第五章 六節「不完全なリーダー」
ランポが立ち上がりかけた瞬間、抗いがたい衝撃が身体を襲った。その場に縫い付けられたかのように動けなくなる。ランポは奥歯を噛み締めながら、指先に力を込めた。
「この技は、重力か」
「じゅうりょく」という技は相手に対して加重を与え、体感重力を何倍にも上げる技だ。主にエスパータイプのポケモンが覚える。ドクロッグがその場に膝をつく。
先ほどまでの猛攻に耐え抜いたドクロッグといえども突然の攻撃には不意をつかれた結果になった。
階段の向こうから靴音が聞こえてくる。それと同時にすすり泣くような声が聞こえた。一段一段をゆっくりと降りてくる。その姿が見えた時、ランポは青い光が周囲で揺らめいたのを感知した。ランポが動く前に光が纏いつき、ランポを突き飛ばす。ランポは仰向けに倒れた。痛みに声を上げる。神経を引き裂くような痛みが走る中、ランポは視線を向けた。
グレーの服を着たビジネスマン風の男が黒いポケモンを連れて先ほどヤグルマが落ちた穴を覗き込んでいた。男は大柄だが、少女のように泣いていた。黒いポケモンはドレスのような姿をしており、青い眼が妖艶に細められた。ゴチルゼル。エスパータイプのポケモンだ。
男は情けない声を出した。
「隊長ぉ……。ヤグルマ隊長ぉ……。どうして、こんな事になってしまったんですか。ヤグルマ隊長なら、きっとブレイブヘキサを倒してくれると思ったのに」
男は丸まって泣きじゃくった。ランポは今ならば男の隙をつけると感じた。ドクロッグで一気に接近してゴチルゼルを無効化し、トレーナーを仕留める。リーダーの死に痛みを感じている今ならば倒せると踏んだランポはドクロッグへと指示を飛ばした。
「ドクロッグ! そいつへと攻撃を――」
言いかけたランポは思わず口を噤んだ。ドクロッグの左手が再びミイラ化の侵食を受けているのだ。鉤爪が干からびて垂れ下がる。どうなっているのか、とランポが思っていると男が叫んだ。
「た、隊長ぉ!」
その声にまさか、とランポは穴へと駆け寄る。穴の底で動く機関部に挟まれ、ぐちゃぐちゃの赤に塗れながらも、ヤグルマとデスカーンは生きていた。デスカーンは身体がボロボロに崩れている。しかし、影の手を伸ばしてミイラ化を髪の毛一本の集中力で留めているようだった。
泣いていた男は目元を擦った。ぶつぶつと言葉を発する。
「……そう、だったんですね、隊長。正しきは我らにありと言ったのは、その覚悟があったからなんですね。たとえ身体が砕け散っても決して、正しさを成す心をなくさないと言うのは」
男が顔を上げる。その眼には最早迷いはなかった。全てを了解した男の眼だ、とランポは感じる。先ほどまで少女のように泣いていた人間とは一線を画している。
「分かりましたよ、隊長! このイシイ、全力をかけて隊長の仇を討ちます。隊長の意志が、行動で伝わりました。自分は、いや俺はランポを、ブレイブヘキサを倒す!」
その声にランポは気圧されるものを感じた。正しき事を成していると言う自負がイシイという男の覚悟を引き立たせている。ランポは舌打ちを漏らした。
「厄介な相手に行きあったようだな」
「お互い様だな、ランポ。もう俺は迷わない。自信もついた。隊長の心が俺の心に自信の火を灯してくれたんだ」
ランポは歯噛みした。ドクロッグが穴を飛び越えてゴチルゼルの眼前に立つのはこれでほとんど不可能になった。ゴチルゼルはエスパー特有の特殊攻撃を繰り出してくるだろう。ドクロッグのタイプは毒・格闘タイプ。圧倒的不利に立たされた状況だ。先ほどまでよりも性質が悪いかもしれない。イシイはランポとドクロッグの状態を見やり、にたりと笑った。
「左手は使い物にならないな、ランポ。右手一本でどう戦う? それにサイコキネシスでドクロッグに触れずして倒す事も出来る。俺はお前に対して圧倒的有利に立ったという事。隊長の意志が消える前に、俺がお前の息の根を止める!」
ゴチルゼルが青い光を揺らめかせ、オーラのように身体から迸る。ドクロッグの身体に纏いつこうとした瞬間、ランポは叫んだ。
「ドクロッグ。光を回避して相手へと接近だ!」
ドクロッグに前進を促した。それは後ずさって追い込まれるよりも自ら踏み込んだほうが有利だと考えたからだ。ドクロッグを包みかけていた青い光を背後に、ドクロッグの身体が穴を飛び越えようと宙に踊った。
