第四章 四節「罪と罰」
「ミツヤ、だったな」
確かめる声にミツヤは薄く目を開く。ぼやけた視界の中に緑色の制服を着た教官の姿が捉えられた。ぼんやりとしていたせいか、返答が一拍遅れる。
「はい!」
踵を揃えて挙手敬礼をする。教官は、「よし」とミツヤを見やり、「髪型は自由だが」と濁しながら口にする。
「邪魔じゃないのか、その前髪」
ミツヤの片目を覆っている前髪の事を言っているのだと知れた。ミツヤは敬礼を崩さずに、「大丈夫であります!」と腹の底から声を響かせた。
「大丈夫ならばいいんだがな」
教官は何やら不満げにミツヤの前を通り過ぎた。
その時、ミツヤの腹を誰かが小突いてきた。目を向けると、耳にピアスをした長身の男が立っていた。ピアスは何かの眼球のように見えた。ドレッドヘアにしており、にんまりと笑った。それがミツヤにはいやらしく見えた。
「暗にその髪型を直せって言われているだよ。察しろ」
その言葉に、「お互い様だろ」と返した。
「ドレッドヘアなんてウィルが許しているとは思えない」
「悪いな。これは上官の悪ふざけでなったんだ。だからお墨付きってわけさ。お前とは違う」
ミツヤは肩口へと視線を向けた。肩に白い縁取りで「WILL」の文字がある。
「貴様ら! ウィルは何の略称だか知っているな?」
教官の声に全員が了承の声を出した。
「なら、ミツヤ。答えてみせろ」
ミツヤは振られて、一瞬頭の中が混乱したが、何度もそらんじた言葉を思い返すのは大した時間がかからなかった。
「ウィルとは、WALING、INDEPENDENCE、LOCAL、LEGIONの略称です。それぞれの頭文字を取って、ウィルと名づけられました。ちょうど四年前の事です」
ミツヤの言葉に満足したように教官は何度か頷いた。
「そう、四年前。宇宙開発の拠点、リヴァイヴローズが破壊された。その時に、ウィルは初めて独立治安維持部隊として活躍。P1部隊と呼ばれる初期部隊がテロリスト鎮圧に当たった。その結果として貴重なP1部隊員は失われてしまったが……」
教官はミツヤへと僅かに探る視線を向ける。気にしていると思われているのだろう。ミツヤはそれを払拭するために前を向いた。何も恥じ入る事も、悲観する事もない。
教官は歩きながら話を続けた。
「ウィルは六年前にヘキサによって打撃を受けたカイヘン地方の嘆きの代弁者だ。独立した地方軍。ポケモンを所持する軍の保有は国際法で禁じられているが、ウィルはヘキサのような過激なテロリズムを抑制するために存在する、国際社会からも認められた軍隊だ。その一部である貴様らには誇りを持って欲しい。二度とヘキサのような組織を生まない事、それが第一に掲げられた目標だ。では、第二に掲げられた目標は分かるか、ミツヤ」
どうして自分にばかり聞くのだろうかとミツヤは思ったが、もちろん口には出さない。恐らくは教官が個人的に気に入らないのか、もしくは個人的に気に入っているかのどちらかだろう。どちらにせよ、ぞっとしない話だと思う。
「はい。第二に掲げられたのはカイヘン地方の脆弱な労働法や憲法の改正です。それにより、カントー独立治安維持部隊ウィルはより強固な作戦活動を行う事が出来ます」
もっとも、これは政治家の役目だ。ウィルが担っているのは、その政治家達の思惑を強化するための絶対的な力の誇示だった。そのためにウィルはエリートトレーナーと呼ばれる人々が役職に就く事が多い。
「では、第三の目標だ。シバタ、言えるな?」
