第七章 六節「黄金の誓い」
ここで断れば、という考えも浮かんだが、それは最初から判断の中には入らないだろう。既にレナも自分も変化の境地にある。後戻り出来ない事は明白だった。背後のシャッターが開き、レナが立っていた。ユウキの腕を見やり、「何されたのか知らないけれど」と口を開く。
「あなた達、あたし達をモルモットみたいに考えているんじゃないでしょうね?」
レナが白衣のポケットに手を入れながら威風堂々と声にする。ユウキも懸念していたことだけに真剣な眼差しを監視カメラに向けた。キーリが応じようとすると、Fが先んじて声を発する。
『そのようなつもりはない。ワタシと君達は対等だ。モルモットなど、決して。仲間として君達と我々は協力すべきだ』
「そう、でもね、ユウキに手を出した以上、あなた達だってもう引き返せない。あたしが引き返させない」
張り詰めた声音にユウキが立ち上がり、レナの前に手を翳した。右手を握り締めて拳を作り、「大丈夫」と声を出してみせる。
「僕は大丈夫ですから。それよりも、僕は悔しい」
「悔しい? 何が?」
「女性にそんな男らしい言葉を言われた事がですよ」
ユウキが口にするとレナはきょとんと目を丸くした。キーリがぷっと吹き出す。Kは無表情のままだ。ユウキは一歩踏み出して、「今度は僕から言わせてもらいます」と口を開いた。
「レナさんを害する気なら、僕も黙ってはいない。徹底抗戦に打って出る」
ユウキの言葉にFは、「ほう」と感嘆したような息をついた。キーリがにやりと笑う。
『君達の覚悟は賞賛に値する。ワタシの眼に狂いはなかった。あの時、立ち向かった人々とやはり同じ光を君達は湛えている。それは正義も悪も超えた、意志の煌きだ。宿された意志は炎より熱く、ダイヤモンドよりも壊れない。そのような意志の輝きを放つ人々と共に戦えた事を、これからも君達と共に戦える事をワタシは誇りに思う』
「安全圏から見下ろしているくせに」
レナが吐き捨てると、Fは、『そう見えるかもしれない』と返した。
『だが、ワタシは常に君達と共にあるつもりだ。どうか、教えて欲しい。リヴァイヴ団のボスのポケモン、その邪悪の根源を』
ユウキはレナと視線を交わし合う。レナは一つ息をついてから頷いた。もう言うしかないと判断したのだろう。ユウキも同じ気持ちだった。これ以上の交渉には、こちらのカードを提示する必要がある。
「いいわ。話しましょう。あたし達の知り得た、全てを」
レナは簡潔にFへと語った。リヴァイヴ団、真のボス、カルマ。その手持ちポケモン、デオキシスについて。自分はデオキシスの遺伝子調整を任されており、デオキシスというポケモンは四つの形態にフォルムチェンジするという事を。全てを語り終えた後、キーリが歩み出した。どこへ向かうのかと思えば、コーヒーメーカーからカップへと黒々とした液体を注ぎ、湯気の立つカップを二人へと差し出した。キーリなりの礼節なのだろうか。「何?」とレナが鋭く見下ろすと、「お礼よ」とキーリはつっけんどんに返した。
「パパとママの協力をしてくれたお礼。私は何とも思ってないわ。当然の義務だと思っているし」
キーリがぷいと顔を背ける。ユウキは左手でカップを受け取って、「ありがとう」と笑顔を返す。キーリが頬を紅潮させた。それを見てレナがぷっと吹き出す。
「笑うな!」
「ええ、分かっているわ。ありがとう」
レナもカップを受け取って一口含む。しかし、すぐに渋い顔になった。ユウキも口に運ぶが、酸っぱくてお世辞にも美味だとは言い難い。
「特徴的な味ね」
レナが精一杯の礼節を口にする。キーリは椅子へと戻っていた。ふんぞり返って座り込み、「デオキシス、ねぇ」と頬杖をついた。
「知っているの?」
レナが訊くと、「データベースには存在するわ」とキーリが端末へと向き直ってキーを打ち込んだ。たちまち画面上にデオキシスの姿が現れる。3Dで構成されたワイヤーフレームである。
「随分前に、宇宙放射線の影響でいくつかの個体が確認されたわ。どれも宇宙空間で付着した何らかの生物のDNAが変化を遂げてこの惑星にもたらされた。分類上はDNAポケモンと呼ばれている。ほとんど異星体と呼んでも差し支えない存在ね。少なくともこの星の理で構成されたポケモンではない。ボスはどうやってこのポケモンを入手したのかしら?」
