第六章 二十節「myself:yourself」
闇が足元から這い登ってくる。
ミツヤはそこから動けなくなるのをいち早く察知した。このままではエドガーも自分も共倒れだ。当然、団員達も命を落とすだろう。だが、希望を繋ぐ唯一の手立てがある。
「ゴルーグ! これを!」
ホルスターからポリゴンの入ったモンスターボールを引き抜いてゴルーグへと投げた。トリックルーム内のゴルーグの動作は素早く、ミツヤが投げたボールを掴む事が出来た。ミツヤは微笑みながら敬礼をした。頬が痙攣している。膝が笑っている。それでも精一杯、平静を保った。
「ゴルーグ! 旦那を頼む!」
ミツヤは飛び去っていくゴルーグを見送った。影が足を床に固定する。もうここからは動けない。それが分かっていたが、ミツヤの心の中を照らす灯火は消えなかった。
「旦那。あんたは生きるんだ。生きて、明日に繋げるだけの力を持っている」
ミツヤは敵を見据える眼をカガリへと向けた。カガリは左肩口を押さえながら、憎悪に染まった瞳でミツヤを見下ろしている。ゴルーグを気にしていないのがせめてもの救いだった。
「逃げるか。まぁ、いいさ。俺に勝てないと悟ったんだ。賢い選択だよ」
「違うね」
ミツヤは言い放った。カガリが眉間に皺を寄せて、「何だと?」と怒りを滲ませる。
「旦那は勝つためにこの場を去ったんだ。いつか、お前を旦那は倒す。そのために、今は生きる事を選択してもらったんだ」
「何を馬鹿な。では、あんたは死ぬ事を選択したのかよ」
「それも違うね。俺は――」
指鉄砲をカガリへと真っ直ぐに向ける。ポリゴンZが腕を高速回転させ、嘴の先へとエネルギーを集束させて回転、充填した青い球体が瞬いた。余剰エネルギーが電流となってポリゴンZの表皮を跳ねる。ミツヤは叫んだ。
「死ぬつもりはない。必ず生き残る。ポリゴンZ、破壊光線!」
ミツヤの雄叫びに呼応したようにポリゴンZの嘴から青白い光条が放たれた。闇を引き裂き、カガリへと直進した光の奔流は、しかし、カガリに届く寸前で拡散した。闇が屹立し、カガリを守ったのだ。青い破壊光線の残滓が散り散りとなって消えていく。闇はギラティナの姿を取った。外套のような翼を広げ、王冠の頭部をもたげる。カガリは、「無駄だよ、無駄ァ」と哄笑を上げた。
「ノーマルタイプの技はゴースト・ドラゴンタイプのギラティナには通用しない。いくら適応力で威力を底上げしようと無駄な事なんだよぉ。今の破壊光線、まさしく無駄な足掻きだったな」
床が震える。ビルは今にも崩落しそうだった。電灯が明滅し、地鳴りが腹の底に響く。カガリが空を仰いだ。飛んでいるβ部隊の構成員から、「隊長!」と声が上がった。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫。こいつはどうやったって俺には勝てないよ。それにしても」
カガリがビルを見渡し、ポケッチへと視線を落とす。すると、何やら胡乱そうな目を向けた。
「演説が問題なく続いている。……やられたな。まんまと掴まされたわけだ。ここは本丸じゃない。まぁ、いいか。アマツさん達も動いている。俺が偽者掴んだところで、誰かが本物に辿り着くだろう。心配ない。次のシャドーダイブで全てを終わらせる」
カガリは視点をビルへと戻し、「いや」と口角を吊り上げた。
「放つまでもないか。既に勝負は決している」
壁に亀裂が走り、部屋が持ちこたえているのはほとんど奇跡だった。土煙が上がり、粉塵で視界が遮られる。ミツヤは腕を振るった。
「まだ、勝負は分からない」