ドレッドヘアのシバタが急に教官に指されて、身を震わせた。硬直した様子で、固い挙手敬礼をし、「はい!」と声だけを喉から搾り出した。
「えっと……、確か、ウィル以外の治安維持部隊を生む事のないよう、抑止力として働く事、でした、っけ」
教官がシバタへと歩み寄り、額を小突いた。並び立っていた仲間から笑いが漏れる。
「もっと歯切れよく言わんか! そう。第三目標とは、かつてのディルファンスのような組織を生まない事にある」
「……合っているじゃないかよ」とシバタがぼやく。教官が血走った眼を向けたので、シバタは踵を揃えて背筋を伸ばした。
「ディルファンスは六年前、カイヘン地方に存在した自警団だ。彼らは政府とのコネクションを独自に持っており、後々それが明るみになって糾弾された。さらに行き過ぎた自衛行為による被害者を多く出した事でも知られている。我々は、ディルファンスのようにはなってはならない。民衆を扇動し、正義を騙る組織ではない。正義の模範となりえる組織こそが、ウィルの目標とするものである」
ディルファンスのニュースはミツヤもカントーにいた頃に幾度か耳にした。あれはアイドルグループのようなものだった。見目麗しいリーダーと、頭脳明晰な副リーダーが、自警団という名目にも関わらず、バラエティ番組などに出ていたのは当時のミツヤからしても滑稽に見えたものだ。あのような組織に全権を任せていたのだから、カイヘンは狂っていたとしか思えない。
「ヘキサのようなテロ組織の鎮圧、行き過ぎた自警団の抑制、それが我々ウィルの目的。そして、正義の模範となるべき存在としてカイヘンを統治する」
正義、という言葉にミツヤは未だに違和感を覚える。それを個人が易々と口にしていいものか。正義など流動的で、誰にも定められないものではないのか。
もちろん、このような考えは組織の中では異端だ。異端は排せられる。ミツヤは黙っておいた。沈黙は金だ。
「これより、第二次模擬戦を開始する。ミツヤ、シバタと組め。あとは……」
そこから先の言葉をミツヤは聞いていなかった。シバタと組む事が、ミツヤは多い。お互いのポケモンの特性は熟知していたが、ミツヤはどうしてもシバタと組んでプラスに転じるとは思えなかった。
「また俺達か」
ぼやいたシバタに、「仕方ない」とミツヤが返す。
「上のお達しだ」
「それでも合わない奴らを意図的に組ませる意味って何なんだろうな。実戦じゃ使えないだろう」
「実戦で出来ないからこそ、模擬戦でやるんじゃないか?」
ミツヤの言葉に、「違いない」とシバタが大仰に肩を竦めた。
模擬戦のフィールドは森林地帯だ。もちろん、ポケモンを引き連れての模擬戦となる。ミツヤは配置についた。シバタが近くにいるようだが、通信機でしかやり取りをしない。直接的に見るのは索敵した時だけだ。
ミツヤは走り出した。森林の熱気が肌に纏いつく。まるで闇を引き連れているかのように、夜の森林地帯は不気味だった。ミツヤの足元でポリゴンが僅かに身体を浮かせてついてくる。ポリゴンだけでは戦闘にならない。大抵、ミツヤはサポート役に徹する事になる。
がさがさと森林が揺れる。敵が間近に迫っているのか、それともシバタの足音なのか。自分の足音さえ、森林の中では分からなくなってしまう。まるで無辺の闇に放り投げられたかのようだ。
――気分がいいものじゃない。
