第五章 十節「終幕の序章T」
ハイウェイを降りたところでようやくポケッチによる通信が可能となった。
ユウキは秘匿回線でランポへと繋いだ。ランポは既にハリマシティへと辿り着いているのだと言う。
『タクシーを寄越すからそれに乗ってこちらへと向かえ。詳細は追って知らせる。ハリマシティにある、ハリマセントラルホテルの一室を貸し切ってある。テクワが負傷したのか?』
ユウキが通信をした事で察したのだろう。ユウキはテクワを窺った。テクワのふくらはぎを貫いている爪はそう簡単には抜けそうにない。だというのに、テクワは自力で抜こうとしていた。ユウキは通信している事を忘れて、テクワに言った。
「駄目ですよ、テクワ。抜いたら本当に出血して死んでしまいますよ」
「……いや、ホント、今にも意識落ちそうなくらい痛いんだって。これ、抜いたほうがいいんじゃねぇの?」
「痛いのは分かります。でももう少しの我慢ですから」
「我慢ってどれくらいすればいいんだよー」とテクワが呻く。一キロ近くその傷で歩いたのだから大したものだ。
『テクワの傷は酷いのか?』
「ええ、脚をやられていまして。結構重傷に見えます」
『ならば、タクシーに急がせるように伝える。とにかくハリマシティまで向かってくれ。そこの病院でなり治療を受けさせる。それでいいだろう』
「あ、はい。分かりました」
ユウキの言葉にいつもの歯切れが感じられなかったせいか、ランポが目ざとく、『どうかしたか?』と尋ねた。ユウキは頭を振った。
「いいえ。ではハリマシティで落ち合いましょう」
『ああ。無事に合流出来る事を祈っている』
その言葉を潮にして通信は切られた。ユウキがポケッチを眺めていると、テクワが苦しげに呻く。
「で、何だって?」
「もうすぐタクシーが来ます。テクワが重傷だって言ったら早く来てくれるそうです。もうちょっとの我慢ですよ」
「それだけじゃねぇような気がするけど?」
ユウキの視線の落ち着きがない事を察したのか、テクワが口にする。ユウキは、「いえ、何だか」と自分の中での違和感を形にしようとした。
「何だか?」
「ランポの様子がおかしかったような気がするんです。何だか焦っているみたいで」
「俺は今の会話を聞いていてそんな風には聞こえなかったけどな」
「気のせいでしょうか?」とユウキは頬を押さえながら尋ねる。「さぁな」とテクワはつれない様子だ。自分が重傷を負っているのだからそんなものなのかもしれない。
「俺はリーダーのやる事には文句を挟むつもりはねぇし、いいんじゃねぇか? ただお前がおかしいと感じたには何か理由があるんだろう」
「理由、ですか」
顎に手を添えて考え込む。先ほどのランポの言葉にはいつもにはない焦燥が感じられたような気がした。
「何て言うんだろう。ランポらしくない……」
「リーダーらしいのをいつも維持するのも大変なんじゃね? 今回は結構ハードな任務だったし、その疲れだろ。ランポだって人間だぜ?」
「そりゃ、そうですけど」
コウエツシティを出る時に、自分だって人間だと告げた事に起因しているのだろうか。本当に、それだけなのだろうか。それだけならばいいのだが。
ユウキは言い知れぬ不安が胸の中に広がっていくのを感じた。ランポの何気ない言葉に不安を感じるほど自分はランポの事を知っているわけではない。そのはずなのに、この胸の中を埋め尽くしていくもやもやは何なのだろう。覚えず息苦しくなって、ユウキは深く息を吸い込んだ。肺の中に取り込み直した息が少しだけ涼しく感じた。
ユウキとの通信を切って、ランポは振り返った。下品に見えぬよう、気を遣って、
「失礼。会談中に」
ランポの声はささやかなものだったが、最大限の敬意を払っているつもりだった。高級感溢れる白亜の部屋の中でソファに座った男が、「いいのかね?」と尋ねた。男は小柄だったが、高級そうな仕立てのいいスーツを着込んでおり、蛙のような顔で額にきつく皺が刻まれている。杖を持っていた。持ち手がアーボックの頭部になっている金の杖だ。一目で男の身分が自分達とは異なる事を暗に示している。及びもつかないほどの上層階級の出である事は明らかだった。ランポは恭しく頭を下げた。