キーリが当然の疑問を口にする。ユウキもそれは気になっていたが、着眼していたのはその部分ではない。キーリへと尋ねていた。
「キーリ。デオキシスの戦闘能力について知りたい。何か、判明している事はありますか?」
「そうね。最初に確認されたのはホウエンだからホウエンのデータベースに潜入しましょう。デオキシスの第一個体はロケットに付着した肉腫が成長したらしいから」
「それって、犯罪じゃないの?」
「そうよ、ばれればね」
即座に受け答えをしてみせたキーリにユウキとレナは顔を見合わせて閉口した。キーリは迷わずホウエンの重要データベースへとハッキングを試みる。キーを打つ速度は素人目に見ても速い。ユウキには何をしているのか全く理解出来ないが、レナは口を半分開いて呆然としていた。レナが呆然とするほどの実力なのだとしたら、キーリは何者なのだろうと今さらの感情が湧き上がってきた。δ部隊二等構成員と言っていたが、まだ幼いように見える。ユウキは覚えず訊いていた。
「キーリ。君は、何歳ですか?」
「今年八歳になるわ。ヘキサ事件を知らない世代ね。政治家なんかの間じゃ、失われた時代≠ノ分類される世代だわ」
自分の世代を客観的に見ている事に舌を巻きつつ、ユウキはKを見やった。Kが冷たい眼差しをユウキへと送る。ユウキは思わず目を逸らした。キーリが八歳だという事はKが何歳の頃の子供なのかと邪推してしまったのである。少なくとも十代の頃の子供である事は明白だった。勝手に頭の中で彼女達の苦難を描いてしまった自身の愚かさに嫌気が差す。結局、自分達の辛さなど誰かに理解してもらおうとは当の本人達は考えていない事は、サカガミや自分の人生を鑑みても明らかなのに。
「その年でよく、ウィルに入ろうと思ったわね」
レナが腕を組んでキーリの背中を睨む。邪推しなかったのは同じ女性だからか、それとも何かしら通ずるものがあったからか。
「まぁね。私は飛び抜けて知能が高い事は早期に証明されていたから。その実力を活かすにはウィルに入る事が一番だと自分で判断したのよ。パパとママの手助けもしたかったし」
キーリは自分でウィルに売り込んだのだろうか。そこまで考えしまうユウキに対して、キーリは、「でもウィルは戦闘部隊。私みたいなのは売り込んだって重要視されない」と見透かしたように声に出す。
「その戦闘部隊で、よく生き残れたわね」
「カイヘンでは今や全てのポケモントレーナーには等しく首輪が付けられているわ」
キーリが片手を上げて翳す。手首にはポケッチが巻きつけられていた。キーリ自身もポケモントレーナーだという事だ。
「私には私なりの戦い方がある。ポケモンをたとえ御する事が出来なくてもね」
「ポケモンを御せない?」
ユウキが聞き返すと、キーリはハッキングの手を休めずに、「そのうち私の手持ちを教えてあげるわ」とだけ返す。ユウキとレナは黙って見守るしか出来なかった。その状況を察したのか、Fが口を開く。
『デオキシスの戦闘能力を知って、どうするつもりかな、ユウキ君』
「僕のテッカニンでも速度で勝てなかった。今まで純粋に速度で負けたのは初めてです。デオキシスは普通のポケモンじゃない」
「その感想については同感ね」とレナが頷いた。『と、言うと?』とFが尋ねる。
「マスターボールに入れられていたポケモンよ。相当な強制電波がなければ従えられないという事でしょう。それと同時に、奇妙だけど、仮説として」
レナが眼鏡のブリッジを上げる。キーリが、「オーケー、言ってみて」と背中を向けながら片手を上げる。
「デオキシスとボス、カルマは同調関係にあると思われる」
「その仮説の根拠は?」
キーリがすかさず質問してくる。戦っていた自分でさえ、同調関係にあるという確信はなかった。それを第三者であるレナが見抜けたのは何故なのか。レナはゆっくりと言葉を紡いだ。
「あたし達が逃げていく直前、入れ替わりに侵入者があった。普通ならばデオキシスを見られ、なおかつ自分の正体が露見したあたし達を優先的に狙わなければ危うい。たとえデオキシスが多少の手傷を負ったとしても。でも、追撃はなかった。それはボスとデオキシスが同調していてダメージフィードバックを恐れたから」
