第四章 九節「パラダイス・ロスト」
レナはキーボードを叩いていた。
静寂の中に等間隔で刻まれる音色は時計の秒針が時を刻む音に似ている。その音を聞きながら、ユウキは時計を見やる。既に夜中の二時を回っている。レナが作業を始めてから六時間以上が経過しようとしていた。ユウキはレナを見張るために命令されていた。といっても、ユウキに出来る事はなく、コーヒーを飲んでなんとか眠気と戦う事くらいだった。
「疲れないんですか?」
ユウキがレナへと尋ねると、レナはキーを叩く手を休める事なく、「どうして?」と尋ね返した。
「もう随分と不眠不休でやっていますよ。一度休まれたほうがいいんじゃないですか」
「効率が悪いのよ。あたしは一回で出来る事は一回で済ます。朝方までには終わるわ」
朝方まで、と聞いてユウキはもう一度時計を見た。あと何時間やるつもりなのだろう。
その時、店の奥からランポが歩み出てきた。コーヒーメーカーを片手に、「精が出るな」と言った。
「おかげさまでね。気負う必要がないと考えると研究所と同じようなものよ」
ランポに対してもレナは砕けた口調になっていた。ランポの一言が大きかったのだろう。ランポはカップにコーヒーを注ぎ、レナのテーブルに置いた。
「一息つくといい」
「時間がないわ」
レナがカップを手で押し出そうとすると、その手をランポが取った。レナがハッとしてランポへと視線を向ける。初めてキーを叩く手が止まった。ランポは真っ直ぐな眼差しを向けて、「重要な話だ」と告げる。
「な、何かしら」
レナが平静を装おうとするが、少しだけ語尾が上がっていた。ユウキはコーヒーを啜った。ランポは真剣に口にした。
「記録出来ない事だ。口頭で言ってもらう」
テーブルの椅子を引き寄せてランポが座る。レナは端末の画面をちらりと見やってから、それと向き合った。
「ボスに関する事だ。R2ラボでは遺伝子研究をしていたはず。ボスに関わる事を教えて欲しい」
ランポはユウキのために危険を冒しているのだと知れた。ボスの事を探るのは重大な背信行為だろう。ランポはそれを行っているのだ。自然とユウキも身体が強張るのを感じた。
レナは口元に笑みを浮かべて、
「いいの? それってやばいんじゃない?」
「危険は承知だ。俺は知らねばならない」
真摯な声に、レナは逡巡の間を置いた。冗談や酔狂で訊いているわけではない事を確認したかったのだろう。レナは口を開いた。
「あたしは研究の全権を握っていたわけじゃない。ほとんどが父の役目だった。だから、あたしが知っているのは断片的な情報でしかない」
「それでも、俺達には必要なんだ」
その言葉にレナはユウキへも視線を向けた。ランポに視線を戻し、「なるほどね」と口にする。
「あなた達はとんでもない事を考えているようね」
レナは笑みを浮かべてみせた。ランポは、「夢物語だと思ってくれても構わない」と言った。
「ここまでしておいて夢物語でしたで済むと思っているの? もう後戻りできないじゃない?」
レナの声にランポは沈黙を返した。それが答えだった。レナは、「そうね」と顎に手を添えて言葉を発する。
「ボスのポケモンに関する事は何度か耳にしたわ。メディカルチェックの機会が何度かあったから、遺伝子の採取もさせてもらった」
「奇妙だな」
「えっ」とレナが声を上げる。ランポは首を傾げた。
「ボスの命令とはいえ、メディカルチェックだけならまだしも遺伝子の採取というのが、だ。ボスのポケモンは何なんだ? そのような調整が必要なポケモンなのか?」
ランポの切り込んできた言葉に、レナはなおさら考え込むように顔を伏せた。
「そうね。確かに奇妙と言えば奇妙だわ。それもボスのポケモンだけだったからね。R2ラボはほとんどボスのために作られた研究施設と言っても過言じゃないわ」
「何の研究をしていた」
「遺伝子の研究よ」
「では、ボスのポケモンを特定出来たのか?」
ランポの言葉にレナは首を横に振った。
「いいえ。いつもボスは自分のポケモンの細胞の一部だけを寄越して、メディカルチェックをさせていた。一度だってポケモンをこちらに任せたことなんてないわ」
「では普段何していたんだ。研究員も大勢いたのだろう」
「表向きの遺伝子研究をね。クローニング技術やポケモンの進化系統樹とか、そういう事を主にやっていたわ。ほとんどの研究員はボスのポケモンの事は知らなかったはずよ」
「君は知っていたわけか」
「責任者の娘だからね。あたしも研究者の端くれ、知る権限はあった」
「ボスのポケモンは何だ?」