「構いません。仲間からの定期通信です」
その声に蛙顔の男はフッと口元を緩めた。その笑みの意味を解せぬうちに声が響く。
「部下、とは呼ばないのだね」
ランポは一呼吸置いてから、その言葉に応じた。
「私にとってチームの面々は公平な人間です。決して実力の有無や優劣では割り切れない。だから仲間と呼ぶ事にしています」
ランポが他を憚って「私」などという外向きの言葉を使わねばならぬほど、相手の身分は高かった。ランポの矜持に男は、「ふむ」と納得したようだった。
「いい心がけだ」
「お話の途中に失礼を」
「いいさ。座りたまえ」
男に促されてランポは対面のソファに腰を下ろした。慣れぬ感触だ、とランポは内心で思うが、それをおくびにも出さずに口を開く。
「お話にあった件ですが……」
「ああ。ぜひ、君にお願いしたいと思っているんだ、ランポ」
その言葉にランポは唾を飲み下した。今、依頼されている内容は今までの任務の比ではない。そのプレッシャーが否応なく圧し掛かってくる。ランポは肘掛けを掴んだ。そのような行動に出るほどに動揺している。呼吸だけは努めて冷静にしようとしたが、逆にわざとらしくなっていないかと心配する。
「私はまだ新参です。務まるかどうか不安で……」
その言葉に男は笑い声を上げた。蛙の顔に似つかわしくない高尚さを漂わせる笑い方だ。
「心配には及ばんよ。我らリヴァイヴ団は全力でバックアップする。躍進だと思いたまえ」
男が片手を開いて軽く振った。
躍進。本当に、そう感じるだけならばどれほど楽だろうと思う。
「コウエツにいた田舎者です。大した働きが出切るかどうかは保障できません」
「いいのさ、それくらいに謙虚でなければ。ただし、リーダーの君はもっと大きく構えたまえ。でなければこの任務、こなせるかどうかは疑問視せざるを得ない」
男が蛙顔の唇の両端を広げて薄い笑みを浮かべる。ランポも薄く笑って見せたが、完全に出遅れている感は否めなかった。
――どうしたんだ、俺は。
自分にそう問い質さねばならぬほどに緊張している。緊張、という局面を今まで幾度となく味わってきたが、それまでとは一線を画す緊張感だ。
レインや他の上層部と話すのとはわけが違う。目の前にいる蛙顔の男はそれだけの権力を持っている。その立ち姿そのものが権力の象徴と言えた。
男がふわりと手を上げる。その一挙一動にランポは緊張を隠せなかった。男の横に立つ痩身の紳士が男へと葉巻を差し出した。男は葉巻をくわえ、懐からライターを取り出して火を点けた。葉巻の煙は苦手だったが、そのような事を言える局面ではない。たゆたう紫煙の向こう側で男が長く息を吐き出した。まるで蜃気楼のように男の姿が歪む。
ランポは思わず目頭を揉んだ。幻影のように消え行くかに見えたのだ。
「どうしたのかね」
男の発した声もどこか別の空間から聞こえてくるかのようだった。ランポは頭を振る。疲れているな、と自覚して言葉を発した。
「今次作戦、喜んでお受けいたします」
「それくらいの心構えじゃなくっちゃな。若い者には無茶なくらいがちょうどいい」
男は笑った。ランポは笑い返そうとして果たせなかった。
無茶程度なものか。この作戦はまさしく命を捨てろと言っているようなものだ。若者の特権がそのような作戦に向かう精神性だとするのならば、単なる捨て石として上層部は見ている可能性が高い。
だが、ランポに課せられた任務は捨て石を超える任務だ。こなせば確実に地位は上がる。今までのような穏やかな日々が嘘か幻だと思えるようになるだろう。それは、しかし決していい意味ではない。命の危険に常に晒され、仲間達にもこれまで以上の無理を強いる事となる。
「君だとウィルに信じさせるためには、それ相応の警備が必要になる。既に下準備は終わっているが、あとは君がどれだけらしく演じられるかだ」
それが最も難しい、とランポは思う。男は葉巻を指先で弄りながら、「どうかね?」と尋ねる。
「尽力いたします」
そう答えるほかなかった。「よかろう」と男はソファの背もたれに体重を預ける。
