第五章 八節「少年A」
少年は自分の母親が迫害される対象だと認識したのは十歳の時だ。
それまでは母親の隠し持っている黒い服の意味が今一つ分かっていなかった。ミサワタウンのヒグチ博士の家に居候して早三年。少年は博士を父親のように思っていたし、母親もそのように振る舞っていた。時々帰ってくる博士の娘のサキやマコとはよく遊ぶ仲だった。とは言っても、マコが遊んでくれるだけでサキは仏頂面をして見ているだけである。
「サキ姉ちゃん、遊ぼう」と言うと、サキは何かしら理由をつけて、「どうして私がガキと遊ばなきゃならないんだ」と二言目には言うのだが、結局は不器用ながらも遊んでくれていた。
少年はその現状に満足していた。
二人の姉がいるようなものだった。
全てが満ち足りていたと思っていた少年が違和感を覚えたのは十歳になった時の夏の出来事だった。
ミサワタウンへと行政指導と共にある集団が居つき始めた。
緑色の制服を身に纏った彼らの事をウィルだと知ったのは後の話だが、少年は彼らを侵略者の類だと思った。
何故ならば、定期的に家を訪れては母親に何か含めるような言い方をして、次に博士を責めるのである。母親は博士や他人の前では決して泣かなかったが、洗面所でひそかに涙を流していた事を少年は知っていた。
少年は力になりたかった。母親の境遇を救えるだけの力を手にしたかった。そのために彼は手持ちのスコルピと共に、ミサワタウンのウィル駐屯地へと殴り込みをかけた。
もちろん、脆弱な少年の力ではウィルに敵うはずもなかった。スコルピは瀕死の重傷を負わされ、少年はその時の戦いによって右眼を負傷した。角膜に傷がついた程度だったので大した事はなかったのだが、少年にとってそれは屈辱的な敗北の記憶となった。母親に涙を流させ、父親同然の博士を責め立てる相手から嘲笑を浴びせかけられた。
「世界の敵の子供が、いきがりやがって」
「ガキに何が出来るっていうんだよ。帰って大人しくしてな」
少年はそれらの言葉を信じなかった。
少年の心の中には子供であっても、世界の敵と蔑まれても果敢に立ち向かった人々の記憶があったからだ。
彼らのように自分もなりたい。いや、ならなければ。
その思いは次第に強くなり、彼に一つの決意をさせた。研究所には様々な薬品がある。
彼は博士が厳重に保管している薬品に手をつけた。スコルピを治すために必要だったのと、自分を強くするために必要だった。全てを秘密のうちに行ったのは、彼らウィルの行いが世間では正しいと評価されているためだ。それに歯向かった自分は褒められる事は決してないだろうという予感はしていた。もしかしたら、彼らによって涙を流している母親の手で、自分を殴らせる結果になるかもしれない。それは母親にとっても、何よりも自分にとっても辛い結末だろう。
保管場所の金庫の暗証番号は幸いにも母親の生年月日だった。少年は金庫の中に仕舞ってあったそれを手に入れた。
青い液体の揺れる注射器だ。注射は苦手だったが、スコルピのためだと思い、スコルピにまずは打ち込んでから、自分にも打ち込む事にした。
スコルピは打ち込まれた瞬間、苦しげに身体を硬直させた。その動きに少年は恐怖したが、重傷を受けているのだから当然だろうと、自分の腕に注射をする事を決意させた。
その時に少年は世界が揺らめいたのを覚えている。スコルピのダメージが自分にも及び、少年はその場に倒れ伏した。
痙攣する少年を見つけ出した博士は、すぐさま治療に取りかかった。少年は三日間高熱を出し、右眼はその時に腐り落ちた。新たに目を開いた時、右の視界が闇に包まれているのを少年は知った。
少年は鏡に映った自分を見て呆然とした。
右眼だけが蒼くなっているのだ。
それだけではない。右眼の視界は闇に閉ざされたままだった。少年は博士から事情を聞かされた。
少年の打ち込んだ薬物はポケモンと人間の垣根を超える、あってはならない薬物であった事を。かつての敵であったヘキサやディルファンスが用いていたものを秘密裏に解析するために博士は持っていたのだ。少年はその薬物によってスコルピと同調する能力を得た。同調、の意味が最初少年には分からなかったが、博士による説明で分かった。ポケモンと同じ部位に傷を負い、ポケモンと同じ視界を得る事が出来る。それによってポケモンバトルでは優位に立つ事が出来るという。少年は素直に喜んだ。自分にそのような特別な力が備わった事で、ウィルからみんなを救えると思ったのだ。しかし、それはとんだ思い違いだった事を少年は思い知る事になる。
少年はまず、駐屯地のウィルの構成員に報復する事にした。スコルピとの同調により、スコルピを遠距離から操って毒で仕留めようとしたのだ。その目論見は半分の構成員を仕留めたところで成功したかに思われた。
