第四章 三節「誓い」
「嫌ですよ。俺は」
ランポの言葉を皆まで聞かずに、ミツヤは椅子に座ったまま足を組んだ。ランポはミツヤを見つめ、「もう決定事項だ」と告げる。
穏やかなジャズの調べが流れ、「BARコウエツ」の中にはチーム全員がそれぞれの椅子に座っている。ランポはいつもの定位置のカウンター席から全員を眺めていた。
ランポが言ったのは、これから行われる作戦についてだった。カシワギ博士なる人物、または研究データを確保し、それを組織の管理下に置くというものだ。ミツヤにとってしてみればほとんど対岸の火事に等しい作戦内容だった。自分はバックアップ専門だ。前に駆り出されることはないだろうと適当に聞き流していると、ミツヤの名前が呼ばれ、目をしばたたいた。
「お前にはユウキ、エドガーと共に研究所へと行ってもらう」
その言葉に対し、否定の意味を込めた声を返したのだ。しかし、ランポが聞き入れる事はないと分かっていた。一度決めた事は曲げない、強い信念の男である事は知っている。それでもユウキとのチームを組めというのはミツヤにとって面白い話ではなかった。
「嫌です」
もう一度、はっきりとした口調で告げる。ランポは息をついて、「ミツヤ」と宥めるように名を呼んだ。ミツヤはノート型の端末を手で叩き、
「これが俺の仕事のはずでしょう? 前に出るのは御免ですよ」
「ミツヤ。今回俺は万全を期して臨みたいと思っている」
説得の口調にミツヤは唇を尖らせた。
「嫌なものは嫌なんです」
子供の抗弁のような口調だったが、ミツヤにはどうしても譲れなかった。ランポが説得の言葉を探している間に、エドガーが目線を向けた。
「ミツヤ。わがままを言うな。どの道、これから先はチームなんだ。チーム名も手に入ったんだし、俺達は団体で動く事が多くなる」
――そのチーム名だって、気に食わない。
口にしようとしたがさすがにそれは憚られた。ユウキが窺うような視線を向けてきている。ミツヤは苛立ちを含んだ口調で、その眼を追い返そうとした。
「何見ているんだ、新入り」
ユウキが、「いえ」と首を振って視線を引っ込める。澄ました様子が気に入らない。
「研究所はチャンピオンロード付近だ。それなりの強敵が現れる事も考えながら戦ってもらいたい。だからこそ、ミツヤ、お前の力が必要だ」
「ここでウィルの情報をかく乱してやればいいでしょ」
「コウエツシティ内部ならばそれも可能だろう。しかし、今回は外だ。一瞬の判断の遅れが命取りになる」
ランポの声に、ミツヤは首を横に振った。どうしても承服出来なかった。
「ミツヤ。文句を言っているのはお前だけだ。前に出たくない理由は知らん。だが、そのせいで作戦遂行が遅れる事は一番あっちゃいけないんじゃないのか」
エドガーの声にミツヤは顔を伏せた。理屈では分かっている。しかし、何かが認めようとしない。ミツヤは顎をしゃくって、
「どうして旦那とランポじゃ駄目なんですか? 今までだったらそうだったでしょう」
「俺はユウキに経験を積ませたい。そのためにはお前が先輩として前に立ってくれる必要がある。新入りを育てるためだ」
それが気に入らないのだ、とミツヤは口にしかけて呑み込んだ。ユウキのためにどうして自分が動かなくてはならないのか。しかし、この場で駄々をこねているのはミツヤだけだ。このままでは示しがつかない事も分かっている。ミツヤは鼻から長い息を吐き出した。
「……分かりましたよ。やります」
「よく言ってくれた」
ランポが立ち上がり、ミツヤの肩を叩く。ミツヤは不思議と安心出来た。ランポに認められている。それだけで自分の中から衝き動かす原動力が湧いてくるような気がした。ランポはしかし、ユウキへも歩み寄り、「よろしく頼む」と肩を叩いた。