核心に切り込む言葉にユウキは唾を飲み下した。それを尋ねるという事は反逆の意思があると思われてもおかしくはない。レナは周囲を見渡した。聞き耳を立てている人間がいないか警戒しているのだろう。
「盗聴の類は心配しなくていい。チーム内の秘密は守られる」
ランポの言葉に、レナは息をついて口を開いた。
「分からない、というのが本音ね」
「分からない? 遺伝子の研究をしていてもか?」
「そう。ボスのポケモンは今まで解析したどのポケモンとも異なっているように思えた。データが示していたわ。ボスの、四体のポケモンを」
「待ってくれ」
ランポが手を上げて制する。「四体、と言ったか?」と訊く。
「ええ、そうよ」
「ポケモンを使うなら知っていると思うが、カイヘン地方では」
「そう。二体までしかポケモンは所持出来ない。それ以上の所持は強制的にロックがかかる」
レナが手首を捲り、ポケッチを示す。ユウキは口元に手をやって、「考えられる理由とすれば」と口を開いた。
「戦闘用ではない場合です。僕もラッタを家に飼っていました。モンスターボールに入れていない場合、数にはカウントされません」
「リヴァイヴ団を束ねるボスが、ボールに入れていない愛玩用のポケモンを遺伝子研究に回すと思う?」
言われてみればそうだった。迂闊な発言に我ながら恥ずかしくなる。「だが、ユウキの言葉ももっともだ」とランポが補足した。
「もし、ボールの束縛なしに支配下に置いているポケモンならば、四体の所持は可能だろう」
「駄目よ」
すかさずレナが言葉を発する。
「どうしてだ?」
「それら四体の遺伝子は全て、ボールの束縛を受けた形跡があった」
その言葉にユウキとランポは目を慄かせた。額に手を当ててランポが考え込む。
「可能性があるならば、別人の所持するポケモンという事だ」
「あたしもその可能性が一番高いと思う」
レナの声にユウキは、「つまり、こういう事ですか」と言った。
「ボスは二体ポケモンを所持していて、さらに腹心が二体所持していると」
「その可能性が最も現実的よ。でも、それならどうしていつも四体同時の遺伝子解析が成されたのかしら?」
レナが顔を伏せて考えを巡らせる。ランポが小さく言葉を紡いだ。
「全てを知っていたのはカシワギ博士、つまり君の父親だけだったという事か」
「ええ。父もボスのポケモンに関してはあたしにも大した情報はくれなかった。あたしが研究所で集められた情報が、今言ったものよ」
ランポは両手を組んで、額に当てた。さすがのランポでも断片的な情報だけでは推理しきれないようだった。
「……四体のポケモン。せめてタイプは分からないのか?」
ランポの質問にレナは首を横に振った。
「タイプも特性も、何一つ。ただその遺伝子が正常かどうかの判断だけ」
「それだ」
ユウキが顔を上げた。ランポとレナが顔を振り向ける。
「それって?」
「遺伝子が正常かどうかを確かめるって言いましたよね。ボスのポケモンの秘密はそこにある。遺伝子に関係したポケモンなんだ。もしかしたらボス自身の」
ユウキの言葉にランポが、「だが」と結論を濁す。
「それは早計かもしれない。それにポケモンの遺伝子工学の分野はまだ解明されていない部分が多い」
「でも、ボス自身の遺伝子と何らかの関わりのあるポケモンという線はいいかもしれないわ。未知の分野だけど、ポケモンとの同調というものもあるのよ」
「同調?」
初めて聞く単語にランポが聞き返した。
「ポケモンとの意識のシンクロ。それによって反応速度の向上と命令なしでの戦闘が可能になる。一説ではポケモンとの同調を果たした人間は感知野が拡大化して、あらゆる情報を瞬時に理解出来るようになるとか」
「それこそ、夢物語だ」
ランポがその言葉を却下する。「そうね」とレナも同意見のようだった。だが、ユウキの中ではその言葉が何か引っかかるものとして残った。もし、ボスが意識面での同調だけではなく身体面でもポケモンと同調していたとしたら――。
考えてみて、馬鹿らしいと自分でも思う。しかし、その可能性はしこりのように固まってユウキの意識の隅に居ついた。
翌日の朝方に、レナは全ての作業を終えた。夜半の会話は三人だけの秘密となった。
起き出したテクワが伸びをしながら店主へと、「朝のミックスオレ」と注文した。店主が奥へと引き返して準備をする。
