第五章 三節「マインドラビリンス」
ランポは受け取った封筒に視線を落として、「俺は」と口を開く。
「少し弱くなったかもしれないな」
それがどういう意味なのか、ユウキには問いかけるだけの言葉はなかった。しかし、ユウキにはランポが意志を引き継いでさらなる強さを受け止めたように見えていた。
「あなたは強いですよ」
「そうだな。強くあらねばならない。一瞬でも弱音を吐いてしまった。リーダー失格かな」
フッと口元を綻ばせるランポへとユウキは語りかけた。
「ずっと強くあれる人なんていません。いたとすれば虚栄心か、プライドで凝り固まった人間でしょう。あなたは血肉の通った僕らのリーダーだ。弱さは見せてもいいと思います」
「血肉の通った、か。これから先に戦う相手は、そんな精神論の通用する相手ではないかもしれない」
ランポが封筒を懐に入れながら呟く。ユウキは窓の外の景色を眺めながら聞いていた。
「ウィルはこれまで以上に本気になって攻めてくるだろう。俺達は心を殺して戦う必要に迫られるかもしれないな。そんな時、お前ならばどうする?」
急に尋ねられてユウキはランポへと顔を振り向けた。ランポはユウキの眼を真っ直ぐに見返してくる。嘘や詭弁では誤魔化せない事は分かりきっていた。ユウキは俯きがちに言葉を発する。
「……分かりません。僕は、今日おじさんに別れを告げてきました。三日前にとっくに覚悟は出来たと思っていた。でも、家に帰ると不思議と落ち着いて。ああ、やっぱり帰る場所があったんだ、って思ったのと同時に、僕は帰る場所を捨て切れていないんだって事も分かりました」
「そうか」
「だから、心を殺す事は、多分僕には出来ない。覚悟だって揺らいでしまう僕には、心を殺してまで戦う事は出来ないかもしれない。そこまでの覚悟を自分に問いかけられるかは、分からないんです」
正直な気持ちを吐き出したつもりだった。ランポは正面へと顔を戻して、「帰れる場所を心に持っておく事は大事な事だ」と言った。
「退路を持っておけ、という事じゃない。退路と帰れる場所は別だ。退路は臆病者達がすがり、帰れる場所は勇敢な者が手にする。帰れるという事は幸福な事なんだ。独りじゃない事の証明にもなる」
「ランポは、帰れる場所はどこなんですか?」
言ってから失言だったか、と感じたが取り下げようとは思わなかった。ランポの心の原風景を知りたかったのもある。ランポは唇を引き結んでうなった。考え込んでいるらしい。ランポには珍しいな、とユウキは感じた。
「俺の帰れる場所か」
ランポはしばらくフロントミラー越しの自分を睨んでいるようだった。運転手がその眼に気圧されたように視線を逸らす。
「仲間のいる場所、かな」
ようやく搾り出した答えにランポはすぐさま片手を掲げた。「いや、待て」と額に手をやる。ランポにしては熟考の末に答えを出そうとしているように見えた。
「今のはナシだ」
ランポの言葉にユウキは、「どうして?」と首を傾げた。ランポは視線を逸らしながら、「俺の弱さだ。見せるわけにはいかないだろう」と言った。その言葉に暫時ぽかんとしていたが、ユウキは吹き出した。
「笑わないでくれよ。自分でも恥ずかしい事を言ったのは分かっているんだ」
ランポは額に手をやって前髪を掻き分けた。ユウキは笑いながら、「いや、いいと思いますよ」とフォローの声を発した。
「ランポでも、失言する事があるんですね」
「俺は人間だぞ。失言の一つや二つはあるさ」
ようやくいつもの調子を取り戻したランポが目を向ける。ユウキは笑いながら、「マスターが」と口にした。
「ランポの事をよろしく頼むと僕に言ってくれました」
「そうか。マスターが」
ランポは窓の外に視線を向けた。タクシーはコウエツシティの中心街を走り抜けている。背の高いビル群が威圧するように立ち並んでいる。コウエツグランドホテルが視界の片隅に映り、あれが全ての始まりだった、とユウキは思いを馳せた。テクワとマキシに会い、リヴァイヴ団へと正式に入団した。たとえ何度裏切られても、信じる事を心に決めた場所でもある。
