第五章 一節「旅立ちの涙」
久しぶりというわけでもない。
三日程度空けただけだ。だというのに、知らない場所だ、という認識が先に立ったのはどうしてなのだろう。ユウキは胸の前で手をぎゅっと握り締めた。
目の前には扉がある。当たり前のように毎日くぐっていた扉。家の玄関だ。太陽は中天を指している。すっかり夏の色を帯びた風が吹き抜けてユウキのジャケットを煽った。ユウキはランポの言葉を思い返す。
――この場所には二度と帰ることはない。
それはユウキにとってしてみれば絶望的な宣告だった。
コウエツシティで生きて死ぬのならばまだ理解する頭を持ち合わせていたユウキだったが、この場所を離れるという事は全く意識の表層にも上らなかった。
いや、意識的に考えないようにしていたのかもしれない。リヴァイヴ団に入るのならば、それなりの覚悟があったはずだ。ミヨコに誓った。サカガミと約束した。輝く宝石のような海にランポと共に言葉を捧げた。リヴァイヴ団に入る、世界と戦う、と。しかし、今の自分はどうしたことだろう。足踏みを続ける事は避けねばならない。早期の決断が求められた。退路を断つために訪れた我が家はまるで別の場所だった。ユウキは息をつく。いつもと同じように玄関を開ければいい。そう分かっているのに、そうしないのはここで迷いが生まれるかもしれないという危惧があるからだ。
サカガミの顔を見たら、自分はまた後戻りしてしまうかもしれない。あの朝に刻んだ覚悟が揺らいでしまうかもしれない。畢竟、自分はリヴァイヴ団に入ると言っておきながら何も断ち切れていなかったのだ。
生まれも、過去も、因果も。全てが纏いつき、今にもこの身を押し潰してしまいそうである。ユウキは深く息を吸った。
「……腹を決めろ。男だろ」
呟いて自らを一喝するように胸を叩く。ユウキはチャイムへと伸ばしかけた手を玄関の取っ手へと伸ばす。しかし、寸前で触るのは躊躇われた。ただいま、と言ってしまえば自分の覚悟は恐らく消えてしまう。その確信に指先が震えた。
その時、玄関が不意に開いた。ユウキが顔を上げる。視界の中にサカガミの姿があった。どうやら買い出しに出かけるところだったらしい。買い物籠を持っていた。ユウキは喉の奥で声を詰まらせる。サカガミはユウキを認めて、「……ユウキ君」と呟いた。ユウキが何も言い出せずに顔を伏せる。卑怯者だった。自分から切り出す事も出来ず、サカガミに察しろと言っているようなものだ。サカガミはユウキへと言葉をかけた。
「入りなさい」
ユウキはその言葉に甘えた。自分の家だというのに、「お邪魔します」という言葉が反射的に出たのはやはり負い目を感じているからだろうか。
ユウキがリビングへと向かう廊下を歩き出そうとすると、不意に甲高い鳴き声が聞こえてきた。目を向けると茶色い毛並みのポケモンがユウキへと駆け寄ってくる。出っ張った前歯を小刻みに揺らし、ユウキの足元へと擦り寄った。
「……ラッタ」
ユウキがその名を呼ぶとラッタは嬉しそうにユウキの足に頬ずりした。ユウキは屈んでラッタを抱える。ラッタはユウキへと甘えたような鳴き声を上げた。ユウキはラッタの腹部を見やる。手術痕があったが傷は塞がっていた。
「ラッタ。お前、元気だったか?」
応じるようにラッタが力強い鳴き声を出す。前を歩くサカガミが言葉を投げた。
「昨日、ポケモンセンターから退院したんだ。手術痕は残るらしいが、体力は元に戻ったみたいだからね。私が世話をしている。ちょうどラッタに合ったポケモンフードを買いに行こうと思ったところだったんだ」
その言葉にユウキはラッタを床に置いた。ラッタが不思議そうに首を傾げる。サカガミに促され、ユウキはリビングの、いつも自分が座っていた場所へと座った。サカガミも対面の定位置に座る。
たった三日しか経っていないというのに、随分と久しくサカガミの顔は見てないような気がした。老け込んだような感触は気のせいだったのだろうか。ユウキは俯いたまま何も言い出せなかった。
何のために帰ってきたのか。全ての決着を自分の中でつけるために帰ってきたのではないか。最後に別れの言葉を告げるための帰宅だ。もうここには帰ってこない。その一言が喉から出なかった。コウエツシティとの別れはサカガミやミヨコ、ラッタとの別れでもある。今生の別れになるかもしれない。もう自分の命は安全圏にはない。ユウキは何度か口を開きかけて、言い出せずに下唇を噛んだ。
「コーヒーでも飲むかい?」
サカガミの言葉にユウキは頷いた。サカガミが慣れた様子でインスタントコーヒーを淹れる。カップが自分の前に置かれる。三日前まで使っていたものなのに、古ぼけたフィルムの中にある物体に見えた。触れようとすればフィルムの向こう側へと消えていきそうだ。
「飲みながら話そう」