ミツヤは手元のライトを握り締めた。敵と相対した時、特殊なライトを敵ポケモンに向ける。そうする事で目を眩ませる事も出来る上に、敵の姿も見える。「あやしいひかり」という技が存在するが、それを人工的に作り出したのが手元のライトの光だという。人間の叡智がポケモンを混乱させる事などありえるのかと思ったが、何度かこのライトの効果を実感している身となれば、納得もする。
何よりも暗闇ではサインが伝わりにくい。指でポケモンの技の番号を示し、言葉にせずに指令するテクニックがあったが、暗闇では無意味だろう。かといって、声に出して技を指示すれば、ここに自分がいるのだと教える事になる。間抜けな話だ。
なので、先手を打つ方法としてこのライトが考案された。混乱状態にあるポケモンはたとえ素早くともわけも分からずに自分を攻撃する事になりかねない。相手も慎重になる。その隙に先手を取れるという寸法だ。
――汚い戦術だな。
毒づいてから、いつの時代も汚い戦術ほど優位に立っているものなのだと自分を納得させる。そもそも戦場において、綺麗に勝とうというのが間違いなのだ。
いかにリスクを軽減させ、いかに速く勝つか。それにかかっている。どのように勝つかなど関係ない。美徳は必要ないのだ。どこまで意地汚くなれるか、それが鍵となる。
自分は汚らわしいと開き直れた人間が強いのだ。割り切れ、とミツヤは自身に言い聞かせる。
ざわざわと風で木の葉が擦れる音が聞こえる。風向きをミツヤは確認した。北東から吹いている。緩い風だ。しかし、僅かにその風に匂いが混じっている事に気づく。
――ポケモンの匂いだ。
ポケモンの中には自ら強烈な体臭を放つ者がいる。多くの機会において、そのようなポケモンは奇襲には向かない。自らの位置を教えているようなものだからだ。
今の匂いは潮の匂いだ。水ポケモンだろう。ミツヤは足を速めた。ライトを即座に向けられるようにする。このような時、自分のポケモンが体臭のないポケモンで安心する。ポリゴンは人工的に造られたポケモンだ。体臭どころか気配すらほとんどない。トレーナーであるミツヤですら最初は手こずったものだ。
だが、手にすればこれほど頼もしい相棒もない。まさしく機械のようにミツヤは草むらから飛び出した。緑色の制服が見える。当たりだったようだ。ミツヤは素早くライトを向ける。撃ち出された光が、相手のポケモンの目をかく乱した。くらくらと揺らぎ始める。ミツヤは、今だと感じた。ポリゴンへと指示を飛ばす。
「ポリゴン、シグナルビーム」
ポリゴンの嘴に当たる部分が緑色に弾け、球体を成したかと思うとそこからジグザグの光線が撃ち出された。「シグナルビーム」は虫タイプの技だ。低い確率ではあるが、相手の混乱状態にする事がある。ライトで一瞬の混乱になっている相手に追い討ちをかけるようなものだった。混乱は、火傷や麻痺、毒ほど相手の動きを縛るものではないが、一旦その状態になると厄介である。わけも分からずポケモンは自分を攻撃する。技の威力が高いポケモンほど苦戦を強いられる事になる。ポリゴンは状態変化系の技が多い。なので、シバタが追いついて止めをさしてくれるのが理想形だった。草むらが揺れる。シバタだろうか、とミツヤが目を向けると、そこにいたのはシバタではなかった。
絶対者の眼を持つ鳥ポケモンだ。暗闇の中でも浮き立って見える。
「……どうして」
ミツヤが思わず呻く。どうしてこのポケモンがここにいるのか。絶対者の眼差しがミツヤを捉え、黒白の瞳が闇の中で揺れた。
――その前は?