その瞬間、ドクロッグの身体へと新たに発した青い光が纏いつき、ドクロッグの身体が宙に浮いたまま固定された。手を揺らして宙を掻くが、まるで無重力空間に晒されたように自由が利かない。
「テレキネシス。相手を浮かせて命中率を上げる技だ。このままサイコキネシスで押し潰してやろうかなぁ。……だが、その前に」
イシイが穴の底へと目を向ける。ランポはひやりとしたものを感じた。
「隊長と同じ苦しみを味わうんだな!」
「テレキネシス」が解除され、ドクロッグの身体に重力が圧し掛かってくる。急降下しかけたドクロッグへとランポが声を張り上げた。
「ドクロッグ! 壁に爪を立てろ!」
ドクロッグが咄嗟に両手を伸ばし、壁に鉤爪を引っ掻ける。火花が散り、機関部の駆動音が迫る。ランポは、「頼むぞ」と呟いていた。
機関部の直前でドクロッグは止まった。しかし、両手の鉤爪でようやく支えられている状態であり、さらに言えば左手の鉤爪はほとんど機能していない。これではいつ落ちてもおかしくなかった。
イシイが鼻を鳴らす。
「幸運な奴だ。しかし、自力では上がってこれまい。この勝負、俺の勝ち――」
その言葉が響きかけたその時だった。ランポは駆け出していた。穴を飛び越えるつもりで助走をつけ、イシイへと飛びかかる。イシイが、「馬鹿め!」と叫んだ。
「ポケモンならばいざ知らず、人間がこの穴を飛び越えられるはずがないだろうが!」
ランポはそれでも床を蹴りつけ、直後には穴へと跳躍していた。しかし、明らかに距離が足りない。ランポが落ちるのは明白だった。
「自殺か? いい判断だなぁ、ランポ! 隊長と同じ死に方をするなんて」
「それでいいのか、お前は」
ランポの発した声にイシイは目を見開いた。ランポが矢継ぎ早に口を開く。
「俺の死体がお前の敬愛する隊長と混ざるぞ。それを、お前は許せるのか? 俺は死者を侮辱しようとしている。このまま俺達の死体が混ざれば、お前の隊長への思いも消え失せる。相手のリーダーを屠った、という誉れはあるだろう。だが、俺は死の直前に、確実にお前の敬愛する隊長を殺す。それをお前は許せるのか?」
ランポの言葉にイシイは耳を塞いで後ずさった。隊長の死を侮辱するか、相手のリーダーを倒すかを天秤にかけているのだろう。ランポは確信していた。この男は覚悟を受け取って自信をつけたと言っていた。ならば、それを与えた人間が辱められるのはよしとしないはずだ。当然、取るべき行動は一つ――。
イシイは頭を抱えて、「チクショウ!」と叫んだ。
「卑怯者め! お前に隊長を汚させるかぁ!」
ランポの身体を青い光が包み込む。ドクロッグの身体も同様だった。テレキネシスの光がゆっくりとランポとドクロッグを持ち上げていく。イシイとゴチルゼルは睨む目を目の前に降り立ったランポに向けていた。
「お前は誇り高い。それゆえに俺と隊長が同じ場所で死を迎える事はよしとしないはずだと読んでいた」
ドクロッグが前に出てゴチルゼルと対峙する。イシイは頭を抱えながら、奇声を上げて仰け反った。
「くそが! 倒せたのに! どうして俺は許せなかった?」
「全てはその誇りゆえに、だ。俺がたとえばお前のリーダーだとしても、そのように教育しただろうという賭けさ。お前は自分には自信がない。だから相手に依存する。相手の意志の強さがそのままお前の強さになる。それがお前の、いやお前らの弱点だ」
ランポの声にイシイが唇を震わせながら叫びを発した。
「お前が……。お前がぁ!」
青い光がドクロッグを包もうとする。ランポは手を開いて前に突き出した。
ドクロッグが弾かれたように走り出す。ドクロッグを握り潰そうとした青い光が背後で弾け飛ぶ。ドクロッグは一瞬にしてゴチルゼルの懐へと踏み込んだ。
ゴチルゼルが反応してサイコキネシスの腕を振るうよりも早く、ドクロッグの黒いオーラを纏った拳がゴチルゼルを打ち据えた。ゴチルゼルが衝撃で後ずさる。間髪入れずにドクロッグは足を振り上げて蹴りつけた。ゴチルゼルの身体が壁にぶち当たり、動きを鈍らせる。
「接近戦ではこちらのほうが有利。残念だな。懐に潜り込まれた以上、ゴチルゼルの中距離攻撃のほうが早い道理はない」
ドクロッグがイシイの前に立つ。イシイは頬を痙攣したように震わせて喉の奥から声を搾り出した。
「こんな……、こんな事で……。ならば」
