第三章 四節「灰の雪」
スタッフ専用通路に入って一時間が経ったが、スタッフとすれ違う事はなかった。
幸運だと思うしかなかったが、エドガーは緊張の糸を緩める事はなかった。腰のホルスターにあるモンスターボールはいつでも射出出来るように手を添えていたが、実際問題、エドガーが廊下で戦闘状態になるのはありえない。
通路の幅を見やる。約二メートル。高さも目測で三メートル前後。これでは自分のポケモンはまともに戦えない。
エドガーはそのために鍛えていた。自分のポケモンが戦える状況というものは限られている。トレーナーが常日頃から鍛えておかなければ、即座に狙われるだろう。
対ポケモン戦よりも、対トレーナー戦に自信があった。相手がポケモンを繰り出すより先に昏倒させるくらいの技術は持っているつもりだ。突き当たりに行き当たり、道を折れ曲がると扉があった。厳重な扉で認証パネルが配されている。エドガーは懐からカードを取り出す。ランポから支給されたのとは別のカードだ。エドガーは潜入任務が多いため、あらゆる鍵を無効化するカードキーを持っている。ミツヤが作ったもので、カイヘンのセキュリティならばエドガーに入れない場所はなかった。カードキーを通すと、『認証しました』というアナウンスが響き、扉がエアロックを解除してゆっくりと開いていく。飛び込んできたのは予想通り、データバンクらしき部屋だった。黒い筐体が並んでおり、緑色の電子の文字の羅列が流れている。エドガーはその中の一つに歩み寄り、端子を探した。端子を筐体下部に見つけ、懐から取り出したメモリースティックを繋げる。ポケッチを翳すと、赤外線通信でデータが流れ込んできた。エドガーはポケッチの通信を開く。
「ミツヤ。聞こえているか?」
『聞こえている。ついでに情報もね。うまくいっているみたいじゃないか。予定時間よりも随分とお早いようだが』
「皮肉はいい。使えるデータかどうかすぐに調べろ。こっちはケツに火がついている」
『へぇ。それは誰のせい?』
「新入りに決まっているだろうが。余計な事をしやがった。ランポにはもう伝えたが、援軍が来る可能性が高い。包囲されれば出にくくなる。早目に済ませるんだ」
『はいよ』
ポケッチの通信に集中していると、不意に背後に気配を感じて振り向いた。瞬間、エドガーの鳩尾へと黄金の雷撃を纏った拳が放たれた。振り向いたエドガーがよろめき、筐体に腕をつく。
『エドガー? どうした?』
ポケッチ越しに尋ねてくるミツヤの声を遮るように、エドガーに一撃を食らわせた影が咆哮した。エドガーは今にも閉じそうな視界の中でそれを見やる。
黒と黄色の縞模様を配した巨体だった。腕は丸太のように太く発達しているが、脚は短い。丸みを帯びた突起物が一対、角のように生えている。さらに背面からは黒い触手が伸びていた。一対で先端が赤い。それと同じ、赤い瞳に闘志を滾らせたそれはポケモンだった。電気タイプの二段進化ポケモンであり、豪腕の持ち主である。
「――エレキブル」
その名を部屋に入ってきた何者かが呼んだ。紫色の髪をした優男だ。しかし、それがただの優男ではないのは肩口にある「WILL」の刻印を見ても明らかだった。
「……ウィルの犬か」
一言発するたびに痛みが増していくようだった。意識が暗闇に閉じそうになる。エドガーは筐体にもたれて、何でもない自分を演出した。懐から煙草の箱を取り出す。火を探そうとポケットをまさぐっていると、エレキブルが指を差し出した。太い指だ、とエドガーが思っていると、そこから放たれた糸のような電流が煙草の先端に至り、火を点けた。エドガーは煙を吸い込みながら、「随分と気が利くじゃないか」と今にも崩れそうな笑みを浮かべた。ウィルの構成員は、「まぁな」と余裕の笑みを浮かべる。
「一服くらいはさせてやろうという粋な計らいだ。ありがたく思え、リヴァイヴ団のネズミ」
構成員の言葉にエドガーは鼻を鳴らした。震える手で煙草を握り締める。最悪の状況だった。退路は塞がれている上に、部屋の寸法を眼で測ると、自分のポケモンではまともに戦えそうになかった。ポーズとしてホルスターに手をかける。構成員は、「それにしても」と口を開いた。
「エレキブルの一撃を食らって昏倒しないとは。伊達ではないな」
「そんじゃそこらの鍛え方じゃないもんでね。それにしても、遅いな」
「何がだ?」
構成員が首を傾げる。エドガーは紫煙をくゆらせながら、「時間がだよ」と言った。
「俺がここに入るのを待っていたみたいなタイミングだな」
「ああ、そうさ。事実、待っていた。襲撃をかけるにはどのタイミングがいいかってな。私はね、一撃が好きなんだよ。一撃で相手を沈める快感というものがね」
「……趣味が悪いな」
吐き捨てるようにエドガーが口にすると、構成員は、「君には分かるまい」と返した。
「ホルスターからポケモンを出さないところを見ると、それは飾りか? まぁ、戦えぬ理由というのも充分に考えつくが」
「どうかな。俺もお前と同じ考えかもしれないぞ」
「と、いうのは?」
エドガーは鳩尾を押さえた。背骨まで突き抜けたかと思った一撃だ。触れるだけで内臓にダメージが蓄積しているのが分かる。
「一撃でお前を殺そうと思っているって事さ。そのための準備、かもしれない」
「ハッタリだな」
「どうかな」
エドガーは不敵な笑みを浮かべる。それを見て構成員が眉をひそめた。これでいい、とエドガーは胸中でほくそ笑む。相手がこちらの手を警戒して手を出さない状況を利用する。エドガーはポケッチを通話モードにしたままである。当然、ミツヤにこの状況は伝わっているはずだ。程なくランポにも伝わるだろう。そうなれば、こちらのものだ。相手は見たところ一人。ならば、ランポ達に敵うわけがない。あとは、相手がどの程度までエドガーの目論見を予測するか。エドガーが黙っていると、痺れを切らしたのか、エレキブルが踏み込もうとした。それを、「待て、エレキブル」と構成員が制する。
「ここで殺しても後始末が大変だ。それよりもいいステージがある。とっておきだ。お前も好きだろう、エレキブル」
その言葉に、エレキブルは口角を吊り上げた。何事なのか、とエドガーが思っていると、エレキブルが踏み込んできた。横っ面へと電気を纏わせた一撃が見舞われる。エドガーの身体が傾いだ。それでもまだ倒れない。足に力を込めて踏みとどまる。それを見て満足そうに構成員は、「ほう」と声を上げた。
「まだ倒れないか。これはまさに打ってつけだな。よし、このまま運ぶぞ。腕を押さえつけろ」
エレキブルがエドガーの背後に回り、両腕を締め上げる。それだけで筋肉が軋むのが分かった。構成員がゆっくりと歩み寄り、腰から銀色の手錠を取り出す。エドガーは抵抗する事も出来ず、両手に手錠をはめられた。歯噛みして、睨む眼を向けると、構成員がいやらしく嗤った。
「上玉だ。今宵のショーは盛り上がるだろう。行くぞ、エレキブル」
エレキブルにいとも容易く抱え上げられ、エドガーは部屋から運び出された。抵抗しようと身をよじったが、相手はこれ以上攻撃を加えようという意図はなさそうだった。くわえた煙草から灰が床へと落ちる。まるで踏みつけられた雪のようだった。