「マスターとは、長いんですか?」
ユウキは気になっていた事を訊いてみた。店主の眼にはただリヴァイヴ団の仲間を見るだけではない慈愛の色が浮かんでいたような気がしたからだ。
「ああ、育ての親だ」
発せられた言葉の意味がユウキには一瞬分からなかった。暫時、固まってその意味を咀嚼する。ようやく脳内で意味が固まった時、ユウキは戸惑った。
「えっ。それって、どういう……」
「そのままの意味さ。F地区で俺は生まれ、両親がいたが捨てられた。両親はコウエツシティでは貿易業を営んでいたが、知っての通りカイヘンは鎖国に晒された。貿易業など意味がなくなったわけだ。育てる金もなかった俺の両親は俺をF地区に捨て、カントーへと渡った。もう随分と前の話だ」
ユウキは踏み込んではならない領域に踏み込んだのだと知れた。ランポも触れられたくなかったのだろう。窓の外を眺めている。
「すいません。僕、余計な事を聞いてしまって」
「いい。俺はお前らの過去を全て知っているんだ。お互い様と考えればいい。俺は聞かれれば全て答える。それが信条だ」
ランポの言葉にユウキは何を言うべきか迷った。これ以上ランポの過去に踏み込むべきではないと思う反面、ここまで聞いて何事もなかったかのように引き返すのも卑怯に思えた。
「ランポは、マスターとはいくつからの付き合いなんですか?」
無神経だという事は承知している。しかし、ここで引き返すのは間違っているとユウキの中の何かが告げていた。
「十歳の時から父親によくあの店には連れて行ってもらっていた。マスターはあの時からほとんど変わっていない。その頃にはまだリヴァイヴ団なんてものはなかった。マスターも裏で危ない仕事はしているようだったが、どこかの組織に属している感じではなかった」
「それが変わったのは、やっぱり……」
濁した語尾を断ち切るかのようにランポが告げた。
「そう。ヘキサ事件の後だ」
憎悪の色も、怒りも何もないかのように放たれた言葉にユウキは硬直した。ヘキサの存在。八年前の事件。それが全てを変えてしまった。自分と同じようにランポの人生の転機だったのだ。
「俺は十五歳。トレーナーとしての資質を磨くためにトレーナーズスクールに通っていた。もうすぐ卒業、という段になっての出来事だった。あの事件でカイヘンの経済は崩壊した。当然、俺の両親は煽りを受けて首を吊る寸前まで追い込まれた。マスターは裏で行っていた事業が立ち行かなくなった。恐らくはロケット団に関係していた事業だったのだろうな。経済的打撃を受けたカイヘン、その玄関であったコウエツシティの貿易は封鎖。一番の活気があった地区は落ちぶれてF地区と呼ばれるようになった。全てが転がり落ちるように一瞬の出来事だった。俺はマスターに預けられるという名目で捨てられた。両親は俺を育てる金よりも、自分達の生活が第一だと判じたのだろう。俺はスクールを途中退学し、マスターの下で働き始めた。その途上でリヴァイヴ団の存在を知り、現在に至るというわけだ」
ランポの語った壮絶な過去にユウキは言葉がなかった。無遠慮に踏み込んだ挙句に、何も言えないのでは本当に最悪だと感じた。ランポは窓の外に視線をやったまま、頬杖をついている。ユウキは顔を伏せて、次の言葉を胸の中に探ろうとした。それを見透かしたように、ランポが、「無理をしなくていい」と口にする。
「俺の過去は俺のものだ。誰かに痛みを背負わせるつもりはない。お前は今の話を聞き流す程度でいいんだ」
「……そんな事、出来ませんよ」
ユウキは顔を上げてランポを見やった。窓に映ったランポは無表情だった。
「なら、僕がつけたブレイブヘキサって名前は、ランポにとっては……」
そこから先の言葉は継げなかった。
皮肉そのものではないか。
ユウキは歯噛みする。何て無神経だったのだろう。ヘキサによって人生を狂わされた人が目の前にいるというのに。ランポだけではないのかもしれない。エドガーもミツヤも同じだろう。もしかしたらテクワとマキシもそうかもしれない。皆、痛みを背負っている。その傷口を広げるような真似をしてしまったのではないか。後悔が胸を過ぎりかけた時、ランポは口を開いた。