「お兄さんの事は残念だった」
何人もの人間が同じような言葉を吐いていった。ミツヤは白い部屋で兄と対面していた。兄は集中治療のベッドに寝かされて動けないのがこの二年続いている。日に何度か呻き声のようなものを発するが、どれも意味のある言葉には思えなかった。ミツヤと兄との間でだって強化ガラス越しである。対面と言ってもこれでは観察に近いのではないかと思わされる。
今日も緑色の制服を着込んだ人々が兄の様子を見に来た。彼らは肩口に白い縁取りで、「WILL」と記された服を着ている。
彼らのうちの若い人間は、今年トレーナーズスクールを首席で卒業したミツヤへと激励の言葉を送った。
「君は、これから先どうする?」
問いかけられ、ミツヤはいつも返事に窮する。トレーナーズスクールを出たと言う事は、トレーナーになるか、または一般職に就くか。一般職に就くとはいえ、ポケモンの知識を活かせる仕事を選ぶ事が出来る。道は無限に広がっているように思えた。
――でも、何一つ分からない。
それがミツヤの胸中だった。兄が何をしていたのかもそうだが、自分自身の事さえもミツヤの中では決まっていなかった。保留という一語で片付けるには、未来が重たく圧し掛かってくる。
「君は前途ある若者だ」
制服を着た人間のうち、中年の男がそう言った。他の若者達が挙手敬礼を送るので、恐らくは上官だろう。上官は名前を、スギモトと言った。
「P1部隊に従事していた君のお兄さんの、ポケモンは……」
「回収されていたみたいです。今は、俺が持っています」
兄のポケモンはしかし、あの日以来一度として開いた事はない。兄と同じ種類のポケモン――ポリゴンは元々のミツヤの手持ちだった。
「そうか。あの宇宙空間での戦闘、見事だったと聞いている」
「ありがとうございます」
自分が礼を言うのは何かおかしな事のように感じられたが、それが礼儀だろうとミツヤは思っていた。
「君はお兄さんをどう感じている?」
スギモトが兄へと視線を投げた。兄は等間隔に鼓動を刻み、脳波を描いている。そういう機械に成り下がってしまったかのようだ。
「兄は、俺にとっては鉄のような人でした」
「鉄、か。面白い表現をするね」
「面白い、でしょうか」
まずい事を口走ってしまったかと思い、ミツヤが口を噤みかけるとスギモトは先を促した。
「続けて」
「はい。兄はいつでも俺なんかとは別次元の考え方を持っていて、断固とした口調で何でも決める人でした」
「それを、鉄、と」
冷たかった、と暗に言いたかったのかもしれない。少なくとも一般的な家庭による理想像とはかけ離れていた。兄は自分の面倒は見てくれる。学費も出してくれる。しかし、踏み入った事は何一つ訊いてこない。その上に、自分に踏み入られる事もよしとしていないようだった。だからミツヤは兄の仕事に関してはほとんど知らない。
「兄は、立派な仕事をしていたんでしょうか」
「ああ、立派だった」
話しながら、どうして自分達は過去形で話しているのだろうと感じた。兄はまだ生きている。確かに集中治療室の中で様々なケーブルやパイプに繋がれ、ほとんど虫の息と言ってもいい。それでも生きている相手に対して、既に諦めたような口調で話している自分達は何なのだろう。
「俺には、それが分かりません」
「観ていなかったのかい? リヴァイヴローズのテロ事件の映像を」
「観ていました」
宇宙開発の拠点、リヴァイヴローズ。それがテロリストの仕掛けた爆弾によって爆ぜ、四散する様はまるで花が枯れるようだった。最後に残った実験ブロックもテロリストによって爆破され、死者は百人以上だったと聞く。その中で奇跡的に生還したのが兄だ。兄はリヴァイヴローズの中からウィルの部隊としてポケモンを操っていた。テロリストの鎮圧には成功したようだが、その爆破テロで自分以外の仲間を失った。
兄は独りだ。自分がついていなければ、とミツヤが思い、毎日のように病院に通っている。兄はミツヤが来ている事を理解しているのか、していないのかは分からない。看護婦は、「お兄さんはきっと喜んでいらっしゃるわ」という定型句を口にする。