サカガミの言葉にようやくユウキはカップを握る事が出来た。確かな温もりが指先から伝わる。一口含んで、ユウキはテーブルにカップを置いた。
このままではいつまでも話せないと思ったのだ。甘えてばかりではいけない。ラッタが不安げな眼差しでユウキを見上げている。ラッタも直感的に分かっているのかもしれない。主人の不安を。
「ユウキ君。帰ってきたんじゃないって事は、分かっているよ」
サカガミの言葉にユウキはハッとして顔を上げた。サカガミはコーヒーを飲んでから、一つ頷く。
「何か、大切な話があって来たんだろう?」
優しげな声にユウキは膝の上に置いた拳を握り締めた。結局、サカガミの優しさに甘えてしまっている。
――まだ僕は弱い。
ユウキは実感した。リヴァイヴ団に入り、少しの視線を潜り抜けただけで何でも出来るような気がしていた。軋轢を超えた絆を作れたと思っていた。だが、実際にはまだまだ子供だ。サカガミに促されなければ何一つ、大切な事も言えない。
「おじさん。僕は今夜、コウエツシティを離れます。多分、もう戻ってこない」
ようやく発した言葉にユウキは虚脱したような感覚を覚えた。自分の中から力が抜け落ちていき、次に何を言えばいいのか分からなくなる。
サカガミはしかし、落ち着いていた。「そうか」と返事をしてからコーヒーを飲んだ。
「予感はしていたよ」
ユウキはコーヒーへと視線を落とす。黒々とした液体の表面に自分の顔が浮かんでいる。どっちつかずの迷子の顔はひどく情けなく見えた。
「君はいずれ離れるだろうとは思っていた。こんなに早くとは思っていなかったけどね」
サカガミは笑う。ユウキはしかし一笑も出来なかった。こんな時に笑えれば、と思う。サカガミは真剣な顔になって言葉を発した。
「明日、ミヨコ君が退院するんだ」
「えっ」
ユウキが意外そうに顔を上げる。サカガミは目を細めた。
「容態が安定してね。意識も戻った。奇跡だって、お医者さんは言っていたよ。体力の戻りも早かったから、退院出来るようになった」
「そう、なんだ」
ユウキは目に見えて動揺していた。ミヨコが退院する。それならばもう一日だけ延ばして、と思ったが、ユウキは浮かんだ考えを胸中で握り潰した。
何を甘えているのだ、自分は。リヴァイヴ団に属する以上、組織のために尽くさなければならない。だというのに、自分は理由を見繕って安全圏に戻ろうとしている。今や、その理屈は通らない場所まで来ているというのに。
サカガミはこめかみを掻いて、「私は止めない」と言った。
「君の選択ならば、私はユウキ君の意見を尊重する」
「でも、僕は卑怯なんだよ」
ユウキは口を開いた。サカガミはじっとユウキを見つめている。
「結局、口八丁で色々理由をつけて、今はこの場所にいたいと思っている。でも、僕には覚悟があったはずなんだ。その覚悟に誓った人もいる。僕の意思は今はもう、僕一人だけのものじゃない。みんなの意思なんだ。それを踏みにじる事は出来ない」
「ならば、君の行く道は決まっているじゃないか」
「それでも、僕には迷う心がある。この迷いを断ち切らなければ、僕は――」
「それでいいと思うよ」
思いがけないサカガミの言葉にユウキはハッとした。サカガミはゆっくりとした語りかけるような口調で言った。
「それでいいんだ。迷う心がない人間なんていない。みんな、迷いの中にいる。人生はたくさんの迷路の集合体なんだ。問題なのは早くゴールする事じゃない。迷路の中で、自分を見失わない事だ。足元を照らす光、心の中の意思の力を持ち続けられるかどうかだ。ユウキ君は、意思の力を強く持っている。だから大丈夫だ」
サカガミは微笑んだ。ユウキは、「でも」と口にした。
「僕の意思は本当に正解なのかは判らないんだ。自分でも、この意思を貫いていいのかどうか」
「正解なんてないんだ。誰の人生にも。答えなんてものはいつだって後出しにされる。私達は、辿って来た道に正解を見出すしかない。振り向いて初めて、失敗も正解も現れる。踏み出す事を怖がっていたら、いつまでも迷路の中で立ち往生してしまう」
「おじさんは、後悔しているんだよね」
自分でも惨い事を訊いているのだと分かっていた。サカガミはかつてのロケット団であった事を後悔していると言った。それは人生の迷路の中で振り向いて失敗を見つけたからだろう。サカガミは表情を変えずに静かに頷いた。
「そうだね。後悔はしている。でも失敗だったとは思っていない」
「でも、ロケット団だって事を悔いているって」
「失敗と後悔は違うんだ。ユウキ君、君もそのうち分かる。後悔とは、もう取り返しのつかないことだ。でも失敗はね、これから先の行いで取り返せるんだ。挽回出来るんだよ。ユウキ君には、失敗はしてもらいたい。そのほうが君はより多くの正解を得る事が出来るだろう。失敗のない人生などありえない。そんな人がいるとすれば、その人は本当の意味で人生を生きていないのだろう。誰かの敷いたレールの上を走っているんだ。君は、違うだろう?」