「俺は、お前がその名前をつけてくれてよかったと思っている」
思ってもみない言葉にユウキは目を見開いた。ランポはユウキへと振り向いた。
「ヘキサによって傷つけられたカイヘンを勇気によって立ち直らせる。因縁を断つ、いい名前だ。俺達の代で終わらせよう。ヘキサとの因果は後に持ち越しちゃいけない」
その言葉は痛みを知っているからこそ放たれたものなのだろう。ユウキは俯くしかなかった。そこまで考えていたわけではない。ただの希望的観測でつけた名前だ。自分にその勇気があるかなど分からない。
「僕には、そんな崇高な理念はないんです。ただ、そうありたいと願っただけで」
「そうありたいと願える事もまた、力だ。未来を描けている。それを誇りに思え。絶望を退けるのは、いつだって未来への展望だ」
その未来は本当に明るい光の中にあるのか。ユウキには分からなかった。様々な人々との出会いの中にあって初めて未来を描く事が出来る。孤独では未来へ進めない。
「ブレイブヘキサには、それだけの力があるでしょうか?」
口にした疑問にランポは前を向いて答えた。
「きっと、あるさ。今は見えなくても俺達が手を伸ばし続ける限り、未来はそこにあるんだ。諦めるのは全てが過ぎ去ってからでいい」
ランポの言葉にユウキはサカガミと重なるものを感じた。希望の火を灯すのはいつだって痛みを負っている人々だ。彼らの痛みをそのまま痛みとして捉えてはならない。彼らは前を向いて歩こうとしているのだから。
「僕はリヴァイヴ団に入った事を、後悔はしていません」
「そうか」
「このチームで、ブレイブヘキサで僕は世界と戦いたい」
「簡単な事ではない。前にも言ったがお前の最終目的を支援はする。しかし、お前がミスをした時には見捨てる。それは大きなリヴァイヴ団という組織のためだ。逆に俺がミスをした時には感情など切り捨てて見捨てろ。それがチームのためであり、お前のためである」
ランポはいつでも非情に物事を割り切っているように見える。しかし、その実は全員の痛みを身のうちに背負い込み、全てを双肩に担っている。
「僕は、あなたに背負わせているんでしょうか」
「そう思われたとしたら、俺はリーダー失格だな。いいリーダーはそんな余計な事を仲間に心配はさせないものだ」
「それでも、あなたはいい人だ」
再確認するように放った言葉に、「よせよ」とランポが薄く笑う。ユウキも自然と笑みがこぼれていた。笑えるうちはまだ大丈夫だ。未来が輝きを持っている。ユウキは言葉を発した。
「あなたのチームでよかった」
「どうかな。俺達は今から死地に赴こうとしている。これまで以上に苛烈な戦いが待っているだろう。そんな場所に仲間を連れて行く結果になったのは、俺の弱さだな」
ランポが窓の外へと視線を向ける。既にビルの森林を抜け、南エリアへと差し掛かっており、汽笛の音が遠く長く響いた。
「弱さなんかじゃないですよ」
ユウキは口にしたが、ランポは首を横に振った。
「俺自身、他に方法がなかったかと悔いている。後悔は足を止める。前を見て歩くには不必要なものだ」
「……おじさんと、似たような事を言うんですね」
サカガミの言葉と重なるものを感じ、ユウキは呟いていた。ランポが、「俺はそんなに年老いているかな」とおどける。
「いいえ、そういう意味じゃなくって」
「分かっているさ。元ロケット団のサカガミという男の事だろう」
「やっぱり、調べているんですね」
ちらりと視線を向けるとランポは首肯した。
「仲間の事は知らねばならない。リーダーの務めだ。それがたまに自分でも嫌になるよ。誰かの人生を覗き見ているみたいで」
「ランポでもそんな事が?」
「あるさ。俺は人間だぞ」