それを見た瞬間、ミツヤの中で何かが瓦解する。期待されているのは自分だけではない。自分は何ら特別な存在ではない。その現実が重く圧し掛かる。ミツヤは睨む目をユウキへと据えた。ユウキは気づいていないようだった。
ランポがポケッチを突き出す。
「今から作戦概要と研究所の地図を送る。極秘作戦だ。くれぐれもばれないようにして欲しい」
赤外線通信でポケッチへと作戦概要と地図が送られてくる。ミツヤはノート型端末を開き、その座標を確かめた。しかし、研究所の類はなかった。ミツヤが手を上げる。
「ランポ。研究所なんてタウンマップにはないですけど」
「タウンマップには記されていない、非公式な場所だ。R2ラボと呼ばれている」
「R2ラボ、ねぇ」
ミツヤはノート型端末のキーを叩いた。ミツヤの端末は万能機具だ。あらゆる情報機関へとハッキングが可能である。R2ラボと呼ばれる場所は数年前に開設されているが、チャンピオンロードにある事などの公式記録は抹消されていた。
「公式にはない研究所ってわけですか」
「ああ、それなりに強くなければ辿り着けないチャンピオンロード付近にあるというのも大きい。見かけても研究所だと一目で判断は出来ないそうだ」
ミツヤはさらに詳細検索をかけた。リアルタイムの衛星画像から研究所を探そうとする。拾われてきた画像には、赤茶けた大地と山脈が映っている。チャンピオンロードだ。その中に建築物の類はない。しかし、一部分だけ明らかに作為が施された箇所を見つけた。一部分のドットが剥がれている。その部分をミツヤは分析にかけた。緑色の線が走り、解析された画像には白亜の建築物が建っていた。これがR2ラボなのだろう。
「本来はリヴァイヴ団の研究所ではない。表にはポケモン遺伝子工学の研究所として名が通っているが、リヴァイヴ団のある重要な機密を握っている。その機密がウィルに漏れた可能性がある。恐らくはウィルの実働部隊が動き出しているだろう」
ミツヤはウィルのログへとアクセスした。つい先ほど、ウィルが特別権限を発動させて、現地に特別戦闘構成員を派遣したとある。
「戦闘構成員……」
ミツヤが苦々しく呟く。その言葉の裏に隠された意味を解する事が出来るのはランポだけだ。ランポは、「気にするな」と小さく言ってくれた。
「ウィルとの戦闘を考慮してこの編成にした。最早、異議はないな」
「異議なんて、ナンセンスだぜ、ランポ」
エドガーの声に、ユウキも頷いた。ミツヤは肩越しにランポを見やり、軽く頷く。
「では今晩のフェリーに乗ってもらう。作戦場所はチャンピオンロードR2ラボ。エドガー、休みがない形になってすまない」
「謝るなよ。忙しいほうが性に合ってる」
エドガーが拳を固めて胸元を叩いた。
「その前にお前らには着替えてもらわなければな。スーツ姿で行くわけにはいかないだろう」
ユウキとエドガーはまだスーツ姿だった。エドガーが気づいて、「おっと、いけねぇ」と呟く。
「ユウキ。着替えてくるか」
その言葉にユウキは頷き、エドガーと共に店の奥へと入っていく。ミツヤは横目にそれを見送っていた。その視線を察したのか、ランポがミツヤへと歩み寄ってきた。ミツヤは身を固くする。
「戦闘構成員との戦いになった場合、お前には辛い選択をさせる事になる」
「いえ。俺はもうリヴァイヴ団で戦う事を決めましたから」
「それでも、配慮がないと思われても仕方がない」
ランポが頭を下げる。ミツヤは顔の前で両手を振った。
「そんな。謝らないでください、ランポ。あなたはリーダーらしく、気丈にしていればいい」
ミツヤの言葉にランポは、「そうもいかないさ」とフッと口元を緩めた。
「俺とて人間だ。過ちかと思う瞬間はある。お前が気分を害しているのは知っている。ユウキの事だろう」
その名前が出て、ミツヤは思わず渋面を作った。ランポが息をついた。
「お前はユウキの事が気に入らないらしいな」
「腹の知れない奴だからですよ」