「君の事を、単なるブレイブヘキサの一団員だと知っているのは」
「ウィル戦闘部隊、第三種γ部隊には割れていると思われます。その隊長は倒しましたが、どの程度まで情報が漏れているのかは分かりません」
「いいだろう。γ部隊とやらはこちらで何とかする。してランポ、君のチームの人間についてだが」
来たか、とランポは身構える。肩を緊張で強張らせていると、男は葉巻を吸いながら言った。
「今回は多大な責任を伴う任務だ。これから先の君の動きにも影響する。どうかね。分散させてよりよい戦力として振り分けるというのは」
暗にブレイブヘキサの解散を示唆している言葉だった。最早ブレイブヘキサと言う枠組みは必要ないと組織は判断しているのだ。個人の能力をリヴァイヴ団は高く買っている。だからこそ出来る交渉なのだろう。ランポはそれだけはと腹に決めた言葉を吐き出した。
「分かりました。その事に関してはお任せいたします。ただ、一つだけ」
「何かね?」
男が首を傾げる。ランポは男の眼を真っ直ぐに見据えて言った。
「今回の演説の任務、その時まではブレイブヘキサの解散を待っていただきたい。それ以降は、リヴァイヴ団の振り分けに従います」
ランポの言葉に男は、「ふむ」と顎に手を添えた。しかし首の肉がだぶついている男に顎はないのでほとんど首筋を触っていると言ってもいい。
「いいだろう。演説任務時には君がリーダーとして命令したまえ。ただし、その場合における損害について一切組織は保障しない」
つまりはランポの命令において誰が死んでも組織は責任を取らないと言っているのだ。しかし、これはランポの中で譲れない一線だった。
「リーダーとして私が彼らに命令出来る最後の機会です。大事にしたい」
「よく分かるよ、ランポ。君は心底、リーダー気質なのだろう。部下、いや、君の流儀では仲間か。それを大切にしたい、当たり前の事だ」
男は葉巻をくわえた唇の端を斜めに吊り上げる。その表情を見て、ランポはこの男は部下の命など蚊ほどの価値も感じていないのだろうと思った。言葉の上っ面だけで「大事」だの「大切」だのを使う。ランポの嫌いなタイプだったがおくびにも出さずに、「感謝します」と頭を下げた。
「その件については追って連絡しよう。三日間は猶予があるんだ。そう焦る話でもない」
三日間しかない、と思ったがそこは考え方次第かと割り切った。男が杖を突いて立ち上がる。痩身の男が侍り、部屋を出ようとする。ランポは立ち上がってその背中を送り届けようとしたが、「ああ、いいよ。君はそのままで。疲れているだろう」と手で制された。ランポはその言葉に、「いえ。ボスの腹心と称される方を座って見送るわけには」と頑として立った。それを見て男がふぅと息をつく。
「不器用だな。そう雁字搦めになる必要もない」
今はまだ、と付け加えた。確かに今はまだ役割に絡め取られている場合ではない。いずれ、その時が来るのだ。
「君の部屋はここだ。くつろぎたまえ。ああ、それとカシワギ博士の娘の事だが」
男が顔を振り向ける。ランポは固唾を呑んだ。
「君の部下の誰でもいい。誰か決めて一任するように。しかるべき処遇が決まれば、ボス自らの勅命が下る」
男の言葉にランポは頭を下げて見送った。男がゆっくりと足を引きずりながら扉の向こうへと消えていく。ランポは扉が完全に閉まってから、緊張の糸を緩めた。
息を吐き出して、新たな空気を吸い込もうとしたが葉巻の甘ったるい匂いが鼻についた。
空調を最大にして煙を追い出し、ランポはソファに座り込んだ。随分と疲れが滲み出ている。ここ数日、張り詰める事が多かった。ようやく辿り着いたというのに、このような重責を負わされるとは思わなかった。全身が鉛のように重い。ランポは瞼を閉じた。戦闘の緊張と護衛の任務の後に加え、自分に背負わされた新たな任務。それらを頭の中で整理する。頭痛を覚えてランポは額に手をやった。立て続けとなれば、頭痛が苛む事もあるだろう。むしろ頭痛程度で済むのならば幸運だ。
「まさか、こんな事になるとはな」
