第四章 五節「裏切りの烙印」
「……ツヤ、ミツヤ!」
呼びかける声にミツヤは薄く目を開いた。ぼやけた視界の中にエドガーとユウキの姿が入る。掠れた喉から、「帰ってきたのか」と言葉が漏れた。エドガーが安堵の息をつく。
「お前があいつのネイティオを見た瞬間から急に昏倒した時には何が起こったのかとひやひやしたぞ」
「ネイティオ……」
呟いて身を起こすと、そこは赤茶けた大地だった。十メートルほどの距離を取ったところに人影が立っている。その姿に見覚えがあった。記憶を辿る間に見たドレッドヘアの男である。
「シバタ」
その名を呼ぶと、シバタは口元を歪めた。
「まさかネイティオの眼に射竦められて戻ってくるとはな。お前だけでも始末しようとした当てが外れたか」
ミツヤはその瞬間、記憶が奔流のように溢れ出すのを感じた。額を押さえながら呻く。
「そうだ。俺達はチャンピオンロードに渡ってきた。R2ラボの手前でシバタ、お前の奇襲にあったんだ。俺達はお前のネイティオを倒した。だけど、その時、ネイティオの眼差しに俺は捕らえられて……」
「ネイティオは過去、現在、未来を見通す力を持つ。その眼に惑わされた人間は永遠の闇の中を彷徨うはずだったんだが、戻ってきたのはお前が初めてだ」
シバタのイヤリングが目に入る。あれはネイティオの眼を模したイヤリングだ。シンボルは過去の記憶の中にあった。だというのに、今の今までその符号に気づかなかった。ミツヤは立ち上がろうとした。しかし、身体がよろめき言う事を聞いてくれない。
「無駄だぜ、ミツヤ。そう簡単に心の闇から這い上がれると思うなよ。ダメージはついて回る。そして――」
シバタが片腕を掲げた。すると、甲高い鳴き声が響き渡った。上空から緑色の羽根をばたつかせて、ネイティオが降りてきた。シバタの腕に止まる。嘴に何かをくわえていた。
「研究データだ。これはウィルがもらっていくぞ、リヴァイヴ団」
シバタがネイティオの足を掴んだ。ネイティオが羽根をばさりと広げる。ミツヤが声を上げる前に、シバタの身体が浮き上がっていた。「そらをとぶ」で離脱しようとしているのだ。ミツヤはポリゴンへと命じる声を出す。
「トリックルーム!」
ポリゴンの直下からピンク色の立方体が引き出されるが、射程内にシバタとネイティオを収める事は出来なかった。ミツヤは地面を拳で叩く。
「くそっ! 俺のせいで」
自分が囚われている間、エドガーとユウキは戦っていたのだろう。二人のポケモンが出ていた。しかし、決定打は与えられなかったようだ。ポリゴンのアシストなしではゴルーグは鈍すぎる。ユウキは金色の虫ポケモンを繰り出していた。翅を高速で震わせている。あれがユウキの手持ちなのだろう。初めて会った時、見えなかったのは速過ぎたせいか。
「俺のゴルーグで追いつけば」
エドガーの声にミツヤは首を横に振った。
「ゴルーグの速度じゃネイティオには追いつけない。トリックルームの外に出れば鈍重なだけだ」
「じゃあ、どうするってんだ! お前の過去を一方的に見せられて、俺達は……」
そこまで言ってエドガーは声を詰まらせた。ミツヤが顔を上げる。ユウキはミツヤの目を見返した。真っ直ぐな光を宿している。
「ミツヤさん。僕達はネイティオの眼差しに巻き込まれ、あなたの過去を見ました。僕らだって一足早く出ただけです。僕は、あなたの過去を決して汚れているとは思わない」
ユウキにも見られていたのか。羞恥の念にミツヤは顔を伏せた。ユウキがミツヤの肩を掴む。ミツヤが顔を上げると、ユウキは真っ直ぐにミツヤを見つめた。
「あなたはランポに誓った。それは僕も同じです。信じられると思ったから、ついていこうと決めたんです」