「分かっているよ。ギラティナに勝つ方法はない。見たところ、そのポリゴンZは長距離射撃特化型。長距離でも減衰しない威力の破壊光線が持ち味なんだろうが、この至近距離であってもギラティナには傷一つ負わせる事は出来ない。もっともゴーストタイプの技、たとえばシャドーボールを組み込んでいる可能性もあるが、それではポリゴンZの特性を殺す結果になるだろう。それに、一撃で倒せなければ意味はない」
ギラティナが吼える。身が竦みあがりそうになりながらも、ミツヤは奥歯を食いしばり、その場に留まった。瓦礫が降り注ぎ、いつ自分が潰されてもおかしくはない。ミツヤはその状況下で、不意に口元へと笑みを浮かべた。それを怪訝そうにカガリが首を傾げる。
「何故、笑う。いかれたか?」
こめかみの横で指を回しながらカガリが口にする。ミツヤは顔を上げて、「いかれちゃ、いないさ」と告げた。カガリが眉根を寄せる。ミツヤは崩落する音に負けないように声を張り上げた。
「俺の事を! お前はただのリヴァイヴ団の団員としか思っていないだろう。でも、俺にとっての俺は!」
胸元を叩く。左胸にある「R」の矜持へと拳を当てた。命を賭けると決めた人がいる。命を賭けるに値すると思わせてくれた人達がいる。
「ただのリヴァイヴ団員じゃない。俺は、ブレイブヘキサのミツヤだ! 覚えておけ!」
発せられた声にカガリは笑い声を上げた。肩口の痛みを忘れたように手を振り翳して笑い狂う。
「だからどうだって言うんだ。覚えておくよ、無様に死んでいったリヴァイヴ団の一人としてなぁ。ギラティナ!」
名を呼ばれたギラティナが翼を広げて吼える。ミツヤはギラティナへと指鉄砲を向けた。それを見たカガリが嘲笑を浴びせる。
「馬鹿か、あんた。ギラティナには破壊光線は通じないって――」
「分かっているさ。でもまだ、トリックルームの効果は生きている!」
カガリがハッとして周囲を取り囲む立方体へと目を向けた。立方体の内部に入ると、降り注ぐ瓦礫は速度を落とす。ギラティナとポリゴンZの間でもその効果が持続している。
「ポリゴンZのほうが僅かに遅い。そのために!」
ポリゴンZの身体がにわかに光り始めた。ピンク色のオーラを身に纏い、それがギラティナへと伝播する。カガリがギラティナに目を向けた。
「この技はこっちのほうが早い! ポリゴンZ、トリック!」
光が瞬き、ギラティナの首筋へと何かが打ち込まれた。カガリがそれを見やる。ギラティナの首筋に食い込んでいるのは、弓道場の的だった。黒と白で構成された円だ。
「何を――」
「狙いの的だ。これを持たされたポケモンは……」
ポリゴンZが高速回転を始める。腕に電子を纏って集束し、嘴の前で膨大なエネルギーが弾け、ポリゴンZの本体の像を歪ませる。十字に光が交差し、青白い球体が収縮した瞬間、ミツヤは叫んだ。
「無効の攻撃が命中するようになる! ポリゴンZ、最後の破壊光線だ!」
ポリゴンZの嘴の先で充填されていたエネルギーが一挙に弾け飛び、一条の光芒が闇を引き裂いた。ギラティナが翼を盾にしようとする。しかし、狙いの的を持っているために、その攻撃は有効となった。じりじりと、輻射熱で翼が焼け焦げていく。青い光がポリゴンZの嘴から光の瀑布となって放射される。
「翼が、持たない……」
カガリが思わず口にした時、ミツヤは口元に笑みを浮かべていた。カガリは骨が浮くほどに拳を握り締めてミツヤを睨みつける。
「最初から、これが目的で……!」
「どうかな。ただ、気をつけろよ。ポリゴンZの破壊光線は並じゃない」
ポリゴンZの放つ破壊光線の光条が広がり、ギラティナの翼が煽られるように吹き飛んだ。蛇腹の本体へと破壊光線が浴びせかけられる。青白い光が闇を弾き飛ばし、ハレーションを起こしたように視界が白んでいく。破壊光線の一条の光芒がギラティナの首筋を貫いた。青い光の帯が空へと吸い込まれていく。次第に減衰していく光を見ながら、ミツヤは胸中に問いかけた。
――やったのか?