ユウキと最初に会った時、握手の瞬間に得体の知れない人間だと感じた。テクワとマキシはまだ内面が読めたが、ユウキだけは分からない。正体が知れない事は忌避へと繋がる。
「お前の過去を、俺は知っている。だから、俺はお前こそユウキと分かり合うべきだと思っているんだが」
「冗談じゃない」
ミツヤは肩を竦めて、端末へと向き直った。背後でランポがため息をついたのが分かった。
「理解出来ないわけじゃない。ただな、そういう感情を作戦に持ち込む事は三流だと考えている」
「分かっていますよ。戦いになったら、バックアップはしますし、きちんと戦います」
そう、分かっているのだ。しかし割り切れない部分があるのもまた事実だった。ランポはその言葉を聞いて、安心したようだった。
「お前ならばうまくやってくれると思っている。エドガーも傷を負っているからな。サポートは任せる」
「あの新入りが出しゃばらなければ、の話ですけどね」
冗談めかして放った声に、ランポは微笑んだ。
「あいつはそれほど馬鹿じゃないよ」
――どうだか。
心の中で毒づく。ミツヤが端末のキーを叩いていると、端末の向こう側のテーブルに何かが立っている事に気づいた。端末を閉じてじっと見つめると、それは絶対者の眼を持った鳥ポケモンだった。
どうしてここにいるのか。ミツヤは背後を振り返る。ランポはカウンター席に座ってカクテルを飲んでいた。テクワとマキシへと視線を向ける。二人は何やら談笑しており、鳥ポケモンに気づいた様子はない。
自分だけがこの場での異常に気づいている。ミツヤは声を上げようとしたが、その前に絶対者の声が差し込まれた。
――その前は?
「ミツヤ、だったか」
ランポの声に導かれて、ミツヤは顔を上げた。先ほどまでよりも少しだけ髪の短いランポが椅子に座っている。ガラス張りになっており、手を伸ばす事は出来なかった。ガラス越しのランポはミツヤへと声を投げる。
「お前は、本当に覚悟を持ってきたんだな」
ミツヤは応じる声がなかった。覚悟、と問われると逡巡する。ミツヤが返事に窮していると、ランポが言葉を発した。
「お前が古巣を捨ててリヴァイヴ団に入る、という決断をした事は、俺からしてみれば大きな事だ。もちろん、組織からしてみてもだ」
ミツヤは俯いている。膝の上で握り締めた拳へと視線を落としていた。
「俺は、裏切り者なんです」
発した言葉は震えていた。ランポは黙って聞いている。ミツヤは言葉を続けた。
「あの場所で戦い続けるのも嫌で、でも何も知らない一般人には戻れなくって、だからリヴァイヴ団に入ったんです。ウィルの情報を持って」
ミツヤの言葉にランポは、「なるほど」と言ってから、手元の資料へと視線を落とした。そこにはミツヤの知る限りのウィルの情報が書き込まれているはずである。
「これがリヴァイヴ団に入るための条件、というわけか」
同時に自分を縛る鎖だ。ウィルの情報を出さなければ自分に価値はない。入団試験をせずにリヴァイヴ団に入団するにはそれしか方法がない。自分の有用性を示す事、それだけだ。
「だが、ミツヤ。お前は迷っているな」
ランポの声にミツヤは顔を上げた。ランポは真っ直ぐな鳶色の瞳でミツヤを見つめる。
「ウィルを出て後悔していないと言えば嘘だろう。お前は、何かに縛られるのが嫌だったはずだ。その象徴を持っている」
ミツヤの手持ちの事を言っているのだと知れた。その情報も事前にランポの下へと行っているはずだ。ランポは資料を読み上げた。
「P1部隊。その初期メンバーの肉親、だったな。リヴァイヴローズのテロに出撃した部隊の生き残りが確か……」
「兄です」
ミツヤは搾り出すように告げた。四年前のリヴァイヴローズでのテロ工作を止めるために、兄が所属するP1部隊は出撃した。宇宙空間でのポケモンによる戦闘は初めての事だった。兄はその中でリヴァイヴローズ内からポケモンを操っていたが、爆発テロに巻き込まれ重傷を負い、その後死亡した。ミツヤに残されたのは兄の遺産であるポケモンだけだった。