入団時の面談を思い返す。あの時のランポの眼差しと同じ光を、ユウキは湛えていた。自分を救い出したのと同じ光だとミツヤは感じる。
「僕のポケモンじゃネイティオには追いつけない。エドガーのポケモンでも同じです。でも、ここに可能性があるじゃないですか」
ユウキがミツヤの肩を掴む手に力を込める。ミツヤは目を逸らした。
「俺に、どうしろって言うんだよ。かつての仲間を殺せって言うのか」
卑怯な言葉だと思いつつも、そう言って逃げるしかなかった。ユウキは首を横に振る。「僕は命じません」とユウキは言った。
「ランポだって同じはずです。本当に自分の心に命じられるのは、自分自身でしかありえない」
その言葉にランポとの誓いの言葉が思い出される。
――お前の意志だ。それを大事にするんだ。
ランポはそう言って、裏切りの証を使うかどうかは自分で決めろと言った。信頼出来る相手の前だけで使えとも。ミツヤはユウキとエドガーを見た。
「僕が信頼出来ないのならば、それでも構わない」
ユウキの声にミツヤは目を向けた。ユウキは一時さえ、ミツヤから視線を外さない。
「でも、あなたなら分かるはずだ。今、どうするべきか。自分がどうしたいのか」
「俺が、どうしたいのか……」
ミツヤは腰のホルスターに視線を落とした。一つだけ残された可能性。この場を打開出来る唯一の存在。ミツヤは立ち上がった。膝が笑っている。闇の中に没した身体がまだうまく作用しない。それでも立ち上がり、ミツヤはホルスターからモンスターボールを引き抜いた。
「一度だけだ」
ミツヤはユウキの手を振り払い、そう告げる。ユウキは黙ってミツヤの後ろに回っていた。ミツヤがボールを眼前に翳す。
「一度だけこいつをお前の前で使う。だが、完全に信用したわけじゃない。それを忘れるな。救い出してくれた言葉に報いるだけだ」
ミツヤは緊急射出ボタンに指をかけた。ボタンを押し込み、その名を叫ぶ。
「行け、ポリゴンZ!」
手の中でボールが割れ、弾き出された光が目の前に現れる。
それは丸っこい形状をしていた。全体像で言えばやじろべえか、かかしのようだ。鳥のような嘴を持つ丸い頭部と、胴体が分かれており、細い両腕が分離している。色彩はポリゴンと同じ、ピンクと青が基調だったが、眼だけが異なる。眼は金色でぐるぐると渦を巻いている。これがポリゴンの最終進化形態、ポリゴンZだった。宇宙空間探索のために作り出された人工のポケモンだ。
胴体部分に緑色の文字が刻み込まれている。「WILL」とそこにはあった。
裏切りの象徴だ。消せない罪の証でもある。
ポリゴンZは甲高い鳴き声を上げて、嘴を既に黒点のように小さくなっているシバタとネイティオに向ける。
ミツヤが指鉄砲を作り、狙いを澄ませるように前髪で隠れているほうの片目を瞑った。ポリゴンZの身体が浮き上がり、腕が胴体の周りをぐるぐると回転する。やがて両腕へと青い電磁が纏いついてきた。電磁が三角錐を描き出し、嘴の先端へとエネルギーを集約する。青いエネルギーの球が電磁を爆ぜさせながら、周囲の地面を焼き切った。
「このポリゴンZの特性は適応力。自分と同じタイプの技は二倍の威力を誇る。ゆえに破壊光線の威力、射程は――」
周回が速まり、集束した電子が跳ねる。青い稲光に似た光が明滅し、ポリゴンZの嘴の先で一際激しく光った。それと同時に一瞬だけ収縮する。
「通常の倍以上となる!」
その言葉の直後、青白い光が弾けて溜め込まれたエネルギーの塊が一条の光線としてネイティオに向けて放たれた。全く減衰する様子のない青い光条が空中のネイティオへと空気を裂きながら向かっていく。ミツヤは指鉄砲を向け続けていた。
ネイティオが警戒の鳴き声を上げる。それに気づいてシバタが背後を振り返った時、青い光が見えた。それが瞬く間に大きくなり、空間を引き裂いて自分を巻き込もうと迫る。