ギラティナの首には風穴が開いている。カガリが左肩を押さえたまま、右手で目元を覆っていた。破壊光線の光が完全に消え去り、青い光の残滓が浮かび上がる。舞い散る粒子の中、カガリが口を開いた。
「……よくも」
ギラティナが呻り声を上げる。王者の誇りを傷つけられた怒りの声だった。カガリが右手を下げて、怒りを滲ませた口調で言い放つ。
「よくも俺のギラティナに傷をつけてくれたな……!」
ギラティナに開いた風穴が瞬時に閉じる。ミツヤは呆然と見つめていた。今の攻撃は全力の破壊光線だ。それでもギラティナを倒す事は出来ないのか。トリックルームの立方体が薄くなり、空気に溶けていく。トリックルームの限界時間だ。ギラティナが動き出す。黒い翼を広げ、亡霊の呼び声のような風を切る音が響き渡った。ミツヤは指鉄砲を下ろした。ポリゴンZは破壊光線の反動で動けない。
「だが、一撃を与えたのは、リヴァイヴ団ではあんたが初めてだ。敬意を表して見せてやろう」
カガリは懐へと手を入れた。何かを取り出す。ミツヤはそれを見た。白金に輝く掌大の球体だ。モンスターボールか、と思ったがそうではない。表面がつやつやとした球体をカガリは掲げた。
その瞬間、ギラティナの姿が歪んだ。六本の足が仕舞いこまれ、王冠の頭部が変形する。翼がバラバラに崩れ、先端の尖った帯となった。六本の足は退化し、体表から出た棘となる。目の前のポケモンはギラティナと同一と思われる姿を取りながら、その本質が異なっているように見えた。赤い眼がミツヤを睨み据える。そのポケモンは浮き上がり、赤い触手のような帯の翼をビルへと向けた。口の部分が開閉し、咆哮を放つ。ミツヤは今にも膝から崩れ落ちそうになった。
「これ、は……」
「ギラティナの本来の姿。この世界とは理の異なる反転世界に存在するギラティナだ。その名をギラティナ、オリジンフォルム」
「オリジン、フォルムだって……」
カガリの発した声をミツヤは口の中で繰り返す事しか出来ない。ギラティナであるポケモンはさらに禍々しい姿へと変貌を遂げたように見えた。これが本来の姿だというのか。だとすれば、この世界の理の通用する相手ではない。翼が変化した帯である六本が狙いをつける。ミツヤは身体の震えが止まらなかった。しかし、ミツヤは口元に笑みを浮かべて見せた。それを怪訝そうにカガリが首を傾げる。
「さっきからあんたらは何だ? 何故、笑える?」
「繋いだからさ」
「繋いだ? 何を?」
「お前には一生分からないだろうよ」
動けないミツヤとポリゴンZを見下ろし、カガリは鼻を鳴らした。右手を掲げ、すっと振り下ろす。
「ギラティナ、シャドークロー」
帯から赤黒い旋風が放射される。散らばった禍々しい光が視界を覆い尽した時、ミツヤは終わりと共に確信を得た。
――ここで自分は朽ちるだろう。しかし、意志は繋げた。
「ランポ。俺は、うまくやれたよな」
その言葉に応ずるようにミツヤは光の中に人影を見た。それが誰なのか、一瞬で分かった。
「兄さん」
兄は光の先で笑っていた。誇らしいとでも言うように。ミツヤは問いかける。
――俺は、誇らしく生きられたかな。
自分でも分からない。しかし、兄の光は頷いてくれた。安心して、目を閉じる事が出来る。光の先へと向かう事が出来る。ミツヤは相棒であるポリゴンZへと、「すまない」と声をかけた。
「俺の我侭に付き合わせてしまった」