「俺は兄の権限を使ってウィルに入りました。小賢しいんです。ウィルでやれないなと思ったら、その情報を売ってリヴァイヴ団に転身しようなんて」
自分でも情けなくて目頭が熱くなる。恥じ入るようにミツヤが再び顔を伏せると、「では、この情報がお前を縛るものだという事か」とランポは口にした。
ミツヤが顔を上げると、ランポは書類を破った。何をしているのか、とミツヤはガラスに手をついた。ランポは書類をびりびりに破り、捨て去った。
「これでお前を縛るものは何もないな」
ランポの言葉にミツヤは信じられない面持ちでその姿を眺めていた。ランポはミツヤを見返して、言葉を発する。
「これで真に覚悟して、リヴァイヴ団に入るかどうかが決められる。情報なんかで踊らされているんじゃない。やるなら躍らせてみせろ」
ランポが片手を伸ばした。ミツヤはガラス越しにその手を合わせる。
「約束しよう。お前を裏切り者として扱わない。覚悟を胸に抱いた人間ならば、俺は対等に扱う」
ランポの言葉にミツヤは閉口していた。この男は何を言っているのだ。そのような甘い考えや理想論で組織を渡っていけると思っているのか。しかし、ミツヤの胸を熱くしたのはその理想論だった。青臭い、何の価値もないような言葉がミツヤの胸に突き立った。
――覚悟。
ミツヤはホルスターからモンスターボールを取り出す。自信の手持ちについては既にランポが知っているはずだったが、ミツヤは口にしていた。
「このポケモンは、存在自体が裏切りの象徴みたいなものです。リヴァイヴ団でこれを使えば、俺は裏切り者だと一瞬でばれてしまう」
「ならば、それは信頼出来る相手の前だけで使う事だ」
「……信頼」
「そう」とランポはミツヤへと語りかけた。
「もう一つ、約束しよう。これは誓いだ。お前は、そのポケモンを本当に信頼出来る相手の前以外では使わないようにしろ。もし、俺が死の淵に立たされたとしても、信頼出来なければ使わなくてもいい。お前の意思だ。それを大事にするんだ」
信頼、それはとても難しい言葉だった。ミツヤはモンスターボールへと視線を落とす。兄の遺産のポケモンであり、ウィルに所属していた事が確実に分かる忌むべきポケモン。その使いどころを強制させられるものだとばかり思っていた。リヴァイヴ団に入ったからにはその実力を存分に活かせと言われるものだと感じていた。しかし、ランポはそう言わない。ランポの言葉にはミツヤの意思をどこまでも尊重させる、という優しさが見て取れた。ミツヤは椅子に座り込み、ランポを見て、「あなたがリーダーなんですか?」と尋ねる。
「そうだ。不満か?」
その言葉にミツヤはゆっくりと首を横に振った。
「あなたみたいな人が俺のリーダーでよかった」
「それはこれから決める事だ。まだ俺は口八丁でお前を丸め込もうとしているだけかもしれない」
「それでも、あなたはいい人です」
口にした言葉に、もう何年ぶりだろうと感じていた。他人をいい人間だと感じるのは。ウィルにいた頃は全てを疑い、罰する事に命をかけていた。他人への信頼よりも、自分への信頼のほうが強い。それは孤独な生き方だった。しかし、ランポはそれ以外を歩ませてくれる。ミツヤは直感的にだが、そう感じていた。
その時、ランポの背後に何かが立っている事に気づいた。ミツヤが目を見開く。それは絶対者の目を持つ鳥ポケモンだ。
――どうして、ここにまで。
ミツヤがうろたえて後ずさる。ランポが、「どうした?」と尋ねた。ミツヤが指差すと、ランポは振り返るが、「何もないじゃないか」と言う。
そんなはずはない。確かにそこに鳥ポケモンはいるというのに。黒白の瞳が感情を灯さずに告げる。
――その前は?