口元を綻ばせると、タクシーが停車した。「着きました」と運転手が言い、ランポが金を払う。ユウキはタクシーから出た。鼻をつく潮風が漂っている。南エリアに毎日のように来て釣り糸を垂らしていた日々が懐かしく思えた。あの頃は何者からも無縁でいられた。しかし、それは同時に無関心と怠惰の日々だったのだろう。人間は何者からも自由な立場など送れない。どこかに居場所を求める生き物なのだ。
続いてエドガー達やテクワ達のタクシーがやってくる。ユウキは港に停泊しているフェリーを見やった。十日に一度しか本土行きを許されていない便だ。それでもまだいいほうで、カントーや他地方に行くには一ヵ月近く待たなくてはならない。フェリーは青と白で彩られており、ペリッパーのデザインがあしらわれている。
「まさかこう連日、船に乗るはめになるとはな」
エドガーがユウキへと歩み寄って口にする。そういえばエドガーは船が苦手だったか。「酔い止めは」とユウキが尋ねると、エドガーはこめかみを掻いた。
「いや、そういうのは、その、なんだな……」
「旦那は薬も苦手ですもんねー」
後ろから来たミツヤが茶化す声を出した。エドガーが一睨みするとミツヤはひょいと軽く身をかわした。レナがキャリーケースを引きずりながら、「ねぇ」とランポに声をかける。ランポはちょうど全員分の清算を終えたところだった。
「何だ?」
「当然、あたしは個室でしょうね?」
「いや、護衛の関係上同室になってもらう」
「嫌よ、そんなの」
レナが声を上げる。ランポは、「何が不満だ?」と言葉を返した。
「男共と一緒ってのがよ。何かあったらどうするの?」
「何かって何だよ。俺達は紳士だぜ、レナちゃん」
ミツヤの声を無視してレナが信じられないとでも言うように髪をかき上げた。
「ああ、もう。あなた達にそういうのを期待したのが間違いだったわ」
「期待に添えなかった事は謝ろう。しかし、俺達は君の身の安全を第一に考えて行動している。それだけは分かってくれ」
ランポの言葉にレナはそれ以上抗弁を口にしようとはしなかった。ユウキが歩み寄り、「レナさん」と声をかける。レナが不機嫌そうに振り向いた。
「何よ」
「ランポも大変なんです。分かってあげてください」
「分かっているわよ、子供じゃないんだから。っていうか、あんたに説教されるいわれはないし」
手を振り翳してユウキを追い払おうとする。ユウキは仕方なく身を引いた。ランポが声を張り上げる。
「いいか? 俺達はレナの護衛を最優先とする。それを阻む者、たとえウィルの戦闘員だろうと他の勢力だろうと全てを敵と断じろ。それだけリヴァイヴ団が期待しているものは大きいと思え」
その言葉にレナ以外の全員が頷いた。守られる側のレナだけはため息をついてどこか不機嫌そうだ。ランポはフェリーへと歩み出した。全員がその背中に続く。キャリーケースを引きずるごろごろという音が後ろから聞こえてきた。レナを保護するために最後尾にはマキシとテクワがついている。二人は常に緊張の糸を張り巡らせていた。後衛には適任だろう。
タラップの前でランポがチケットを係員に見せる。係員は、「よい船旅を」と形式上の返事を寄越した。ランポが、「ああ」と返す。
フェリーの内部構造は簡素なものだった。廊下が囲んでおり、船室がある。二階層程度の区分けがなされている。ユウキ達はチケットの船室番号を確認した。一階層降りたところがどうやら船室のようだ。
大人数で廊下を歩く様は家族かツアー旅行客に見えただろう。子供達が廊下を走っていく。ユウキは床下から振動が伝わってくるのを靴の裏で感じた。どうやらこの下は動力室のようである。
「古いタイプの動力室ですね。それに床が薄い。振動がもろに伝わってくる」
「カイヘンの財政は火の車だ。本土とコウエツを結ぶフェリー程度に金は割けないのだろう」
エドガーの答えに、なるほどとユウキは納得した。今までフェリーにまともに乗った経験などないために少し浮き足立っているのが自分でも分かる。
板張りの廊下を踏みしめて、船室の前に行ったところでランポが部屋割りを決めた。
「俺とユウキ、エドガーとミツヤはレナと角部屋だ。テクワとマキシは真ん中になるが、いいか?」
「ちょっと! 勝手に決めないでよ!」