その時、扉をノックする音が聞こえた。ランポが佇まいを正し、「どうぞ」と声をかける。扉が開いてエドガーとミツヤが顔を出した。古株の二人には思うところがあるのだろう。顔を翳らせている二人に、ランポは言った。
「お前らが心配する事じゃない。きちんと便宜は図ってもらえる」
「俺が言いたいのはそういう事じゃないぜ、ランポ」
エドガーが歩み出て部屋へと入ってきた。ミツヤが続いて入り、後ろ手に扉を閉める。
「どうする気だ? 俺達だけならばまだしもユウキ達はそれほど覚悟出来ているのか」
「してもらうしかない。俺の力が及ばず申し訳ないと頭を下げるしか、な」
「ランポが頭を下げる事はないですよ。むしろ、組織の奴らは何を考えているんだか……」
ミツヤが吐き捨てるように口にする。エドガーがミツヤを肘で小突いてその言葉を咎めた。
「組織の総本山だぞ。そんな発言は慎め」
「でも、旦那。あいつら俺達の事を一言だって褒めてくれたかい?」
その言葉にはエドガーも閉口するしかなかった。ランポはまたも頭痛の種が増えたのを思い知る。レナ護衛の任務をリヴァイヴ団は高く評価はしている。しかし、これから表舞台から姿を消すであろうチームに誰一人関心を払わないのは当然と言えた。
「レナは、どうしている?」
ランポの問いかけにエドガーが応じた。
「ホテルの一室に閉じこもってる。マキシが護衛についているから大丈夫だとは思うが」
「彼女なりに思うところがあるのだろうな。自分の知識がどのように利用されるのか、不安があるのだろう」
ランポはソファから立ち上がった。エドガーとミツヤを見やり、口を開く。
「お前らはここまでよく来てくれた。だが、これ以上来る義務はない。次が最後の命令だ」
その言葉にミツヤが口を開きかけて、「よせ」とエドガーに制された。エドガーはランポを見つめながら、「本当に」と言葉を発する。
「俺達はここまでなのか?」
苦渋の滲んだ質問にランポは頷いた。
「ああ。全てはユウキ達が合流してから知らせるが、俺がリーダーとして発言する機会は減ると考えてもらっていい」
「……そんな。俺達は、ランポ、あなただから着いて来たのに」
ミツヤの言葉にランポは目を閉じた。何よりも嬉しい発言だったが、今のランポからしてみれば判断を鈍らせる言葉だ。振り解くほかなかった。
「これは命令だ。俺なんかよりもずっと上の、リヴァイヴ団からの」
組織に属している以上、個人の発言する口は奪われる。分かっているはずだった。組織に長く属していれば、自然と身についているはずの所作だった。
だが、何かがランポの中で変わっていたのだ。もしかしたら、前へと進む足と言葉を持ったままのし上がれるのではないかという希望。黄金のような夢。それを覚悟として感じていた。
――きっと、ユウキと出会ったからだ。
あの出会いが自分を変えた。ただのチンピラとして消費されていくだけのはずだった自分の価値がユウキによって問われた。自分よりも随分と年下の青二才の子供に教えられたのだ。いつからでもやり直せる事を。
しかし、その夢も希望も潰えようとしていた。他ならぬ現実と言う圧倒的な力によって。
「ランポ……」とエドガーが不安そうな声を出す。表情を曇らせていたせいだろう。ランポは頭を振って思考を切り替えた。
「ユウキ達が到着するまで待ってくれ。それまでにそれぞれの意見を纏めて欲しい。酷な選択を迫っているのは百も承知だ」
ユウキ達がこのホテルに着くまで。それは決断するには短い時間だろう。せめて猶予の時間は与えたかった。ランポの親心を察したのか、エドガーがミツヤの腕を引っ張った。
「行こうぜ」
「でもよ。ランポが――」
「俺達には俺達にしか出来ない事がある。今はランポと言い合っている場合じゃないだろ」
その言葉にミツヤは抗弁の口を閉ざした。ランポは、「行ってくれ。俺も少し一人で考えたい」とミツヤを納得させようとした。ミツヤは渋々ながら承服したように頷き、エドガーと共に部屋を後にした。ランポはソファに深く腰かけて息をついた。葉巻の臭いはもうほとんど外に追い出されていた。
――ため息の種も一緒に出て行ってくれないものか。
浮かんだ考えに我ながら自嘲も出来ないと感じて、ランポは顔を拭った。