋ぎ止められている事が、だ。このような不完全な状態で人間は生きていけるほど強くは出来ていない。磨耗していく精神状態でただ足だけを動かし続ける。
人間は時間だけでも、空間だけでも出来ているわけではない。どちらもが合わさって初めてこの世に存在しうるのだ。俺の状態は、幽霊と大差なかった。
ハクタイシティを抜けてハクタイの森へと至った。木々の合間を抜けて呆然と歩いていると、寂れた洋館が目の前に屹立している事に気づいた。俺は引き寄せられるように洋館へと入っていった。中はゴーストタイプのポケモンでひしめいていたが、俺の存在が感知される事はなかった。何度か試したが、ポケモンも俺を認識する事は出来ないらしい。
ならば俺は何だ?
人間でも、ましてやポケモンでもない。
そのような感情を手帳に書き殴りながら、俺は森の洋館で何日か過ごした。すると、夜のとある時間に気配を感じた。まさかこの館の主か、と考えていると現れたのは老人と少女だった。少女は老人の陰に隠れている。俺は戸惑いながら声を出そうとした。
「まさか、幽霊か……」
その言葉に老人が首を横に振る。
「違うよ。お主と同じ、神障りの人間だ」
老人の言葉に俺は目を見開いた。老人は椅子に座り込み、そっと話し始めた。
古くにはディアルガとパルキアは強い力を伴ってシンオウの地に顕現していた。しかし、強過ぎる力は障りを人間に与える。時間を操られた人間は老いる事を忘れ、空間を弄ばれた人間は何も触れなくなった。その事を悔いた二体のポケモンはいつしか人間の世界と隔絶するために、三体の精神を司るポケモンに鍵を預け、深い眠りについたのだという。
老人と少女は自分と同じように、太古の昔に神障りの被害にあった人間だというのだ。
「今は森の洋館で暮らしておるよ。わしらが静かに暮らすために時々やってくる人間を脅かす事があるがな」
少女は俺を見つめながら、「悪い人?」と尋ねた。ギンガ団の服装のままなので悪い人だと言われても仕方がなかった。
「あんたらは、何年、そうやって生きてきた?」
生きてきた、と呼べるのだろうか。彼らは本来死ぬべき時間を忘れ、居るべき空間に留まれていないのだ。
俺もそうなるのだろう。死と存在価値を忘れた、哀れな現象へと。
老人は頭を振った。
「もう分からんよ」
その言葉には深い悔恨が滲み出ていたような気がした。もしかしたらこの地の黎明より、彼らはそのような境遇だったのかもしれない。
「元に戻りたいのかね?」
俺の目線を読んで老人が問いかける。どうなのだろうか。俺は、もう帰る場所がない。元々、ギンガ団でも隠密部隊所属だった。戸籍上は、既に死んでいる。ギンガ団は壊滅。ならば、どこに行くというのだろう。
「俺は、どこに行くのだろうか」
思わず声に出ていた。老人は吐息を漏らす。
「分からんよ。誰にも、分からんのだ。自分がどこへ行くのか、どこから来たのかなど」
俺はどこから来たのかも忘れてしまうのだろうか。深い忘却の彼方へと、俺の記憶は消し去られてしまうのか。何百年、何千年と生きられるように人間の精神は出来ていない。
「あるいは」とぽつりと老人はこぼした。
「この世界の終わりがあるとすれば、あるいは、ではあるな」
世界の終わり。それは奇しくもアカギ様の望んでいた事だった。アカギ様の思想は彼らのような存在からしてみれば救済の部分もあったのだ。それを大多数の意見で殺したのは他でもない、この世界だ。
きっと俺は救われないのだろう。この老人と少女も、きっと、世界の果てまで行っても報われない。アカギ様のような人間が数十年、数百年を経て再び現われればもしかしたら、と思うが儚い幻だろう。
俺は瞑目した。目の端から涙が伝い落ちる。
「さみしいの?」と少女が訊いた。俺は深く頷いた。
レポートを書く事はなくなった。俺は老人と少女と共に森の洋館で静かに生きる事にした。きっと、全てが忘却の彼方に辿り着き、輪廻の時を迎えるまで。俺も、老人も、少女も救われない。
時間と空間を約束された多数の人々が行き交う街へと、俺は思い出したように出かける事がある。それは人間であった事を忘れないためだったが、道行く人々は誰も無関心で、俺が生きていようが死んでいようが構わないような、能面を貼り付けていた。