本当にそうなのだろうか。一度として自分にも踏み入らず、踏み込ませる事を許さなかった兄が、自分の勝手な行動に寛容なはずがない。きっと心根では許していないのだとミツヤは思っている。兄はぴっちりと線引きをしたがる人間だった。他者と自己とを分け、その上で確立する自分というものを自覚している人間だった。
――その線を踏み越えているのではないか。
浮かんだ疑問に、ミツヤは顔を伏せた。スギモトが慰める言葉を発する。
「お兄さんは立派だったし、君も優秀だ。何も悲観する事はない」
「俺は、勝手な事をしているのかと思うんです」
「勝手なものか。お兄さんは喜んでいるよ」
「どうして分かるんです?」
「ウィルの矜持を胸に抱いているからだ」
スギモトは肩をさすった。肩に刻まれている、「WILL」の文字。
「兄も、それを背負っていたんですか?」
ミツヤの言葉にスギモトはやんわりを首を振った。
「背負っていたんじゃない。これを誇りに思っていたんだ。君のお兄さんの行動がなければ、私達はここにはいない。いたとしても別の組織だ。ウィルとして旗揚げ出来たのは、全てお兄さんのおかげなんだよ」
「そう、なんですか」
スギモトは頷き、病室の兄を見つめて目を細めた。
「だからこそ、残念でならない。最初に道を切り拓いた彼が、共に戦えない状態というのは」
ミツヤは膝の上で拳を握り締めた。兄は戦えない。組織からしてみれば役立たずだ。生命維持装置の維持費でも馬鹿にはならないだろう。ウィルにそれを負担させている。ウィルは見捨てる事は出来ない。功労者を殺す事になるからだ。ミツヤは知らず、決意を迫られていた。自ら切迫した状況に追い込んでいった。
「だったら、俺が組織に入れば兄の代わりになれますか」
ミツヤの言葉にスギモトは目を見開いた。ミツヤはスギモトへと顔を向けて問いかける。
「兄は、もう長くはないでしょう。でも、俺ならばこれからも戦えます。誉れ高きウィルの先陣を切り開いた戦士の弟として、俺は戦いたいんです」
ある意味ではずるい物言いと言えた。自分には資格があると言いたいのだ。ウィルが今の形を維持出来るのは兄をおかげだ。ならば肉親である自分にだって兄の意思を継ぐ権利はある。ウィルに取り入る事が出来ると狡猾に考えている自分がいる。
スギモトは顎に手を添えてしばらく考えているようだった。しかし、答えは出ているはずなのだ。でなければ、ミツヤの下に来る理由がない。最初からお互いにそのつもりなのだ。予定調和のようにミツヤはウィルに入る事を宿命づけられている。
「兄のようには戦えないかもしれない」
ここでミツヤは一歩引いた。そうする事で相手に興味を抱かせようと感じたのだ。小賢しい、と我ながら思う。
「でも、俺には俺の戦い方がある。P1部隊の隊長だった兄には及ばなくっても、俺は自分なりの戦い方でウィル構成員として生きていきたい」
スギモトは考える仕草をしていたが、腹の内では既に結論は出ているはずだ。それをいつ言うかのタイミングだけをはかっている。
――この大人も小賢しい。
ミツヤはそう感じたが、もちろん口にはしない。スギモトは息をついて、「感嘆するね」と言った。
「君の強靭な意思には」
何も強靭な事などない。自分は兄を利用して居場所を確立しようとしているだけだ。
「いえ。俺は別に」
「そう謙遜するものじゃないさ。よく言ってくれたミツヤ君。君は、君の意志を貫くんだ。お兄さんのためじゃなくってもいい。自分で選び取った道ならば」
そう誘導したのは誰だ、と言い返したくなる。お互いにそう言わざるを得ないところまで来ていた。そこに崇高なる意志など介在しない。狡猾な計算だけだ。
ミツヤはちらりと兄を見やる。兄を利用してのし上がろうとしている。これは裏切りだ、とミツヤは感じた。肉親に対する最大の裏切り行為。ミツヤは決断の瞬間、兄の姿を見なかった。
「俺をウィルに入らせてください」