しかし、気づいた構成員によってスコルピが攻撃された瞬間、少年は博士の言っていたダメージフィードバックを思い出した。スコルピの負った傷はそのまま少年の傷となり、全身に生傷をつけて帰ってきた息子を見て母親は叱りつけた。少年の頬を叩き、母親は言った。
「二度とこんな事をするんじゃない」
母親の言葉に少年はショックを受けた。全ては母親と博士のためにやった事なのに、結果的に二人を悲しませてしまった。どうすればいいのか、途方に暮れた少年はある日、奇妙なものを携えた男が研究所を訪れたのを見た。黒髪のまだ若そうな男だった。彼に連れ立って家族も越してきた。
スナイパーライフル一体型のモンスターボールを携えた男は、博士の友人のようだった。少年は壁に寄り添ってひそかに男と博士の会話を聞いた。
「カントーが試作段階に造っていたライフル一体型のモンスターボールだ。何でも照準を覗き込んで同期した視界による精密狙撃を可能にするんだと」
「しかし、こんなものを造って何になる? 同調なんてまだ学会ではまゆつば物だ」
「ヒグチ。あんたは同調したポケモンとトレーナーを見たのだろう?」
「彼らは特殊な例だ。一般的にこのような武器を普及させるのはおかしい。同調の存在を認める事になる。そうなれば困る輩も学会には大勢いるだろう」
男と博士が腕を組んで考え込んでいる中、少年は自分ならばと考えた。自分の能力ならライフルを使いこなせるのではないか。男は、「とりあえずこれは俺が預かる」とライフルを持って帰ろうとした。その背へと少年は呼びかけた。男は怪訝そうに少年を見下ろして言った。
「どうしたボウズ。見た事があるな。……ああ、ヨシノさんの息子さんか。大きくなったな。その眼はどうした?」
少年は男へと全てを打ち明けた。自分が同調の薬物を使った事、自分ならばそのライフルを使いこなせる事を。男は子供の妄言と思わずに一部始終をしっかりと聞いてから、一つ頷いた。
「ならば、ボウズ。お前はこのライフルで何をするつもりだ?」
訊かれた意味が分からず少年はきょとんとする。男はケースからライフルを取り出して、少年の銃口を額に向けた。少年は身震いするのを感じた。緊張感で身体が鉛のようになる。動けない少年へと、男は言い放つ。
「これは人を殺すために造られた道具だ。戦うため、と言い換えてもいい。お前は何のためにこれを使おうと言うんだ?」
少年はたどたどしく、みんなのために、と応じた。男は目を細めた。
「その、みんな、とは誰だ? お前は本当にそのみんなを幸せに出来るのか? 逆に悲しませるだけじゃないのか?」
その言葉に少年は押し黙った。何も言い返せない。そう感じたからだ。男は屈んで少年と目線を合わせた。
「俺にもお前と同じくらいのせがれがいる。だからこそ、間違うな、と言いたいんだ。お前は何になるつもりだ? 何者でもない人殺しでは、誰も喜ばない。何かを成すためには、……覚えておけ、ボウズ、自分が犠牲になるくらいの心持ちでいなくちゃいけない。お前が成す事でたとえ大切な人を悲しませても貫きたいのか、それとも大切な人を悲しませないためにお前が先んじて犠牲となるのか。そのために意志を貫くのかどうかだけは俺に聞かせろ。決意の決まった時に、お前の言葉で、だ。そうでなければ、お前にこれを持つ資格はない」
男の言葉に少年はすぐに返事を返せなかった。男はその日からミサワタウンに住み始めた。男の息子であるマキシは少年と同い年だったためによく遊んだが、少年の頭の中にはいつも男の言葉があった。決意する時、それはそう遠くない日に思えた。少年は数ヵ月後、男へと再び会った。
「覚悟は決めたのか、ボウズ」
男は既に少年の名前を知っているはずだったが、それでもその呼び名は崩さなかった。少年は自分の言葉で口にした。
――俺はお袋や博士の涙をもう見たくない。誰も悲しませたくないんだ。そのためなら自分を火の中に放り込んだって構わない。でもそれは、自分を大切に思わないだとかそういう事じゃ決してない。俺は自分が先に火の中を行く事によって、誰かを安心させたいんだ。火の中でも俺は元気だよ、って言いたい。そのために力が欲しい。俺が持っている力だけじゃ足りない。更なる力が。
少年の言葉を最後まで聞いて、男は頷いた。
「なるほどな。覚悟は本物だと判断しよう。ただし、その軟弱な身体じゃ戦えないな。もっと鍛えなくては。これから先、この道具を携える資格を持つまで、俺のトレーニングメニューをこなしてもらう。それが出来るか?」
男の問いかけに、少年は頷いた。迷いなどなかった。力を得るためならば火に飛び込む決意はある。「いいだろう」と男は言った。
「テクワ。お前を認めてやる」