第六章 二十二節「テクワ」
ツンベアーの姿が掻き消える。
テクワは弾かれたように動き出した。視界から消えたツンベアーは必ずテクワとドラピオンの死角をついた攻撃をしてくる。ドラピオンとテクワは背中合わせに周囲へと注意を巡らせなければならなかった。ライフルを構え、片方がドラピオンの視界と同期したまま、テクワが息をつく。
「どこへ……」
その時、頭上からプレッシャーの圧が雨のように降り注いだ。テクワが顔を上げると、ツンベアーが身体を広げ、巨大な影となって降り立ってきた。舌打ち混じりに、ドラピオンへと指示を出す。
「炎の牙で応戦しろ!」
ドラピオンの口腔内から熱気が放射され、酸素と結合し炎熱の牙を生じさせる。ドラピオンはツンベアーへと飛びかかった。ツンベアーが氷柱を叩き落す。ドラピオンの炎の牙が氷柱を噛み砕いた。
感知野に舌打ちが聞こえ、ツンベアーの姿が再び瞬きと共に掻き消える。テクワは、「またかよ、チクショウ」と悪態をついた。恐らくはゴチルゼルの「テレポート」でツンベアーを移動させながら戦っているのだ。気配は感知野の網で僅かに拾い上げられるだけだ。拾い上げたと思った時には、ツンベアーは出現している。勝機を得るためにはツンベアーの出現位置に先回りして必殺の一撃を叩き込むしかない。しかし、今のテクワとドラピオンでは出現位置の特定までは出来なかった。
「やられるのを待つしかねぇのか……」
思わず滲んだ不安につけ込むように、プレッシャーの波が駆け抜けた。ツンベアーがテクワの真正面に出現する。ドラピオンはすぐには攻撃出来ない。ツンベアーが氷柱を保持した腕を振り上げる。後ずさろうとするが、脛の痛みが邪魔をした。まるで呪縛のようにその場によろめく。ツンベアーが氷柱を振り落とした。
――やられる、と確信した瞬間、ドラピオンがテクワを押し出して腕を突き出した。
「何を――」
言う前にドラピオンの腕へと氷柱が食い込んだ。テクワは左腕に鋭角的な痛みが走ったのを覚えた。ドラピオンからのダメージフィードバックだ。
「右腕を振り上げろ! クロスポイズン!」
ドラピオンが右腕を下段から振るい上げる。紫色の瘴気を纏った鋭い一撃はツンベアーの腹部を捉えた。ツンベアーが口を開いて呻き声を上げる。
「やったか」
テクワは声を上げるがツンベアーの蒼い眼が敵意を携えて睨み据えた。まだ、終わっていない。そう感じた刹那、感知野を声が震わせる。
――ツンベアー、絶対零度。
ツンベアーの体表から可視化出来るほどの冷気が放たれる。一瞬にして窒素が凝結し、氷の腕を押し広げた。「ぜったいれいど」は一撃必殺の技だ。食らうわけにはいかない。
「ドラピオン! 突き飛ばして離脱しろ!」
ドラピオンが両腕を振るい落とし、ツンベアーの身体に一撃を見舞う。しかし、ツンベアーは離れなかった。この一撃で勝負を決めるつもりなのは明白だった。
「やられたぜ、チクショウ。今の俺達じゃ、力も覚悟も足りねぇ」
テクワは照準越しに蒼い憎しみの光を湛えたツンベアーの眼を見やる。一つだけ、この状況を打破する方法が思い浮かんだ。
――しかし、と頭を振る。これは諸刃の剣だ。うまくいかなければドラピオンも自分も死が待っている。普通に考えるならば、ドラピオンとの同調を切ってトレーナーである自分は離脱するのが賢明だろう。
「……だけど、俺は馬鹿だからさ」
フッとテクワは口元を緩めた。以前までの自分ならばそうしていただろう。マキシの父親、カタセに教えられた通りに自分の生存を最優先として戦っていたに違いない。
――ポケモンはいざとなれば見捨てろ。仲間も勝てる見込みがなければ裏切れ。決して、無謀な戦いには身を浸すな。
その教えを、今破ろうとしている。頭の中にユウキの姿がちらついた。ユウキはいつだって真っ直ぐだ。愚直に他人を信じ、ポケモンを信じている。そのあり方がテクワには眩しかった。だが、ただ眩しいだけで終わらせるつもりはない。
「俺も、お前みたいになれるかな。そのチャンスは、あるよな」
師と仰いだカタセの教えよりも、今はユウキの後姿だった。羨望ではない。追いつくのだ。自分とドラピオンにはそれが出来る。
「行くぜ。手加減なしだ!」
テクワはドラピオンとの同調を高めた。同調を高めるにはドラピオンの中へと自身を浸透させるイメージを持てばいい。ドラピオンの神経や血脈と自身を同一化させる。
意識が加速し、脳髄から送られる思考がぎりぎりまで引き絞られるのを感じる。テクワは左眼を一度閉じ、やがてゆっくりと開いた。緑色の眼は蒼く光っていた。完全に同一化した視界の中にツンベアーの巨躯が映る。たじろぎそうになりながらも、テクワは自身を鼓舞した。恐れはポケモンに直接伝わる。今は、勝てることだけを考えろ。
ドラピオンの尻尾が持ち上がり、ツンベアーの頭部を捉えた。ツンベアーの頭頂部へと一撃、毒針が放たれる。ツンベアーから放たれる冷気が緩んだ。その隙を見逃さず、テクワはツンベアーの懐へと入る。両手に氷柱を保持したツンベアーが威圧的に見下ろす。テクワはドラピオンへと思惟を飛ばした。ドラピオンが振り上げた両腕が紫色の瘴気を纏って交差し、ツンベアーの手首を抉った。ツンベアーの手首から血が迸り、氷柱の形成を甘くする。
