第四章 八節「海鳴り」
F地区の路地に潮の香りが漂っている。海が近いせいだ、とミツヤは感じていた。ゴゥン、ゴゥンと等間隔の海鳴りが聞こえる。匂いよりも、ミツヤは海鳴りの音のほうが好きだ。胎内のリズムのように心地よい。前を歩いていたランポが不意に振り返り、「今回の作戦」と口火を切った。
「お前としては思うところがあっただろうが、よくやってくれた」
激励の言葉をかけてくれるために連れ出してくれたのだ。ミツヤはありがたかった。ランポには、今回の作戦でミツヤがポリゴンZを使った事が知れているのだろうか。エドガーが言っていれば伝わっているのかもしれない。しかし、エドガーは寡黙な男だ。そうそう他人の事情に口を挟むとは思えない。
「俺は、旦那と新入りに過去を知られました」
自分から言おうと思った。ランポは足を止めたまま、「そうか」と短く返した。
「エドガーはともかく、ユウキの知るところにもなるとは。俺の責任だな」
「そんな」とミツヤが声を上げると、ランポは頭を下げた。
「いや、お前がユウキの事をよく思っていないのは知っている。それでも編成を組んだのは早目にお前らの連携を強めたかったからだ。それがこんな結果になってしまった。チームを預かるリーダーとしては失格だな」
「違います。顔を上げてください、ランポ」
ランポはゆっくりと顔を上げた。ミツヤの目を真っ直ぐに見つめ、「どう思った?」と尋ねる。
「知られた事が、ですか」
「過去は誰しも触れられたくないものだ。だがネイティオを撃墜したという報告がエドガーからあった事を考えると、お前はあれを使ったのだと考えられる」
ミツヤは後頭部を掻いた。ランポの洞察力はこれだから馬鹿にならない。ネイティオを撃墜出来るポケモンはこの三人の中ならミツヤのポリゴンZだけだ。
「正直、使うつもりはなかったんですが」
「お前は、ユウキを信じられたのか?」
ランポの問いかけに、ミツヤはぽつりと言葉をこぼした。
「……同じ眼をしていたんですよ」
「同じ、眼か」
「ランポ、あなたとですよ。あいつは真っ直ぐに、俺の過去も知った上で、今の俺を信じようとしてくれた。裏切り者だって分かっているのにですよ」
その言葉にランポはフッと口元を緩めた。
「お人好しだな」
「あなたは人のことを言えませんよ」
「そうかな」とランポは読めない笑みを浮かべる。ミツヤはユウキの眼差しを思い返した。信頼出来なくても構わない。成すべきと思ったことを成せと切り込んできた瞳。かつてガラス越しに面談したランポの瞳が宿した輝きと同じだった。
「一度だけだって言いました。俺がお前を信用するのは一度だけだって」
「そうか。信用という言葉はとても難しい」
ランポはそう言って身を翻した。ゆっくりと歩き出す。その後姿に続いて、ミツヤは歩いた。ユウキという少年に対して自分は憎悪にも似た感情を抱いていた。自分の居場所を奪っていく敵だと感じていた。しかし、今は心の波も凪いでどこまでも穏やかにユウキという少年の人となりを見る事が出来る。一度信用したからか。それとも、信用してくれたからか。どちらにせよ、ユウキは自分の心を見た。その上で信じると言う道を選択した。人を信じると言う事は勇気のいる事だ。裏切られる可能性も視野に入れて、誰かに全幅の信頼を任せるなどそうそう出来る事ではない。裏切りの前科がある自分を、あの局面で信用すると言った。ランポの言う通りただのお人好しか。それとも、全てを受け入れる器の持ち主なのか。今のミツヤにはまだ、その答えは出せそうになかった。
「海鳴りが聞こえるな」
ランポが口にする。ミツヤは目を閉じて、その音に身を任せた。ゴゥン、ゴゥンと鐘の音のようにも聞こえる。
「昨日は拭えない。どんなに崇高な人間でも、卑劣な人間でも同じ事だ」
ランポは立ち止まり、星空を仰いだ。満天の星空をかき抱く夜の闇が降りている。ネイティオの眼に囚われた時の闇とは違う。明日があるという確信の持てる闇だった。この闇の果てには光がある。今日の光の残滓が星であり、月なのだと思う事が出来る。
「だが、明日は変える事が出来るだろう」
ランポも同じ事を考えていたのか。明日という言葉にミツヤは希望を感じる。変える事の出来る可能性。未来という答えが掴める場所まで来ている気がした。
「あなたみたいな人が俺のリーダーでよかった」
あの日と同じ言葉をミツヤは口にした。ランポは、「まだ分からんさ」と星空を眺めながら言葉を発する。
「俺だって迷いの中にいる。誰だってそうだ」
ミツヤはランポの見ている方角の星を見つめた。東の空の明星が目に焼きついた。