「まさか。ポリゴンZを使ったのか?」
ありえない話だった。ミツヤはウィル在籍時だって一度としてポリゴンZは使ったことがない。あれは本当に奥の手だ。ミツヤに一度尋ねたところ、本当に倒すべき相手以外には使わないと言っていた。
「俺に使ってくれるとは。誉れ高いが、ここで死ねるか! ネイティオ、光の壁を張れ! 五枚だ!」
ネイティオが羽根を翻し、一声鳴くとネイティオの背後に青い皮膜の壁が現れた。それが五枚重なっている。これで減衰して消え去るに違いない、とシバタは思った。しかし、一枚目を破った破壊光線の光は減衰する様子はない。それどころか、より強い光を湛えている。二枚目が弾け、三枚目が破れた。四枚目が音を立てて弾け飛び、五枚目がかろうじて受け止めた。破壊光線の光が拡散し、消え去るかに見えた。
その時、光の壁に亀裂が走った。破壊光線の青い光を上塗りするように、さらに光条が真っ直ぐに自分に向けて放たれていた。シバタは瞠目する。目の前に迫った青白い光の奔流が、力の瀑布となって襲いかかる。光の壁が溶解し、次の瞬間、シバタとネイティオを飲み込んだ。
「まさか! これほどの力が……!」
ポリゴンZの力の目測を誤っていたということか。自分が甘かったのか。それともミツヤの力が計算以上だったのか。どちらにせよ、シバタは着弾点から焼け爛れていく自分の身体を見つめて、フッと口元を緩めた。
「敗北か。まぁ、いいさ。データは手に入った。そして、研究員は全員殺したのだから。ミツヤ。ネイティオの眼はお前の未来を捉えた。暗黒の未来の中で最早、貴様らは――」
その言葉が響き終わらぬうちに、シバタの全身が熱で膨張し、皮膚が剥がれ弾け飛んだ。余剰熱がシバタとネイティオを貫き、跡形も残らずに蒸発させた。
青い光が雪のように降り注ぐ。
ミツヤは肩で息をしていた。ポリゴンZも高威力の「はかいこうせん」の反動で動けない。
ユウキは背後から固唾を呑んで見守っていた。裏切りの象徴であるポリゴンZを使い、かつての仲間を屠ったミツヤの心境はどのようなものなのだろうか。推し量る事しか出来ない我が身を顧みて、ユウキはその場に崩れ落ちたミツヤへの反応が一拍遅れた。
「ミツヤさん!」
叫んで、その身を抱き起こす。ミツヤは震える手でボールを掲げ、ポリゴンZを戻した。赤い粒子となってポリゴンZが吸い込まれていく。ユウキが逃げたウィルの構成員とネイティオがいた方角を見やる。破壊光線の余波は凄まじかった。地面が抉れ、土が三角を描いて弾け飛んでいる。まだ空気が震えているように感じた。鼓膜が衝撃で麻痺しているようだ。エドガーが声をかけてきたが、うまく聞き取れなかった。代わりにミツヤの声は明瞭に耳に届いた。
「……これで、貸し借りゼロだ」
発せられた声にユウキは微笑んで頷く。どうやら無事のようだった。ミツヤは口元を歪める。
「お前の事をランポがどうして認めたのか、ようやく分かった気がする」
ユウキが首を傾げていると、「本人は分からなくっていいんだよ」とミツヤはユウキの手を振り解いた。ミツヤは起き上がり、「旦那、肩を貸してくれ」と頼んだ。エドガーは黙って肩を貸した。ミツヤがゆっくりと歩き出す。その膝が震えていた。
「ミツヤさん、無理は……」
発した声に、ミツヤが振り向いて返す。
「黙ってろ、新入り。それと、さんはいらない。まだブレイブヘキサを認めたわけじゃないが、俺だけさん付けってのも変だ」
ミツヤが笑みを浮かべる。柔和な笑みだった。ユウキが呆けたようにそれを見つめていると、エドガーとミツヤが歩き出した。その後ろからユウキが続く。
三人の足音が砂礫の大地に響き渡る。ユウキは向かう先を見つめた。