ゴチルゼルの眼が水色に光り輝き、ランポを跳び越えて船室のほうへと伸びていく。ランポは振り返った。扉がけたたましい音を立ててひしゃげ、ガラスが割れる。
「ブレイブヘキサの戦力を減らしてやる。お前には勝てないだろうさ。だが、まだミイラ化から脱し切れてないお前の仲間はどうだろうなぁ」
いやらしくイシイが嗤う。ランポは睨む目を寄越した。
「俺はお前が誇り高い戦士だと見込んでいたが、隊長の意志ももう関係ないようだな。そのような下衆の心では」
イシイは卑屈な笑みを浮かべながら、「ゴチルゼル!」と命令した。
「ミイラ化した奴はもう特定しているな。そいつをサイコキネシスで絞め殺せ!」
「させるか!」
ドクロッグの拳がイシイへと振るわれる。イシイは、「俺なんかを狙っている場合か?」と言葉を発した。
「ゴチルゼルはお前が予想しているよりも早く、正確に仲間を殺すぜ」
ゴチルゼルの水色の瞳が細められる。その時、急にその輝きが薄らいだ。ゴチルゼルが脱力したようにへたり込む。全身のリボンが垂れ下がった。異常に気づいたイシイが声を上げる。
「何だ? どうなっている?」
「ドクロッグの特性が効いてきたのさ」
ランポの声にイシイが目を慄かせた。
「ドクロッグの特性は毒手。三割の確率で、直接攻撃は相手へと毒を与える攻撃になる。ゴチルゼルは毒のダメージを受けている。その状態で正確な思念の操作は不可能だろうな」
ふらつくゴチルゼルへとイシイは怒声を飛ばした。
「ゴチルゼル! お前! この局面で何も出来ないのか? この役立たずが!」
罵倒する声が響く前にその腹腔へとドクロッグの拳が叩き込まれた。イシイが呻き声を上げる。
「下衆な野郎ほど自分の実力のなさをポケモンのせいにするもんさ。じゃあな」
ドクロッグの毒の鉤爪と拳が幾つもの線を描いて流星のようにイシイの身体へと打ち込まれる。
イシイの身体がひしゃげ、毒を打ち込まれた箇所が爛れていく。ドクロッグの拳の応酬がやみ、ランポが身を翻すと同時にドクロッグがイシイの身体を持ち上げ、そのまま機関部の穴へと放り込んだ。穴に放り込まれたイシイは声も上げずに機関部の構造の中へと吸い込まれていった。主を失ったゴチルゼルが項垂れる。ランポは懐から解毒剤を取り出した。ゴチルゼルへと歩み寄り、その手へと打ち込む。
「自分だけ生きる事に負い目を感じる必要はない。お前は自由だ。どこへでも行くがいい」
ゴチルゼルはしばらく俯いていたが、やがて青い光がゴチルゼルを包み込んだ。オーロラのように揺らめき、ゴチルゼルの姿が背景に溶けていく。「テレポート」を使っているのだと知れた。もしかしたらウィルのポケモンとして主がやられた事を報告するつもりなのかもしれない。それでも最早モンスターボールの呪縛から逃れたポケモンの行動は自由だ。ランポはそこまで介入しようとは思わなかった。
ゴチルゼルが消え失せ、ランポはその場に取り残された。ドクロッグの左手を見やると、ミイラ化した鉤爪が元の色を取り戻している。どうやらデスカーンは完全に事切れたようだった。ドクロッグに触れて状態を確かめる。ダメージはほとんど受けていないが、消耗が激しかったようだ。機関部の露出した穴を見やり、ランポは息をついた。
「組織の金で直してもらうしかなさそうだな」
その皺寄せがまた自分にも来るかと思うと嫌気が差したが、それもリーダーの務めのうちだ。ランポはポケッチを見やった。本土到着まで残り一時間だった。今はとにかく静かに待つ事だと自分に命じて、ランポはその場に座り込んだ。ドクロッグが心配そうな目を向けてくる。ランポは微笑み返した。
「大丈夫だ。ドクロッグ。俺は何ともない。お前こそ消耗した体力を戻しておくといい」
ランポはホルスターからモンスターボールを取り出し、ドクロッグへと向けた。赤い粒子がドクロッグを包み込み、モンスターボールに吸い込まれていく。ランポは一人、天井を仰いだ。天井が崩落し、床が抜け落ちている。
「金のいる用事の多い事だ」
ランポはこういう時に一服つければと思った。エドガーに煙草の一本くらいはもらっておくべきだった。指先が煙草を弄ぶ形になる。しかし、それは意味がないだろうという結論に達した。
「俺は吸えないからな。エドガーのようにはいかない」
不完全なリーダーだな、とランポは自嘲する。汽笛が鳴り響き、本土が近い事を告げた。