レナの声にランポは眉根を寄せた。
「ではどうしろと?」
「あたしに決める権利をちょうだい」
胸元に手をやりながらレナが言う。ランポは首を横に振った。
「承服出来ない。俺達の任務は君の保護だ。わがままに付き合えという意味ではない。聡明な君ならば分かるだろう」
「馬鹿でもその程度は分かるわ」
ランポのおべっかをレナは気にせずに言葉を継ぐ。
「あたしは何も一人にしてくれって言っているわけじゃない。ただ、タクシーの中でも一緒だった人達とまた一緒なのが気に入らないだけよ」
レナがエドガーへと視線を向ける。エドガーは腕を組んで顔を背けた。タクシーの中で何かあったのかもしれない。ミツヤがへらへらと笑いながら、「レナちゃん。俺らじゃ不安なわけ?」と尋ねる。
「不安って言うか嫌なだけ」と切り捨てる口調で放たれてミツヤは肩を落とした。
「分かった。じゃあ、誰ならば護衛されたい? 君の意見を聞こう」
「そうね。ランポ、あなたと――」
レナが値踏みをするかのように指差して視線を移す。テクワへと移りかけて、ユウキへと指を戻した。
「あなたね。一番まともそうだわ」
指されなかったメンバーが肩を竦める。ユウキは、「僕、ですか」と口にする。
「ええ。無害そう」
自分が有害か無害かの判断はつけかねたが、ランポへと確認の視線を寄越した。それでいいのか、という意味を含んだ視線にランポが首肯する。
「いいだろう。俺とユウキでフェリー内では護衛する」
「本当にいいのか、ランポ」
エドガーの心配する声に、「妥当な判断と言えばそうだ」と返した。
「お前のポケモンではフェリーの床を踏み抜いてしまうかもしれないからな。必然的にミツヤだけに任せる事になりかねない。俺とユウキならば狭い場所での立ち回りも出来る。そういう点ではマキシも適任だが……」
マキシへとランポが目を向けると、口数の少ないマキシが言葉を発した。
「俺はテクワとのコンビネーションが一番慣れてる。単体での戦力には期待しないでくれ」
その言葉にテクワがマキシの肩を抱いて引き寄せる。
「そういうこった。悪いな、リーダー。今回俺達はバックアップってわけ」
レナがその様子を見て怪訝そうに眉をひそめる。低く小さな声だが、「気持ち悪いわね」と言ったのがユウキには聞こえた。
ランポが息をついて、「じゃあ振り分けだ」と口にする。
「部屋割りはさっき言った通りでいいな。エドガー。船酔いするなよ。ミツヤ、エドガーを頼む」
ランポの声にエドガーが片手を上げて応じ、ミツヤが敬礼をして笑った。
「テクワとマキシは真ん中の部屋で敵の警戒を頼む。交代ならば外に出ても構わない」
「はいよ」とテクワが応じる声を出して船室に入る。その後にマキシが続く。
「ユウキ、レナ。俺達はこの部屋だ。三人では少し窮屈かもしれないが、我慢しろ」
ユウキは別に構わなかったが、問題なのはレナだ。大きなキャリーケースを引きずって部屋へと入っていく。その背中を見送ってから、「やれやれだな」とランポが口にした。ユウキが、「疲れますか?」と尋ねる。
「ないといえば嘘になるな。本土に着くまでの護衛任務なんだ。我慢はするさ」
ランポが船室に入り、ユウキが続いた。船室はリヴァイヴ団が便宜を図ってくれたようで特等船室だった。丸い窓が二つ開いており、二段ベッドがある。四人程度ならば充分な広さを誇っているだろう。三人なので少し持て余した気分になった。
「上はもっと広いらしい。カントーの資金源だな」
ランポが口にする。先ほどタクシーの中で聞いた過去に照らすと、その一言にすら苦渋が混じっているように感じられた。
「閣僚とかお偉いさんが上を占領するのよ」
レナがそう言ってキャリーケースを倒した。ユウキが尋ねる。
「上の船室に乗った経験が?」
「あるわよ。一応、VIP待遇だったからね。研究者って事で」
「じゃあ、本土に行った事もあるんですか?」
「そうね」とレナは人差し指で唇を押し上げながら考え込んだ。片手で器用にキャリーケースを開ける。