テクワは随分とこの店での生活に慣れたらしい。ユウキは寝ぼけ眼を擦って、レナを見た。レナは先ほどから椅子に座ったまま熟睡していた。毛布がかけられている。ランポのものだろう。ランポは、「用事がある」と言い残して朝早くに出て行ってしまった。チーム名が決まったので忙しくなったのだろう。テクワがテーブル席でだらけている。マキシも同席していたが、彼はぱっちりと眼が開いていた。しかし、目つきは相変わらず悪いために、熟睡出来たのかは疑問である。エドガーとミツヤはまだ眠っていた。エドガーは続けて二つの作戦をこなしたために体力を大きく消耗したのだろう。
「ミックスオレです。ユウキ君もどうですか?」
店主が気を利かせてユウキとマキシの分も持ってきていた。ユウキは、「いただきます」とグラスを受け取った。ミックスオレはフルーツの風味があり、トロピウスと呼ばれるポケモンから取れる果実を原料としている。トロピウスは樹海に潜む首なが竜のようなポケモンである。首もとの部分から果実が垂れているのが特徴だ。ホウエンで主に目撃されていたために南国の熟れた果実は甘みが強い。
ミックスオレを飲んでいると、テクワが大きく息をついた。
「やっぱり朝はこの一杯から始まるよな、マスター」
「恐縮です」と店主はカウンターに戻ってグラスを拭き始めた。ユウキが飲み干そうとしていると、ちょうどミツヤが起きてきた。続いて長身のエドガーが眼鏡をかけながら奥からやってくる。
「おはようございます」とユウキが挨拶をすると、「おー、おはよう」とミツヤが返した。普通のやり取りが出来る事にユウキは嬉しさを感じる。エドガーは、「ああ」と短く返す。どうやらまだ身体は本調子ではないようだ。
「エドガー。今日病院に行って来たらどうです? 少し心配だ」
「俺も賛成だぜ、旦那。無理し過ぎだよ」
二人の声にエドガーは眼鏡のブリッジを上げて、「いや、俺は大丈夫だ」と固い声で応じた。
「けどよ、エレキブルに殴られたんだろ? それって結構まずいと思うんだよね」
「ポケモンの攻撃を受けたんですから、何も恥じ入る事はないと思いますけど」
「いや、俺はその、医者ってのがどうも苦手な性分でな」
エドガーがこめかみを掻きながら困惑したように呟く。その言葉にミツヤが弾かれたように笑い出した。エドガーが怒声を飛ばす。
「笑うんじゃない!」
「いや、だって旦那。その体格で医者が苦手って、ファンタジー過ぎるだろ」
エドガーが顔を背けて押し黙る。ミツヤはひとしきり笑ってから、店主に紅茶を頼んだ。
「エドガーさんはどうなさいます?」
「俺はブレンドコーヒーで頼む」
いつも以上に低い声でエドガーが注文する。店主が準備を始めたその時、店の扉が開いた。全員が顔を向けると、肩を荒立たせたランポが立っていた。
「ランポ。どうしたんですか? 早く入って朝のブレイクタイムに――」
「指令だ」
ミツヤの声を遮って放たれた声に、全員が硬直した。店主も緊張のはらんだ眼差しを向けている。ランポは顔を上げた。
「上から指令が下った。本日の夜までにカシワギ博士、レナを引き渡せとの命令だ」
「じゃあ、引き渡しちゃえばいいじゃないですか。どうせレナちゃんはリヴァイヴ団のお抱えの研究者なわけだし」
ミツヤの言葉に、「コウエツならばそれはすぐに可能なのだが」とランポが掌で額の汗を拭った。煮え切らない言葉に、嫌な予感がした。
「ランポ。どういう事です?」
ユウキの声にランポは、「落ち着いて聞いてくれ」と前置きした。
「俺達はこれから本土に渡らなければならない。本土のリヴァイヴ団からの要請だ。レナの身柄を本土側のリヴァイヴ団が受け取る算段がつけられた。ウィルから守るためだ。俺達は引き続きレナの護衛の任を命ぜられた」
その言葉はこの場にいる全員の心に少なからず衝撃を与えた。確かにウィルの眼を欺くには本土に渡って万全の態勢で臨む必要があるだろう。だが、それの意味するところは――。
「ランポ。それはつまり……」
エドガーが言葉を濁す。誰もがその次に放たれる言葉を理解していた。理解しながらも認めたくなかった。
「ああ。コウエツとは別れを告げる。この場所には二度と帰る事はない」
予想出来た言葉だが、ショックは大きかった。エドガーとミツヤが顔を見合わせて、「本当かよ」と声を交わす。テクワとマキシはことのほか落ち着いていたが、ユウキは動揺を隠せなかった。育った場所を離れる。ミヨコとサカガミを置いて。いつかは覚悟せねばならなかった事柄が眼前に迫り、ユウキは呼吸が苦しくなったのを感じた。
ランポが瞑目する。もう決定事項だ、と告げていた。
「コウエツシティを、離れる」
口にしてみて絶望的な言葉のように感じた。その宣告は胸を穿ち、ユウキは何か大切なものが滑り落ちていくのを感じた。
第四章 了