「確証に欠ける仮説ね」
キーリの駄目出しにも、レナはめげずに言葉を続ける。
「でも、あたしの見立てだと、あのポケモン、デオキシスには何らかの欠陥がある。そうね、ダメージを恐れるのならば耐久が脆い。長期戦には向かない、体力のないポケモンであるという事……」
レナが顎に手を添えながら発した言葉に、「さすがね、レナ・カシワギ」とキーリがキーを叩く手を止めてエンターキーをとどめに押した。どうやらハッキングが完了したようだ。デオキシスについて先ほどよりも鮮明な画像と幾つかの情報がスクロールする。
「デオキシスの欠点、それは体力。ステータス面でデオキシスは他のポケモンに遥かに劣る事が証明されている。弱点を突かれれば恐らくは一撃で沈む。伊達ではないわね、カイヘンの研究者も」
「当然」とレナは得意そうに眼鏡の縁を上げた。キーリが、「同調関係にあると判断したのもこのデータがあれば頷ける」と画面を指差した。
「戦闘データがあったわ。デオキシスは後手に回ればほとんどの場合、敗北している。そのためにデオキシスは常に先手を打つような戦法が提案されている。個体数が少ないから現実的なプランじゃないけれど、もしデオキシスを持っていたとすれば、の話ね。で、デオキシスはさっきの話にあった通り、四つのフォルムが存在する」
キーリが画面の中の一部へと拡大を促し、四分割された画像を大型のモニターに映した。ユウキとレナはそちらへと視線を移す。両手がしっかりと存在し、人型に近いフォルム。ガムのように扁平な手足に、宇宙服を思わせるフォルム。頭頂部が尖っており、全身が鋭角的なフォルム。後頭部が突き出しており、身体に纏うオレンジ色の表皮が最も薄いフォルム――。
「それぞれのフォルムには名前がつけられてる。両手があるのはノーマルフォルム。デオキシスの基本形態。で、首の継ぎ目がなくって面長なのはディフェンスフォルム。デオキシス、防御の形態ね。この状態になったら、ほとんどの攻撃は通らない。その代わり、他のステータスはかなり削られるけど。この全身が尖っているのがアタックフォルム。攻撃形態ね。攻撃に秀でたステータスを持っているわ。最後に、全身を覆うオレンジ色の表皮が極端に薄くなっているのが、スピードフォルム。数値上の記録から言わせてもらうわ、ユウキ。あなたが戦って、速度で勝てなかったのはこのフォルムね」
キーリが振り向いてユウキへと確認の声を出す。ユウキは首肯した。
「そうです」
「勝てないのも無理はないわ。スピードフォルムは現在、確認されている中で全ポケモンから群を抜いて最速。ホウエンで記録されたから、もちろんテッカニンのデータも入っているけれど、テッカニンの速度を超えた、とある。これは人工飼育下にあるテッカニンだから、トレーナーが育成した場合とは随分と異なるだろうけれど、それでも超えられない壁がある事は歴然とした事実ね」
ユウキは言葉をなくした。レナも息を呑んだのが伝わる。そのような怪物と自分達は相対していたというのか。
「デオキシススピードフォルムをトレーナーが操る事は事実上、不可能とされているわ。このデータでもデオキシスの脳内にチップを埋め込んで命令補正をしてようやく、とある。通常の命令系統ではデオキシスの速度に人体がついていけない。目視では必ず、タイムロスが出る。そうなった場合、デオキシスのパフォーマンスはかなり落ちるらしいわね。テッカニンのほうが使い勝手がよく、人間の認識についてくる、どうやらテッカニンとの速度比較も行ったようね。デオキシスの速度はテッカニンを遥かに超える。戦闘能力も含めればまさしく無敵。それがスピードフォルムみたい」
「……だとしたら、どうやって勝つんです」
絶望的な宣告が続く中、ユウキは声を搾り出した。キーリとKがユウキへと視線を向ける。ユウキは右手の拳を固めて、「僕は」と口を開く。
「勝たなきゃならないんだ。ランポのため、仲間達のために。人の命を道具としか思っていないようなボスとは対峙しなくっちゃならない。でも、僕とテッカニンではいつまで経っても追いつけない。そんなんじゃ……」
