『ゼア・スタンディング・ポインツ』
私達は考える事を放棄していた。
今にして思えばそう捉える事が出来る。だが、その時の私達にはそれしか方法がなかった。生きる事さえ自由ではなく、その日暮らしのパンと水だけで生活する日々。
磨耗していくのは心と身体の両方だった。だから、私は自分のポケモンが何を望んでいるのかさえも理解出来なかった。
茶色の毛並みで血走らせた赤い眼をした小型のポケモンが私を見つめてくる。ミネズミを私は道具として扱った。しかし、ミネズミはただ道具を使う人間として見ている風ではなかった。
――ポケモンを解放すべし。モンスターボールという悪習から解き放つのは我々プラズマ団である。
その教えに基づき、私はあらゆる暴虐の限りを尽くした。命じられればポケモンにも暴力を振るったし、盗みも働いた。全てはポケモンを解放するその時のため。水色のローブのような服装に袖を通し、賢者のように静かに、修験道のように厳かに、私達はポケモンの解放を説いた。旅の中で感化されたトレーナーやポケモンの持ち主もいる。私達の教えが彼らに染み渡っていくのは純粋に気持ちよかった。
でもその度に、私のミネズミは問いかけてくるのだ。
私は道具としてしか見ていないのに、どうしてミネズミはそれ以上の関係として見てくるのだろう。
私には結局最後の最後まで答えを出せなかった。今にして思えば答えを出す事に躊躇いを覚えていたのかもしれない。
ミネズミとの出会いはもう五年も前になる。
その頃、イッシュ地方ではまだプラズマ団の活動は最盛期ほどではなかった。小さな宗教団体といった様子で、私のような立場でも幹部であるダークトリニティや七賢人、ゲーチス様やN様に謁見する事が許された。
ダークトリニティはその頃からゲーチス様の補助に回っており、私のような一般団員では及びもつかない任務に身を浸していたようだ。私はポケモンを当初持っていなかった。そもそもプラズマ団の教えはポケモンを解放すべし、だ。どうしてポケモンを所持するのだろう、という疑問がついて回ったのは当たり前である。N様は、現地で捕まえたポケモンのみと心を通わせていたようだ。モンスターボールは使っていなかった。N様は当たり前のようにポケモンと会話を交わし「トモダチ」と呼んで相手を対等以上に扱った。ポケモン達もN様にならば心を許している様子で自然とN様の周りにはポケモンが集まっていった。
その頃のゲーチス様は今ほど過激な思想にははまっていなかった気がする。ただダークトリニティを通じ、ある時はお涙頂戴のヤラセ番組を使ってイッシュの地に自分の思想を伝わらせていった。
ゲーチス様は私達からしてみれば悪人には見えなかった。N様を見守るのはゲーチス様と愛の女神、平和の女神だけだった。彼女達はN様と歳も変わらぬ少女達だったがゲーチス様は彼女達を神聖視した。N様も触れれば穢れを持ち込むと次第に我々とは隔絶されていった。そんな折である。私はミネズミと出会った。その出会いに関わったのはN様本人であったのだ。
私は当時、ポケモンを持っていなかった。だから、野生ポケモンの襲撃でさえ私には恐れるべきものであった。N様と私はジャイアントホールへと任務で向かう事が度々あった。初期の団員であった私には幹部ほどの実権力はなかったものの、任務への同行程度ならば許される事が多々あったのだ。ジャイアントホールには妖気とでも言うべき巨大な気で溢れていた。現れるポケモンもレベルが高く、凶悪だった。ジャイアントホールの手前で私は警護を担当したのだが、その時に草むらが揺れてポケモンが現れた。私達は身構えたが、現れたのは小さなミネズミ一匹だった。
ミネズミは全身に裂傷を作っていた。どうやら迷い込んだらしい。しかし、ミネズミはイッシュ地方でも南方の「始まりの町」と言われる場所付近に現れるはずのレベルの低いポケモンである。どうしてジャイアントホールなどいう場所に、と私達が戸惑っているとN様は歩み寄ってミネズミを抱いた。
「可哀想に。トレーナーに捨てられたんだね」
後から調べて分かった事だが、そのミネズミには「いあいぎり」という秘伝技が覚えさせられていた。トレーナーによっていわゆる秘伝要因として育てられていたのだろう。秘伝技を使うためだけに手持ちに入れられていたのだから、戦闘用には出来ていない。しかも「いあいぎり」しか使い道がないのならばこのジャイアントホールに至った時、ほとんど活躍の機会は奪われていたのだろう。トレーナーは捨てる事に躊躇いすら覚えなかったに違いない。N様に歩み寄ったミネズミはあろう事かその指先に噛み付いた。私達がざわりと殺気立って駆け寄ろうとすると、N様は頭を振った。
「彼は、相当酷い目に遭わされたようだ。ボクじゃなくっても分かる。キミに、彼の傷口を癒して欲しい」
私はその言葉に目を見開いた。
「私ですか?」と問い返したほどだ。N様は真っ直ぐな眼差しで、「お願いしたい」と告げた。
「キミになら、彼は心を開くはずだから」
N様には時折不思議な力が守っているのではないかと思うことがあった。どこか達観しており、私達が前に立つと全てを見透かしたような事を言うのだ。団員の中ではN様を不気味に思う人間もいたのだが、私はそうは思わなかった。N様は何か他人には見えないものを見ている。その眼差しがどこを見つめているのか、私達は知る必要があるとさえ思えた。
私はミネズミを与えられたがN様のように扱う自信もないためにモンスターボールに頼る事になった。団員は基本的にモンスターボールを使っていたのだが、プラズマ団の思想からしてみればそれは反抗のようなもので、私は来るべき時に爪弾きにされないか不安だった。