「掌にエネルギーを集中させるポケモンには必ずエネルギーが凝結する箇所が存在する。そこを封じるが掻っ切ってやれば、もうそこからエネルギーは放てない」
手首から鮮血と共に冷気が流れ出る。ドラピオンが尻尾を上げ、狙撃姿勢に入ると、ツンベアーは咆哮して光を瞬かせた。
瞬時に掻き消えたツンベアーを、テクワは感知野の網で探す。先ほどまでとは一線を画していた。ツンベアーがどこを、どう流れてテレポートしているのか手に取るように分かる。まさしく網の如く張った感知野を震わせる重量があった。その一点へとテクワは意識を集中する。ドラピオンが素早く動き、尻尾をそちらへと向けた。テクワの真後ろだった。
テクワはライフルの照準をドラピオンに向けたまま、引き金を絞った。ドラピオンから放たれた毒針が肩のすぐ脇を通り抜け、背後から現れたツンベアーの左眼に突き刺さった。ツンベアーが両目を押さえて吼える。テクワは振り返って照準越しにツンベアーを見た。ドラピオンと同期した視界にはツンベアーの急所が明確に分かる。テクワは正確に、静脈へと注射するような心地で引き金を引いた。精密なドラピオンの狙撃が急所を射抜く。ツンベアーは仰け反って後ずさった。全身から血を迸らせ、よろめいて裂けた口で叫ぶ。再び掻き消えようと体勢を沈ませたツンベアーへとテクワは言い放った。
「終わりだ」
その言葉と共に弾き出された毒針はツンベアーの肩に乗っているゴチルゼルの眉間を撃ち抜いた。ゴチルゼルが後ろから糸で引かれたようにツンベアーから転げ落ちる。ツンベアーはゴチルゼルの助けが得られないと知るや鋭い爪でゴチルゼルの頭を叩き潰した。血が撒き散らされ、テクワが顔をしかめる。
「てめぇの勝手で手持ち殺すような奴が、まともであるはずがないのさ。一蓮托生だって事、分からせてやるぜ」
テクワは引き金を引いた。撃ち出された毒針がツンベアーの大腿部に命中する。ツンベアーが膝を折った。テクワはさらに肩口へとわざと狙いを逸らした一撃を与えた。ツンベアーが肩を押さえる。身体を引きずって、ツンベアーは屋上の縁まで辿り着いた。しかし、テレポートの出来るゴチルゼルは既に殺してしまっている。畢竟、手詰まりだと感じたのかツンベアーはテクワとドラピオンに向けて咆哮した。しかし、今さらこけおどしが通じるような相手ではない。テクワはゆっくりと歩みながら、口を開いた。
「痛みってのはな。最後まで背負って生きていくもんなんだ。都合よく切り捨てられたり、なくしたりできるもんじゃないのさ。じゃあな」
照準でツンベアーの眉間へと狙いを定める。ツンベアーが口から血の泡を飛ばして声を轟かせる。
テクワは負けじと雄叫びを返した。
引き金を引き、同調したドラピオンが毒針を発射する。毒針は正確無比にツンベアーの眉間に命中する。しかし、一撃では頭蓋を貫通しない。テクワは引き続き撃ち放った。同じ箇所へと連続して毒針を撃つ。弾丸が前の弾丸を押しやり、四発を要してようやくツンベアーを撃ち抜いた。ツンベアーが弾痕から硝煙を棚引かせながら後方へと引き倒される。ツンベアーの身体はビルの合間へと消えていった。
テクワは荒い息をつきながら照準から目を離し、額に浮いた汗を拭う。恐らくはツンベアーも、操っていたトレーナーも死んだだろう。テクワはこの戦いで得た力を反芻する。視界に映るのはドラピオンと同一化した景色だ。ためしにライフルを折り畳んで、ドラピオンを戻してみると、視界は闇に包まれた。それでも鋭敏化した感覚が周囲の気配を伝えてくる。翅を震わせる空中部隊や、地上に渦巻く人々の阿鼻叫喚が感知野に入ってくる。
「なるほどな。眼が見えない代わりに得たのがこれってわけかよ」
ドラピオンを出している時だけ視界が戻るのだろう。通常時は盲目として振舞うしかない。テクワは息をついて仲間達の気配の把握に努めた。極大化した感知野が空間を飛び越えて一人一人の息遣いを探る。自分が指揮する部下達はポケモンを失った人間もいるがほとんどは無事だ。それよりも、とテクワは他の気配へと意識を走らせる。マキシは地上で立ち止まっている。どうしてなのか、と思っていると近くに見知った気配を感じた。
「カタセさんか……」
どうしてここに、と考えたが分かりきっている事だ。ウィルとしてリヴァイヴ団の駆逐に向かったのだろう。テクワは先ほどまでエドガー達のいたビルへと感覚を研ぎ澄ます。しかし、見知った生命反応は得られなかった。まさか――、と浮かんだ最悪の考えにテクワは額に汗を滲ませる。
「落ち着け。俺の感覚が正しいとは限らない」
そう言い聞かせるも、意識の網が様々な声と存在を拾い上げる。
「リーダーは、無事か。ユウキは……」
ランポのいるビルへと感知野の手を伸ばす。最上階にユウキの息遣いを感じた。レナも近くにいるようである。しかし、その鼓動と気配が不意に小さくなった。ユウキを形作る精神と肉体の脈拍が収縮し、遂には灯火のように消え去った。テクワはうろたえ気味に周囲を見渡す。闇に沈んだ視界の中、テクワは叫んだ。
「ユウキ、まさか……! ユウキ!」