ユウキは返事に窮した。誰かの敷いたレールが嫌だからスクールにもまともに通わなかった。リヴァイヴ団に入ったのは盲目的に生きることが嫌だったからだ。何も見えないまま、全てとは無関係に生きる事は出来た。しかし、それは自分の生ではないという実感はあった。
「僕は世界と戦うって、姉さんに誓ったんだ。この間違った世界を正すのが僕の役目だって思っていた。でも、それって傲慢なのかな」
「いや、それでいいんだ。願うのならば傲慢なほうがいい。矮小な願いに左右されるんじゃない。君はまだ少年なのだから」
サカガミの柔和な笑みにユウキは膝の上に置いた拳の片方を掲げた。拳を開いて掌を眺める。
「僕に出来る事はなんだろうって、ずっと考えていた。きっと多くはないと思う。でも、出来ることを精一杯やったら、それって迷路を進むための光になるのかな」
ユウキの言葉にサカガミは頷いた。
「きっと、なるさ。人間は出来る事から始めるしかない。神様じゃないんだ。積み上げてきたもの、踏みしめてきたもの、それらが全て君を形作っているんだから」
サカガミがコーヒーをすする。ユウキはコーヒーで喉を潤してから微笑んだ。
「おじさんと話せてよかった。戻らないって決めたから、何も言わずに行こうかと考えていた」
「それも君の決断の一つならば、間違いじゃない。ユウキ君、君は自分の決断を信じるんだ。いつだって、どこだって、帰るべき場所はある。それを忘れないでいなさい」
説教臭いかな、とサカガミは笑う。ユウキは首を振った。涙が出そうだったがぐっと堪えた。リヴァイヴ団に入ると打ち明けた日、涙は本当に大切な時に取っておくといいとサカガミに言われたからだ。これから先、何度も壁にぶち当たるだろう。泣きたくなるのはその度にかもしれない。しかし、自分の決断を信じられるのならば涙を流している場合ではない。
「おじさん。僕にも仲間が出来たんだ」
サカガミは黙って頷いた。
「僕には守りたい世界が出来た。姉さんとおじさんとラッタの他に、もう一つ」
名前を呼ばれたと思ったのか、ラッタが歩み寄ってくる。その頭を撫でてやった。ラッタが気持ちよさそうに目を細める。
「僕は、その仲間を信じたい。痛みを背負う覚悟をしたんだ。彼らの事をもっと知りたい。知らなくちゃいけない」
「ならば、君のすべき事は決まっているじゃないか」
サカガミがユウキへと答えが含まれた眼差しを送る。ユウキは深く頷いた。自分の心に従え、そう言っているのだ。
「姉さんとは会えない。会ったらきっと怒鳴りつけられる」
おどけたようにそう言うとサカガミは微笑んだ。
「それが君の決断なら」
「僕は、旅立つ。おじさん、姉さんを頼みます」
かしこまって口にした言葉にサカガミは首を横に振った。
「今生の別れじゃない。いつかは会えるかもしれない」
希望の言葉だったがユウキはもう会う事はないと直感的に分かっていた。自分はこれから社会の闇の部分に生きる人間となる。闇が光と同時存在する事は出来ない。
「そうだね」とユウキは笑った。その笑みはうまく繕えているかどうか自分でも不安だった。この世界に希望があるというのならば、いずれ巡り会える時が来るかもしれない。しかし、ユウキは自ら道を外れようとしている。転がり始めた石は止まらないだろう。
「そろそろ行くよ。コーヒー、ありがとう」
ユウキが立ち上がった。サカガミも立ち上がり、ユウキを玄関まで送り届ける。ラッタがサカガミの足元で寂しそうに髭を垂らした。主人が行ってしまう事を本能的に感知しているのだろう。自分が捕まえた最初のポケモンは、思った以上にトレーナーである自分を理解してくれているのかもしれない。モンスターボールの呪縛などなしに心が通じ合えている。きっと、人間もポケモンも同じなのだ。特別な繋がりの証明がなくても、どこかで通じ合える、分かり合える。
「ユウキ君。三日前と同じ言葉を、今も言わせてくれ」
顔を上げてサカガミを見やる。今度こそ、本当にさよならなのだ。それでもサカガミの表情には暗いものはなかった。誇らしげな笑みを浮かべている。旅路に向かう若人を祝福する笑顔だった。ユウキはこみ上げてきそうな感情をぐっと押し留める。
「行ってらっしゃい」
目頭が熱くなる。ユウキは少しだけ顔を伏せて応じる声を出した。
「行ってきます」
三日前と同じだ。しかし重みが違う。あの時ももう帰ってくるつもりはなかった。しかし、少しは希望的観測を残していたのだ。今は違う。もう戻れない。戻れない場所まで来てしまった。
ユウキは身を翻した。玄関を開け、夏の風が吹き抜けるのを感じる。まだ見えぬ明日へと向かう一歩をユウキは踏み出した。扉が背後で音もなく閉まった。