ミネズミと私は決して良好な仲ではなかった。私の命令を聞かない事は度々あったし、手持ちとして信頼出来るようになるまでに時間を要した。
しかし、それでも私は、ミネズミは来る時には手放さなくてはならないのだという事を自覚しない時はなかった。信頼、といってもそれは所詮モンスターボールが作り出す幻想に過ぎない。プラズマ団の思想においてそれは存在してはならないのだ。モンスターボールを眺めながら私はそう感じていた。
いつものようにモンスターボールの表面を磨いていると、同室の団員が声をかけてきた。
「それってミネズミ?」
頷くと、「どうせ逃がすんだよね」と彼女は言った。
その言葉には私はすぐには頷けなかった。プラズマ団の教えに従ってこのポケモンを逃がす。しかし、それはかつて秘伝技を使わせるためだけに育てていたどこかのトレーナーと何が違うというのだろう。必要になったから育てて、必要なくなったから逃がす。それは結局のところ、人間のエゴに過ぎないのではないか。
私はミネズミを逃がしたくないとその頃から心の奥底で感じ始めていたのかもしれない。
それから三年後にはプラズマ団の考えは驚くほどに広まった。ゲーチス様は街頭演説を憚る事なく行うようになったし、N様はプラズマ団の王として自身の責務を自覚されるようになった。
電気石の洞穴で私はN様の護衛の任務に就いたのだが、一人のトレーナーの前に私は成す術もなく敗北した。思い違いだろうか。私にはそのトレーナーの瞳に宿す光が、いつかミネズミを抱えたN様と重なって見えた。この世界でN様と同じ地平に立てる人間がいるとは思えない。しかし、私にとってそれはただの敗北では決してなかったのだ。
傷ついたミネズミをすぐにポケモンセンターへと運ぼうとしたがダークトリニティがそれを阻んだ。
「何を」と私の声に、「プラズマ団が民衆に屈してどうする?」とダークトリニティは言ってきた。
「そのミネズミは自身で癒せ」
私はミネズミを抱えてN様の城へと戻っていった。いずれイッシュの地は大きな転換期を迎える事だろう。この城がポケモンリーグを囲み、N様が英雄となって揺籃の中にあったイッシュの人々に天罰を下すはずだ。
その前に私は決断に迫られていた。
ミネズミとの関係性だ。
私は道具としてしか見ていない。そのつもりだった。しかし、ミネズミと私はいつしかそれ以上の関係性になっていた。ミネズミは私に何を期待しているのだろう。ポケモンと人間とは何なのだろう、と考え始めた。考えは簡単に纏る事はなかった。私は堪りかねてN様への謁見を申し出たが、その時にはN様は英雄への階段を上られている最中だった。当然、私のようなヒラ団員がどうにか出来る範囲ではなく謁見は断られた。しかし、N様は一言だけ、私に振り向けてくれた。
「ミネズミとキミとの関係は、もうキミ達のものだ。ボクだって容易には踏み込めない。キミ達で決着をつけるんだ」
N様は驚く事に私の事とミネズミの事を覚えておいでだった。ただの一団員に過ぎない私とその手持ちであるミネズミを記憶の片隅にでも置いてくれていたのだ。
私は今、ミネズミと向き合っている。ミネズミはもう噛み付いたり、引っかいたりはしない。私の事をその眼差しで真っ直ぐに見つめ返してくれる。
もうすぐN様の城が浮かび上がる。あのトレーナーも現れるだろう。理想と現実を体現する存在として。英雄伝説が新たに刻み込まれる。
ただ私達の関係はそんな大それたものではない。結局のところ、歴史に取りこぼされ、消えていく刹那の決断に過ぎない。私の決断が世界を揺るがすわけではないように、ミネズミとの関係も一瞬の事なのかもしれない。過ぎてみれば別段大した事もない。一生の中で繰り返す出会いと別れの一つだろう。
私はずっとポケモンは道具として接してきた。そのほうがお互いに傷つかずに済むだろう。どうせ別れるのだ。どうせ解放すればどことも知れぬ場所へと消えて行くのだから。
しかし、今は、その時が訪れないで欲しい、と切に願う自分がいる。ミネズミはただのポケモンではない。私にとっては、かけがえのない存在になっていた。否定する言葉はいくらでも浮かぶ。だが、それらが決定的な断絶にならないのは、私のミネズミに接する気持ちが変化したからか、それともミネズミが私を見る目が変化したからか。
どちらにせよ、私達は決断の時を迫られていた。N様も決断するために傷つき、自身を削り落とすかのように戦っている。
私もこの気持ちに決着をつけよう。プラズマ団ではなく一人のトレーナーとして。
ミネズミとの出会いと訪れるであろう別れに。
ここで文章が途切れている。
彼≠ヘNの城に訪れていた。もう二年も前になる。残骸は跡形もなく消し去られたかに思えたが、まだ残っているセクションがあったようだ。その中の一つ、ライブキャスターの履歴に彼女の思いの丈が残っていた。プラズマ団であったのだろう彼女の記憶は残念ながら自分の中にはない。激動の時代の中を、あの時皆が生きていたのだ。それは何も自分とNだけではない。
顔を上げると黒い龍が自分を見下ろしていた。赤い眼が告げている。
――もう行かなくちゃ。
あの時旅立ってしまった友を探しに。お互いの片割れを探す旅路へと。
最後に彼≠ヘボロボロになってしまったライブキャスターにメッセージを吹き込んだ。
――どうか。ミネズミと彼女の行く先に幸福があるように。
黒い龍に跨って、理想と現実の果てを彼≠ヘ行く事になった。どこまでも果てない空が広がっている。
この空の下で、彼女とミネズミの両方が幸せになれる未来を。