ミツヤは頭を下げた。スギモトが、「よしてくれ」と口にする。
「君は既に資格を得ている。そのような堅苦しい真似は必要ない」
ミツヤがそっと頭を上げると、「ところで」とスギモトが言葉を発した。
「お兄さんのポケモンを君は使えるのかな」
――ああ、やはりそれか。
ミツヤは予感していただけに、その言葉に即座に頷く事が出来なかった。彼らは英雄の肉親だけが欲しいわけではない。当然、戦力が欲しいのだ。英雄の戦力をもう一度使えれば、強力なプロパガンダになる。ミツヤは首肯した。
「はい。俺の言う事はきちんと聞きます」
「そうか。ならば」
スギモトが書類を差し出す。最初からミツヤが入ってくる事を予期していたかのように、予め必要事項が書かれていた。
「必要な事だけ書いて役所に提出して欲しい。そうすれば後日、構成員の資格があるかどうかの審査が行われるだろう」
審査など、ポーズである事は明白だった。英雄の肉親を迎え入れる事こそが、ウィルにとっては重要なのだ。
スギモトは立ち上がった。
「君は勇敢だな」
「勇敢? いえ、そんな事は」
「いや、亡き兄の意志を継ごうという君の気持ちは強い。賞賛に値する」
ミツヤは聞き流しかけて、思わず顔を上げていた。今、この男は何と言ったか。亡き兄と言わなかったか。
「まだ、兄は生きて――」
「もう長くはないのだろう?」
その言葉を聞いてミツヤは理解した。自分が入ると告げた事こそが、兄の命を絶つ事に繋がったのだと。それがトリガーだったのだ。ウィルはいつでも兄を殺す事が出来た。しかし、そうしなかったのは建前と肉親への配慮だろう。だが、ミツヤ自身が兄を踏み台にしてウィルに入る事を決意した。それによって食い潰すだけの兄は必要なくなった。英雄は捨て去られたのだ。
ミツヤは顔を伏せて、「はい」と呟いた。スギモトが時計を確認する。
「そろそろ戻らなければ。では、また会おう、ミツヤ君」
スギモトが病室から出ると、連れて来ていたウィルの構成員達も帰っていった。帰る直前に、一人だけ、「残念だったね」と告げた構成員がいた。
何が残念なものか。自分は兄を売って居場所を得たのだ。
「俺は……」
ミツヤは膝に置いた拳を握り締める。爪が掌に食い込んだ。痛みよりも自分の恥ずべき所業が勝った。もう取り返せない、引き返せない道を選んでしまった。
ミツヤは兄へと視線を向ける。兄は呼吸器を一定のリズムで曇らせている。まだ生きている。その命を摘み取ったのだ、自分は。消えない罪悪としてミツヤの中へと刻み込まれる。
――これが最初の裏切りだったのだ。
ミツヤから分離した彼の意識がそう告げる。白い病室が闇に包まれ、自分の姿が一点として消えていく。彼は振り向いた。黒白の眼差しの絶対者が彼を見据えている。
――これより以前の裏切りはない。
彼が告げると、絶対者の眼差しが細められた。断罪の時だ、と彼は感じていた。自分は幾つもの裏切りの上に成り立っている。卑しい人間だった。命を踏み台としか思っていない。たった一人の肉親の命すら、居場所のために捧げてしまった。自分に残っているのは虚無だけだ。
――ああ、だからか。
彼は理解する。闇が広がっているのはそのせいだ。自分の心の中だからだ。無辺の闇は彼の心そのものだった。絶対者の眼差しが口にする。
――死を。
彼は両手を広げた。甘んじて受けようと感じていた。数多の人々を裏切り、何一つ信じられなくなった濁った自分を浄化してくれるのならば、どんな罰だっていい。
彼は目を閉じた。闇の中に闇が上塗りされる。黒白の眼差しの放つプレッシャーがそれでも皮膚を焼くのが感じられた。きっと次の瞬間には、身を貫く雷鳴が響き渡る。断罪の炎に焼かれ、自分はようやく人並みになれる。その安堵に口元を綻ばせたその時だった。
――ミツヤ。
自分の名を呼ぶ声が波紋となって広がった。誰だ、と確認する前にまたも響き渡る。
――ミツヤ。
幾つもの声が重なり合って響いていた。どれも聞き覚えがある。
――エドガーの旦那?