悔しさを滲ませてユウキは拳を額に当てた。黄金の誓いも、圧倒的現実の前では無意味だと言うのか。キーリは、「まぁ、落ち着きなさい」と声を発した。
「誰も勝てないとは言っていないわ」
その言葉にユウキは顔を上げた。レナも、「出来るの?」と声を出す。キーリは、「可能性はゼロじゃない」と応じる。
「ボスがデオキシスと同調しているとすれば、かなり慎重を期す事が予想される。同調しているポケモンの死は自分の死へと直結するから。どんな粗悪なワイアードなのかは知らないけれど、私達δ部隊よりかは下の技術と考えていいでしょう。ユウキ、さっきのシンクロよりもボスのシンクロは弱いわ。それだけは断言出来る」
「本当かしら?」とレナが訝しげに声を発する。キーリは、「信用なさい」と年に似つかわしくない声音で返した。
「私達の叡智を結集した技術よ。自分だけで独占している人間よりも弱い理屈はない」
「ボスの同調がどのような方法によるものなのかは分かりかねますが」
ユウキはFが見ているであろう監視カメラへと視線を投じた。
「僕は負けない」
その決意の言葉にレナも歩み出た。
「あたしも微弱ながら協力するわ。ユウキの傷だって完治したわけじゃない。一人でも多くの戦力が欲しい。違う?」
二人の言葉にFは苦笑を漏らしたようだった。
『なるほど。そうだな。君達は傷を癒し、万全を期してリヴァイヴ団とウィル、両方と戦ってもらわなければならない。RH計画の全貌を知り、カルマを白日の下に晒す。我らの利害は一致したな』
「どうかしらね。あなたの考えている事はまだよく分からないわ」
腕を組んで発したレナの苦言にFは、『杞憂だ』と告げる。
『少なくとも大した思惑はない。本当だ』
それこそ疑わしい、とユウキは感じていた。大した思惑も野望もない人間がここまでするだろうか。必ず、押し隠した何かがある。ユウキは完全にFに全権を任せる事は出来ないと感じていた。どこかで独自の判断が求められる。そのはずだ、と。
「ユウキ。あなたには武器を与えるわ」
キーリの声に、「武器?」と聞き返す。キーリは端末のウィンドウを呼び出し、「これよ」と告げた。そこに描かれていたのは鋭角的なフォルムを持つバイクだ。
「開発中だけど半年以内に完成する見込み。戦うにも足が必要でしょう」
「免許を持っていませんけど」
「自転車と要領は同じよ。難しく考える必要はないわ。オーダーがあるのなら、これにも同調機能をつけてもいい」
ユウキは微笑んでやんわりと首を振った。先ほどのような感覚が分散してうまくコントロール出来る自信がない。
「どちらにせよ、ユウキ。あなたは強くなる必要がある。これは最早、決定事項よ」
キーリに強く言われてユウキはたじろいだが、レナも頷く。
「そうね。あたしも、もっと力をつける必要がある。リヴァイヴ団とウィル、両方を相手取るのなら」
思わず握り締めた拳へと視線を落とした。レナはどこまで本気なのだろう。レナまで身を投じる必要はないと考えていたが、それは戦いに赴く者を侮辱する言葉だとそっと胸の中に仕舞った。
『RH計画の阻止。カルマとの戦い。どちらも避けられぬ運命だ。我々は力を合わせなくてはならない』
キーリが歩み出て手を差し出す。ユウキが惑っていると、その手を軽く振って、「握りなさい」と命令された。
「これは契約よ。ユウキ、レナ、あなた達を歓迎するわ」
ユウキは幼く紅葉のように小さな手へと視線を落とす。その手に全権が任せられている。その現実はどこか遊離していたが、今はそれが真実だ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ユウキはその手を握り返した。
薄く瞼を開けると、白熱電球の光が網膜に焼きついた。ユウキは上体を起こす。腹部を押さえた。この半年間で傷は完治したが、まだ痕は残っている。ポケモンに刻まれた傷は癒えぬ傷痕となるらしい。そのポケモンを倒さない限りは。
「僕は、カルマを倒す」
そして黄金の誓いを果たすのだ。ユウキは最早迷いなど微塵にもない双眸を中空に投じた。