ポリゴン系列は人造のポケモンだ。感情論が通じる相手ではない。そう考えていても、ミツヤの口からは自然とついて出ていた。ポリゴンZが鳴き声を上げる。それを肯定と受け取るか否定と取るかは人間次第だ。しかし、今のミツヤは肯定として胸の内へと留めた。
「ありがとう」
赤黒い闇が一陣の風となり、ミツヤの身体を煽った。ビルが崩れ、闇の暴風が根こそぎ吹き飛ばしていく。闇の先に光がある。ミツヤの思惟は現実の身体を超え、闇の先に待つ光へと向かった。
完全に崩れ落ちたビルの残骸を視界に捉えて、カガリは荒い息をついた。左肩口から先が動かない。毒が回ってきているのだろう。カガリは影の地面に膝を折った。ギラティナを変化させる白金玉を懐に仕舞う。すると、ギラティナはオリジンフォルムからこの世界の姿――アナザーフォルムへと戻った。棘が六本の足となり、ばらけていた帯が一翼の黒い翼となる。王冠の頭部も形状を変え、口腔が覗いた。ギラティナがカガリへと視線を向ける。カガリは、「心配してくれてんのか?」と問いかけた。ギラティナは小さく鳴き声を発した。カガリは左肩を押さえながら、「まぁ、まだ大丈夫」と口にしたが、今の自分の状態では転進して本丸へと狙いを定める事は出来そうにない。黒煙の中に沈んだビルを眼下にしながら、カガリは忌々しげに口を開いた。
「リヴァイヴ団め。当初の目的は果たしたという事か」
このビルに展開していた部隊はダミーだったのだろう。β部隊の恥晒しだ、とカガリは額を押さえた。その時、黒々とした煙の幕を裂いて、一体のポケモンに掴まった人影が視界に入った。サヤカである。手持ちのポケモンは灰色の体表のポケモンだ。白い胸元にはM字の黒い模様がある。頭部にはリーゼントのように先端の赤い鶏冠があった。ムクホークという鳥ポケモンだ。ムクホークに掴まったサヤカは、「隊長!」と声を上げた。カガリはギラティナに命じて、影の地面をもう一つ作る。真横に現れた影の地面へと、ムクホークとサヤカが降り立った。
「大丈夫ですか?」
「あんまり大丈夫じゃないかも。とりあえず、人間用の毒消しって持ってる?」
「あります。すぐに応急処置をすれば」
「それでも左腕は使い物にならないだろうねぇ」
「弱気にならないでください」とサヤカが言って、毒消しの注射器を取り出した。慣れた動作で右腕に突き刺す。一瞬だけ鋭敏な痛みに顔をしかめた。
「……サヤカちゃん。俺達は完全にリヴァイヴ団に踊らされた。使命を果たせなかったんだ」
「そんな事はありません」
サヤカの声に、「どうしてそう言える?」と尋ねた。サヤカは、「カガリ隊長はβ部隊を束ねる隊長でしょう。あなたの指示に、我々は従います」と応じる。
「じゃあ、俺の指示が駄目だったわけか」
「違います。隊長は立派に戦いました」
「慰めどうも。でもさ、結果論では駄目だったんだよねぇ」
粉塵が舞い散るビルの跡地を眺めながら口にすると、苦々しさがこみ上げる。無能の烙印を押されても文句は言えない。そう考えていると、不意にサヤカが抱き寄せてきた。唐突な事にカガリは目を丸くした。
「サヤカちゃん?」
「隊長は頑張りましたよ」
優しく頭を撫でてくれる。カガリは目を伏せて、「頑張ってないよ……」と呟いた。「頑張りましたよ」とサヤカは柔らかな声で口にした。カガリは目を閉じた。母親の腕の中にあるような安息の中で、サヤカのぬくもりが通じた。