声の位相が変わり、今度は違う声音になった。
――ランポ?
黒白の眼が開かれ、声の根源を探そうと周囲を巡る。闇の表層でオレンジ色の光が瞬いた。
その直後、闇に皹が入った。亀裂から一本の白い手が伸びる。光の手だった。彼は目を見開いていた。まるで救いの手のように見える。だが、自分など救う価値がない。一体誰なのか。彼は尋ねていた。
――俺なんか救っても価値はない。お前は誰だ?
彼の問いかけには応じず、彼の名を呼ぶ声が幾重も響き渡る。その中の一つが兄の声を含んだ。
――兄さん。
裏切ってしまった兄。自分のせいで命を絶たれた存在。彼は自嘲の笑みを浮かべた。兄が救いに来るはずがない。来るとすれば罰を与えに来るのだ。彼は光の手から背を向けようとした。その時、新たなる声が響いた。
――ミツヤさん。
その声に彼は振り向いた。声の主はユウキだったからだ。憎い、自分の居場所を奪った人間。しかし、自分もまた他人の居場所を奪いながらこれまで生きてきた。どうしてユウキを責めようとするのか。どうして許せないのか。答えは出ている気がした。
――俺は、似ているお前が許せないんだ。
自分の鏡像が存在する事に対する嫌悪。鏡像が自分以上にうまくやっている事に対する嫉妬。ミツヤは自身の身体を抱いた。眼から白い雫が流れ落ちる。波紋となって広がり、言葉が返された。
――救うな。価値なんてない。
――価値とか、そんなんじゃないんですよ。
ユウキの声にミツヤは顔を上げた。光の手が黒白の瞳に見据えられ、雷鳴が響き渡った。紫色の雷が光の手を貫く。光の手が痙攣し、闇の外側へと戻りそうになった。しかし、光の手は諦めなかった。しゃにむに自分へと手を伸ばす。光に包まれたその全体像が露になった。
兄の姿を取っている。自分が裏切った存在そのものが、自分を救おうとしている。
――来い!
複数の人の思惟の声を重ね合わせ、光が呼びかける。彼はハッとして手を伸ばした。絶対者が言葉をかける。
――やめろ。貴様はここで罰せられる。
その言葉に身が竦みそうになったのも一瞬、光のほうから彼の手を取った。しっかりと掴んだその手からは人の温もりが感じられた。
――振り向け。貴様の犯した罪を思い出せ。
絶対者の声に彼は振り返りそうになったが、光が強く抱き寄せた。
――ミツヤ。
兄の声だった。ミツヤは黙って聞いていた。
――お前には帰る場所がある。信じてくれている人達がいる。囚われるな。
ミツヤは光が指し示す闇の皮膜の先を目指した。海面のように揺らいでいる。ミツヤが手を伸ばすと、足首を鋭角的な痛みが襲った。絶対者の放った闇が足を掴んでいた。
――逃げるのか。
その言葉にミツヤが逡巡を浮かべていると、光が絶対者へと向かっていった。光の声が弾ける。
――行け、ミツヤ。お前には信じるものと未来がある。
絶対者と光が交錯し、絶対者の放った槍のような闇が光を貫いた。彼はそれ以上見ていられなかった。闇の海面へと手を伸ばす。そこから虹色の声が溢れ出して、彼の存在を認める声が降り注ぐ。
――ミツヤ。
――ミツヤさん。
ああ、そうか、と彼は感じた。
――俺は他人を信じていいんだ。
その言葉に彼の意識が光に包まれる。深海から上昇するような感覚と共に、彼はミツヤとして世界に生を受けた。