「あたしは元々ジョウトの生まれだからね。カイヘン本土に関しては地図上でしか知らない事も多いわ。一度だけタリハシティを訪れた事があるけど、本当に小さい時よ」
タリハシティにはリニアラインも繋がっていたのでカントー、ジョウト間での行き来も盛んであった。今はカイヘンにリニアラインは通っていない。イッシュ資本の空輸産業が海上に空港を建設する計画も持ち上がったが、今のところ頓挫している。カイヘンはほとんど外界との接触を絶っているようなものだ。
「ジョウトですか。それにしては訛りがないですね」
「父がカントーの人だったからね。母は小さい頃に亡くなったし、仕事柄飛び回っていたから当然といえば当然かな」
ユウキは聞いてはいけない事を聞いたのではないかと口元を押さえた。その様子に気づいたレナが、「心配はいらない」と強い口調で言った。
「あたしはその程度で凹むほどナーバスじゃない」
レナがキャリーケースの中の小物や着替えを整理する。その中に下着を見つけて、ユウキは覚えず視線を逸らした。レナが口元を緩めて、「初心ねぇ」と言った。
「別に下着程度見られたってどうという事はないわ。あなた達を男として見ていないからね」
何かしら心外な言葉のような気がしたが、ユウキは黙っていた。ランポが口を開く。
「レナ。君のポケモン、ビークインだったな」
その言葉にレナが振り返り、「そうだけど」と応ずる。長い黒髪が肩にかかった。
「ステータスを知りたい。ポケッチは」
「もちろん、持っている」
レナがポケッチを突き出すと、ランポもポケッチを差し出した。赤外線通信が行われ、ランポは自分のポケッチ上で確認した。
「なるほど。育てられてはいるようだな」
「研究者だからって馬鹿にしないで。あたしもポケモントレーナーの端くれよ」
「これで一つ、懸念事項が減った」
「何か問題でもあった?」
ランポは船室の扉にもたれかかり、「もしも」と口にする。
「君が襲われた場合、ポケモンで守るにも戦略というものがある。君は戦略を自分で組めるはずだ。ビークインは使い慣れているのだろう」
「そうね。少なくとも他人任せにするよりかは信頼出来るかしら」
「俺達の負担が減る。喜ばしい事だ」
ランポは自分に言っているのだと知れた。テッカニンとドクロッグだけでは対処しきれない事態に至った場合までランポは考えを巡らせている。さすがだ、と思うと同時にそのような事態にならなければいいが、とユウキは表情を翳らせた。
「大丈夫だ」とランポが明るい声を出す。
「俺達全員を一気に戦闘不能にするほどの実力者でなければ最悪の事態には至らない。船室を分けたのはそのためでもある。チームを小分けにすればリスクを分散出来る。全滅、というのはありえない」
ランポの言葉にユウキは少なからず安堵する部分もあったが、本当にそのような実力者が現れない保障などあるのだろうかと考えた。現に自分は前回、三人ともを過去に引きずり込むウィルの戦闘員と戦った。ウィルがどのようば策を講じてくるか分からない以上、油断は出来ない。
「そうですね。そうであれば……」
胸に過ぎる不安の種を自覚しながらも、ユウキは努めて平静を装った。レナは二段ベッドへと向かっている。
「あたしは寝るわ。書き出し作業でまともに寝てないし。それくらいの休憩はもらえるわよね?」
「ああ、当然だ。俺達が責任を持って君を守ろう」
「期待しないで聞いておくわ」
レナが二段ベッドへと上がると、上から何かが投げ捨てられた。ユウキの頭にそれが引っかかる。レナの着ていた衣服だった。レナは二段ベッドの上で寝巻きに着替えようとしていた。ユウキが身体ごと回転し、背中を向ける。
「姉さんでも、これほどはずぼらじゃなかったな……」
呟くと、扉にもたれていたランポが苦笑した。ユウキが顔を上げ、「笑い事じゃないですよ」と言った。
「いや、傍から見る分には面白い。女ってのは分からないな」
ランポの言葉に、「本当に」と返そうとするとスカートが飛んできた。ユウキは首を引っ込めながら、「……迷宮ですね」と呟いた。ランポは薄く微笑んだ。